ジャワ原人の里(博物館の表現)は、ジャワ島の中央部ソロの北20kmの川と平野のサンギラン地域にあります。
バンドゥンからジョグジャ(独立時、蘭に抵抗する一時は臨時首都)、ソロへは長距離バス、ソロからサンギランは市内バス、そしてサンギランと書かれた門をくぐってからはバイクタクシーで動きます。
バイク運ちゃんに、まず発掘現場に向かい、次いで博物館へ行ってくれと言うと、遠いだろう、雨で土砂崩れが起きてるとか渋ってました。物価安のソロで破格の数字(1,000円)を巡るやりとりとなったので、剽軽さが戻り動き出しました。
運ちゃんは途中、マンモス象が外に飾られている新築博物館で聞き、細いコンクリート道を曲がりくねりながら灌木の林を進み、2つ目の新築博物館を過ぎて一寸行ってダメだとなりました。鉄砲水で道が壊されています。
やむなく小休憩のコーヒーにし(彼らはラマダン)、運ちゃんと店の村人に聞きました。
「この辺に洞窟はありますか?」
「ないね~。」
確かに子供のころの経験から、こんな所の土質で横穴洞窟を掘ったら雨が降らなくても落盤しちゃうなと思いました。
それでは、どういう環境だったのだろうと言えば、博物館の展示では、今より植生は少なく、ライオン、トラ、サイ、ワニ、野牛など多くの動物がいたようです。
サンギランでは洞窟は描けず、何しろ証拠がないので、立ったり座ったり所在なさげです。もっと多くの老若男女がいたはずですが、皆、こうだったんでしょうか。コワイ動物もいますし、夜はくる、時に雨も降る、家財道具もあったでしょう。涼しい朝夕に動き回り、暑い日中の時間は休んでいたでしょう。
展示に近づいて聞き耳たてれば、原人たちもバカにするなとブツブツ言っているようですし。
それではどうも変だということで、フランスでは、原人も木と石で粗末な小屋を作り、火を使っていたという例が紹介されています。
生活の場である遺跡は、既に報告したタイのバンチェン遺跡もここも川そばです。そもそも見つかっている遺跡から原人の数を推測すれば、洞窟のある他の地域でも、水が得られ食料を得やすい川そばの都合のいい洞窟の数及びスペースとは全く合わないでしょう。
狩猟採集、漁労では、あたかも休耕田するように川そば各地を転々としていたとしても、そこでは今に通ずる根拠のある暮らしをしていたでしょう。
(上記の資料写真は、ジャワ原人博物館から)
火と道具を手にした数十万年前の原人はもとより、アフリカを出、複雑な言葉を身につけ更に進化していた数万年前の現生人類は、洞窟ではなく主に川そば平地に居たとイメージを修正すべきでしょう。洞窟に住む者もいたということです。
証拠が残り易い洞窟から、見つけ難い平地への生活イメージの転換は、例えれば防衛という軍事的な山城から、軍事に加え統治管理の社会性を有する平城に移るくらいの大きな意義の違いを時代の見方にもたらすと考えます。
大半が平地で生活していたとなれば、縄張りなど隣近所との様々な課題・問題を生じ、社会の階層、交易や冠婚葬祭、争いなどの相互の関係の処理をもたらし、文化・文明への助走です。家畜やバナナ栽培も始まっているでしょう。
驚くべき巨石構造物を造り、見事なレリーフを残した11,500年前頃のトルコ東南部の石器人によるギョベクリ・テペ巨石遺跡は、平地で暮らした彼らが、助走からいよいよジャンプしたかという様子を示しています。
3月末、当地科学院LIPIで開催されたグヌン・パダン及びギョベクリ・テペ合同実証セミナーで、そう実感しました。