約4万年前の日本の始まり祖代・祖人Proto-Japaneseに注目し、夏の課題では何処から?そして何処へ?を見て来ました。
さて、活字での日本史始まり時代となれば魏志倭人伝がありますが、実は「曙海」周りが注目な事に変わりがないのです。①目が行く魏、呉・越、燕、北倭、当時の倭の国々であるB1、B1-2、そして千里余の海を越えてもやはり倭種であり東B2でしたが、列島を俯瞰すれば、東・北と南のAが併存していました。今次の北の縄文の世界遺産認定で実証された、A:伝統の縄文的な社会が東・北と南に依然存在する一方、新たな米食によって身長も容貌も変わり戦が多くなって組織化が進んだB社会に区別されます。違いの特徴を示す②人長3尺の記述が注目です。まだアイヌが北から侵入する前の北海道の蕗の下の小人コロボックル(アイヌ伝承)と南方の人々が、近代科学のDNA分析等により、こんなに遠く離れていますが、種族の類似性があることに符合しているのです。更に今、「最初のアメリカ人」先住民が、ベーリング地峡南岸~北太平洋沿岸から入って来た事で指摘され注目される北海道ですから、北千島地域の後の「ルートン」遊動海民とこの「十勝から千島の方へ逃げた小人コロボックル」は、全くあらたな光が当たって注目です。
さて倭人伝に戻れば、④魏と対抗した呉・越や燕などは、実はかつての曙海の沿岸に住んでいたも海民が、海岸線の後退に伴って現在の状況に徐々に上がった痕跡を暮らしに留めて居たことを認識する必要があります。それが、魏から見れば呉越と倭が似ているとなります。曙海の対岸と言うだけでなく、そもそも呉越の沿岸を北上して北部九州に渡海した親戚であることに思いを致す必要があります。倭は一見遠い「燕に服属」すると記述されていますが、西部九州の正に対岸から遠く北上した事になります。また、⑤女王国から船で1年と記述された遠方に裸国、黒歯国があるとされておりながら注目されませんが、まさしくその様子を示すフィリッピン・ネグリトやマレー山地の黒人、また歯が黒くなる檳榔ビンロウを噛むインドネシアからミャンマーに至る広域が該当し、何故、知っている付き合いがあるのかと言えば、これもそもそも倭人祖先が「パンカル海」沿岸地域を通過して来た遠い祖先の地であり付き合いも続いていたであろう事として興味深く、総じて倭人伝は、十分有益な資料と言えます。後は、魏志倭人伝の様な「呉志倭人伝」を、東洋史・日本史学者が山梨の呉鏡などを踏まえてプロジェクト研究し一例を作成すれば、興味深い有益な資料になるでしょう。
これらを見れば、アイヌ・ウポポイの膨大な予算を、コロボックルや「最初の渡米」研究や遺跡遺物の保護・復活、更に、東・北だけでなく南の原郷の世界遺産登録申請や更なる研究に充当すべきであり、学生・生徒向けの資料を作成し、世界にも真実を積極的に発信し、アイヌに関する誤解も正すべきです。