(東京・札幌五輪) 日本列島始り史、南から北へ “花綵” に拡がった祖人!

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花を編んで作った綱=花綵(はなづな)のような弧状をしている列島に、私達の直接の祖先である世界現生人類の移住の歴史の歩みが拡がって行きました。南方から海水面が低下して出来ていた「北東ア平野」沿岸を北上して来た、①海辺の民が約4万年前に北部九州に多くの家族がフネで渡海して、列島に拡がりました。

②列島の中央部は広大な関東平野が広がって、象や大鹿、馬、野牛ほか種々の動物がおり、海辺には魚介類もありました。当時は対馬暖流が日本海に流れ込んでいなかったので大雪が降ることのない日本海側も同様の環境で、太平洋側と移住の歩みに差がなく北上していたことでしょう。更に、当時の狩猟・採集生活上の道具となる宝物の黒耀石が、長野八ヶ岳地域に豊富にあり、箱根山麓や伊豆の海を渡った神津島にも良質な物があり世界史に残る海を行き来した最古の航海活動(3.8万年前~:神津島の黒耀石の蛍光X線による原産地同定)をしており、アメリカ先住民のような環状のキャンプ痕跡(栃木)、1mを超える大きさ深さの多数の陥し穴遺跡(静岡・神奈川)など、今の賑わいを感じさせる暮らし振りがありました。

③伊豆の海を行き来した祖人Proto-Japaneseには、狭くなっていた津軽海峡は問題ではなく、また、仙台くらいまでオットセイなどの海獣が南下していましたので、青森までの経験の基盤で一段違う寒気と雪の北海道の暮らしですが、3万年前には適応して(北海道立民族博物館)いました。一方、南西諸島方面では、「曙海」東岸沿いを沖縄の方に南下しましたが、石垣島で2.8万年前の人骨が、そして何よりも宮古島で1万年前の土器のある暮らしが発見されましたが、台湾やフィリッピンの土器はずっと新しく、せいぜい6.5~5千年前ですから、200kmを超える慶良間ギャップをフネで家族が渡って行ったと考えられる驚きです。むしろこちらの土器が向こうに渡って行って伝えられたのではないかとも思われるくらいなのです。

このように列島に拡がった祖人は、⑤千島列島が次々に島が見えていましたし、「昆布ハイウェイ」の同様の豊富な食の環境でしたからプーチンもいませんでしたし、北上を続けて「米臨海」沿岸から「最初のアメリカ人」Nativesに関わっただろうと考えられます。

当時のベーリング地峡が、北極海の冷水の流れ込みをStopしていましたので、正にハワイに繋がる海辺でした。⑥さて現在の北海道史は全て、当時は陸続きだった沿海州・樺太の方からマンモスを追って北海道に人が入って来たことを最初のことのように書いていますが、出アフリカの現生人類の歩みルートの遺跡を考えれば、これは正すべき誤りで、遺跡が示す最初は3万数千年前には暮らしがあった青森からの北上です。

更によく見れば、北方の沿海州・樺太地域に2万年前という遺跡は見つからず、最初の北方からの痕跡は氷河期が終わっていった1.8万年前頃、消えたマンモスではなく中・小型動物の狩猟用の細石器文化が始まりなのです。無論、シベリアやアメリカ新大陸のように、狩りで傷ついたマンモスの骨やマンモスの骨と使っていた石器などが共伴して見つかるということも全くありません。北方からの痕跡は、かつて大昔に北海道にマンモスはいたが、沿海州の方からマンモスハンターは来なかったというのが現在の現生人類の遺跡・遺物の示すところです。このように、誤りを推測で記述する一方で、南方から拡がった歩みははっきりしないとして、世界史上の金メダリストを原始人扱いの僅かの記述で済ませているのが現在の教科書の大問題で、子供に世界に誤解を与えています。オリンピックの機会に、正してはっきり発信しましょう。世界現生人類移住史における環太平洋ルートの比較的よく分かっている基準(約4万年~3万年前)とすべき重要な区間ですから。なお、少しくどいくらいに「現生人類」を強調していますが、欧米学者は、旧人のネアンデルタール・デニソワ人に関心が高く、特に現生人類も数%以下のDNAに残る交合痕跡の発見で、全く無関係ではありません。

デニソワ人: うるめしま

日本列島で旧人の、いやその前の原人の痕跡すら見つかるかも知れませんが、そもそも旧人はサルと我々の中間に位置する思いのほか離れた違う生物ですので、仮に見つかっても異常な騒ぎは無用と釘を刺したい事情が あります。それほど今回の直接祖先を探る検討は 、実は 重いのです。

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