右図世界が驚いたニューメキシコでの2.3万年前の子供などの足跡発見で、「最初のアメリカ人」に関し、青い線の沿岸移住図が動画に登場しています。
前回アメリカ教授の「縄文人ではない」見出しをミスリードと指摘しましたが、基本的には、左図青A日本列島ルート(A-1行くて次々に島が見える千島・クリル列島、A-2オホーツク海沿岸北上)、又は赤Bユーラシア東部内陸東進ルート(シベリア狩猟族などが)が挙げられます。ここで、日本でも新聞は謎と報じ、学校でもよく教えられていない、3.8万年前からの黒耀石を求めた左図下、伊豆の海を行き来した伊豆祖人Proto-Japanese Izu(縄文以前で、勿論鎌倉時代から登場のアイヌではない)の活動を知っていますかということです。東京諸島の神津・恩馳(おんばせ)島の良質な黒耀石が沼津地区や関東、同じく原産地の驚きの長野でも発見され、1.原産地特定と2.年代測定により、史界で認定されています。①当時は海水面が数十m低く、東京諸島の島々が拡大(大島はそれ程でなし)して繋がりが生じ、伊豆半島との間は‟海峡”のようでした。②当時は黒潮が四国沖から早々と東進して離れていましたので今の分岐流の北上は無く、従って海峡を渡ろうとする者が北に流され房総沖から太平洋にもっていかれる漂流の恐れはなく、あれば北からの親潮分岐流でしたから、最狭(17km)部で大島などを目指せば問題無く諸島に至り、帰りも大島からなら半島にたどり着きます。③謎でない一番の事は、諸島側では浜辺を綱でフネを引いて歩けば行きも帰りもずっと漕ぎ続ける苦労はないという実行の可能・容易性です。フネも、伊豆は歴史的に天皇に献上するほどの船材木の良材の産地であり丸木舟は作れ、図の様な動物の皮だったろうという説もありますが、いずれにしても問題なく造れました。操舟は、そもそもが祖人は、下図1. 30-40kmの海を越えて家族が北部九州に達して始まった海民性ある人々ですから、これも問題なく、謎ではないのです。
因みに、黒耀石を一杯積んだフネは、最狭部の大島から漕ぎだすと流され河津(桜の名所)に至ります(図赤点線)が、実はここは次の縄文時代には、黒耀石を加工する有名な工房があった所(見高段間遺跡)なのです。
無論、フネもルートも、海面上昇もあり実証は出来ませんが十分納得でき、はっきりしないから謎であり、記述しない教えないは、学問として「間違いです」。更に、この行き来の注目点は、 ①おそらくフネで行き来したのは専門集団でしよう。誰も彼もが浜に来てフネをしつらえ渡れるものじゃありません。②苦労して木材などを調えてフネを造り、持ち帰った良質の貴重な黒耀石の広域における交易には、個々の行動ではない社会性があります。③この「ダイヤモンド」を巡る活動が、争いも無く行われていたことは、この近くでこの後見られる多数の穴を設けた「陥し穴猟」と共に、指示・差配するリーダーの存在、上下階層すら窺わせ「原始人」ではありません。現在の後期旧石器時代(祖代)を教えている内容はミスリードで、陥し穴猟、環状キャンプ、世界の他より万年早い磨製石器、釣り針などを教えねばなりません。
アメリカ教授は、これらのことをご存じでしょうか、最初のアメリカ人の「沿岸進入説」が主流となった今、海を北部九州へ越えて始まった日本史、この世界考古学史上の金メダルである「伊豆の海の行き来」、そして狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道の暮らしに適応し、北上を続けてカムチャッカ半島沿岸からベリンジアへ、ハワイに続く海の沿岸を、食が豊な処女地の下図緑、昆布ハイウェイルートは、氷期でも内陸より寒くなかったです。
沿岸進入説時代に、この縄文人の先代の北海道祖人が注目の有力候補であることが、ご理解いただけますか。