対馬暖流の無かった当時の北部九州海域は、時計回りの渡海の流れの方向がよく、浅く、幸いにして北東ア平野から北部九州へは、その後の時代もずっといい風が押してくれました。
行く手の緑の対馬が見えて、手招きしていました。曙海の畔の人々のうち、当然にして処女地である九州を偵察する人が現れ、豊かな地であることを確認しました。
その後の北海道に至るまでの拡がりを考えれば、少なくとも大人男女千人といった数の人たちの渡海が必要でしたでしょう。
さて、縄文ヴィーナスを見て思うのは、重要なのはノウハウがあり無事成功させる「お産婆さん」と一緒の事でしょう。
今と一番違うのは、何度も機会の有る重要な出産が大ごとであったことです。
出産・育児・治療・食物採集などで頼りになる婆さん爺さんが尊重され大事にされ一緒に渡海したことです。
従って、外洋を婆さん爺さんと、冒険ではなく安全に静かに渡るため、潮の流れに乗り待ってでも風に乗ることです。
当時は寒暖の差が激しい時代でした。短くても暖かい時代には樹木が得られた事と思います。
貴重な舟(筏)が出来た時期が、日本祖代の始まりの時期だったのでしょう。
現在まで見つかっている縄文の舟は丸木舟ですが、南方ノウハウのアウトリガーや双胴は有ったのではないでしょうか。帆柱の痕跡は無いようですが。
いずれにしても、安定的に北部九州に渡海することが出来るようになった時期が始まりでしたでしょう。
その後は曙海の日本列島側、そして緯度を北上する寒さに適応しながら北海道にまで拡がって行きました。
(了)