(東京・札幌五輪) 日本史、教室に唱歌「我は海の子」を!

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左上、「曙海」西岸の北東ア平野 “一時的 ” 沿岸列島(NAPTA)丁―2を北上し、約4万年前に、北部九州にフネで家族が30~40kmを渡海して列島史が始まりました。

左下、東進した38,000年(!)前から「伊豆祖人」が、東京諸島南部の神津・恩馳島の黒耀石を求めてフネで行き来し東海・関東で交易していたことは世界先史上の金メダルです。眼前の大島に行きやがて南部に至って発見したのでしょう。実は東京諸島の方は海水面低下で陸地が増えており、海浜はフネを引いて歩き、往路は当時の北からの海流を利用すれば実質は約20kmの往復で、そもそもの始まりの九州渡海を考えれば謎でも何でもないのです。図中、北上して狭くなっていた津軽海峡を問題なく渡海し、3万年前には昆布ハイウェイ沿いの雪と寒気の北海道暮らしに適応しました。

右上、縄文時代には礼文島に渡って暮らしています。右下の北部千島人は、カムチャッカ半島南端にも居て、明治時代に調査に行った東京帝大の鳥居龍蔵を驚かせた旧石器時代のような“遊動”海民の暮らしぶりであり、石器・土器を使い竪穴住居でした。カムチャッカ半島中部の遺跡(1.3万年前)の墓の副葬品が道南知内町遺跡(2万年前)に類似という事を考えれば、明らかに縄文時代以前からと思われ、実はアイヌ(鎌倉時代から)と呼ぶのは誤解を招くので疑問です。北上を続けて、今、「沿岸からフネで入って来た最初のアメリカ人」新説との関りが注目で、既にアメリカの学者には昆布ハイウェイ暮らしの共通性や石器の類似性から、祖人・北海道(Proto-Japanese Hokkaido)を指摘する発表やyoutube動画も出ているのです。

残念ながら、樺太千島交換条約〔 明治8年(1875年)5月7日〕に基づく政策によって、日本政府によって整えられたとは言え、 彼らがルートンと呼んだ占守島地域での長い伝統の暮らしから 全く異なる環境での慣れない色丹島に移住し、カムチャッカ南端の者も露政府によって欧州ベラルーシなどに移住させられ、今、痕跡の追求は困難ですが、DNA研究の価値は大いにあります。さて、この頃は余り歌われない「我は海の子」は、伝統継承の上で重要であり、魏志倭人伝に書かれた海に潜る特性を示す4番まで、子供しっかり教え、海民特性を世界に発信を。

我は海の子白浪(しらなみ)の
さわぐいそべの松原に、
煙(けむり)たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ。

生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の歌と聞き、
千里(せんり)寄せくる海の気(き)を
吸(す)いてわらべとなりにけり。

高く鼻つくいその香(か)に
不断(ふだん)の花のかおりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く。

(今の教科書では、以下は載せていません)

丈余(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて
行手(ゆくて)定めぬ浪まくら、
百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底
遊びなれたる庭広し。



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