Nara Akira http://www.sunda-wind.net
ジャカルタJakarta 南の喫茶店Epicureanさんに呼ばれ、出かけて行って同好の士に研究成果を説明してdiscussionし、楽しい時間を過ごしgembiraました。なお、FacebookのNara Akiraにも掲載されています。
(向かって右端が、マスターのMirza Jaka Suryanaさん)
わがホームページをご覧の方はご承知のように、南米アマゾンAmazonの一部部族のDNAと豪アボリジニAborigineなど南印に至る地域の人々のDNAは、どこよりも非常に近いsamaことが、ハーヴァード医大の研究Analisis oleh Harvard Medical School等で分かりました。
従って、現生人類の出アフリカdari Afrika後(10万年前頃)のこのアジアの地域の人々Orang -orang dalam elipsをパンカルPangkal(元々のの意)と呼んでbernama認識しました。
(線の外と内に厳密な違いはありませんので点線にしています。)
彼らはやがて北方の東ユーラシアEurasia Timurにも進出展開tersebarしていき、日本にも達したtiba Jepang jugaことになります。
そして太古の諸事象を検討していきますと、今は過半が海の下に沈んでいますが、インドの2倍2 kali lipat Indiaと言われるアジアの楽園Sundalandが中心pusat Pangkalであったことがうかがわれます。
当国の大3島tiga pulau besar、マレーシアMelayu、ボルネオBorneoはもとより、ミャンマーMyanmar、タイThailand、カンボジアKamboja、ラオスLaos、ベトナムVetnam、フィリピンFilipinaの一部bagianが含まれます。
ところが、今回の会合を機に若い人pemudaから、どうしてkenapaこの多くの国banya negaraが含まれる地域が一エスニック族Sundaのlandという名なのだ?という素朴なクレームがきましたdimasarahkan。
実は当地の同好会では、既に以前からベテランveteranからも新名の提案usul nama baruさえなされています。
此処に住んでいて、エスニックethnicに関する問題が大変、sensitiveであることは感じています。
この国は、国連以上daripada UNに立派なbaik「多様性の中の統一」Bhinneka Tunggal lkaを標語に、長い苦労の歴史を重ねて今日に至っています。
インドネシアの国章 – Wikipedia
そもそもは、この地域の多くの国が植民地であった時代Era Colonialに統治国の学者が名づけたpeneliti Belanda bernamaもので、誤解のもとにもなっており、今はそれぞれが独立国menuju kemerdekaanとなり新たな時代を迎えていますので、替えるべきperlu mengubahと考えます。
私は、わが研究におけるこの地域を示すパンカルPangkalの語を生かし、地形の実態ciri-ciri tanahに即した「半島」とし、以後、アジアの楽園パンカル半島 Jazirah Pangkal(略語はJazpan)、英語はPangkal Peninsulaと呼称することといたします。
(パンカル半島Jazirah Pangkal 図)
この地域daerahは、今も往時を思わせる賑やかramaiなものですし、伝統を受け継いだ歴史的遺産warisan sejarahも沢山あります。
私たちの源流huluというべきこのパンカルPangkal地域の万年の先史prasejarahについて、新たな気持ちで引き続き研究penelitianしていきます。