東南アから北上し曙海のほとりで始まった約4万年前からの列島史、その後の約1万年間で沖縄~北海道まで、列島中に拡がった「日本祖人」の北海道の者は、おそらく昆布ハイウェイを舟でアメリカに向かい北上して行き、 2万年前頃には大陸の狩猟民族の西、北からの渡来を吸収し、 そして1.5万年前頃から、列島中で2代目の縄文人と呼ばれることになります。その末期にやはり南方の呉越系からの稲作・金属の伝播があり、それまでの長い間に熟成された独特孤立した南方海人系の我が国の基層文化を形成し、大和王権を樹立して「令和」の今日に至っています。
その間、シナの律令制等、仏教・伴天連宗教、幕末の黒船等の衝撃、焼け野原のマッカーサーの施策などを受け止め変形させて国柄を失わなかったのは、この基層の「原日本教」のお蔭でしょう。最新の研究で、神武東征の史実が紀元直前という事で実証され(長浜浩明)ましたが、南部九州の南方海人系であった意義は大きいです。最新の言語研究でも示されている、内陸狩猟系と南方海人(太平洋沿岸)系が対立した構図の東アジアのの始まりの国際情勢の大枠の中で、曙海畔の呉・越とそれまでの長い間のように、時には曙海畔が北上した所の公孫氏・燕を介し、人と文化の実質的な関係がありました。見たとおり、曙海は世界でも珍しいほどに大きく形を変えました。しかし、一人一人にとっては、生きている間は、曙海の姿に変わりは無く、大昔からの畔の人々の繋がりの話を言い伝えた事でしょう。
そしてそういう状況で、南西諸島、古本州島から北海道に至るまで、その基層が万年の昔からの共通の南方海人系の文化であった事は着目すべき点です。今、世界が「日本文明」と認識すべきと言う原点でしょう。これまでの古代史学は、北部内陸系の魏志倭人伝、邪馬台国などの偏重でした。徐福が日本に上陸した伝承があり、呉の孫権が九州とみられる地に万と言う兵を送ったと記述されており、痕跡はいろいろあります。子供たちのためにも、宇宙のダークマターのような南方系の「呉・越志倭人伝」を、何とかそれなりに諸学共同の科学の力で描いて欲しいものです。