現生人類のアメリカ新大陸への進入は、ギネス記録的にはアラスカ進入の時期になるでしょうが、人類史の意味的には米本土に進入し南米にまで拡がった事が焦点です。
かっての定説であるシベリア~ベリンギア(地峡)~アラスカ・カナダ内の無氷回廊という陸路の通過が覆された(回廊開通よりも古い遺跡が米本土で発見)ため、沿岸ルート(食料豊かな沿岸の昆布Kelpのハイウェイ)ということで、その時期が議論を呼んでいます。
第1図
大方は、シベリア~ベーリング地峡地域の厳しい寒冷から、氷河期の最も寒かった時期LGM(2万年前頃)の後、氷河期を脱した18,000年前頃以降をイメージしています。
ところが、南米で23,000年前かというブラジルのSanta Malia遺跡が発見され、年代を含め問題となっています。(大西洋横断ルートは、この時代ではトンデモ話です)
そこで渡米問題についてですが、先ず第1に当時はベーリング地峡によって北極海の冷水とベーリング海が分離された「米臨海」であり、暖かいハワイに繋がる海でした。
実は、この認識が無い事が大きな問題です。
第2図
此の事が、当時のこの地域の沿岸の気象、海象、動植物などにいかなる影響を及ぼしたのかを考察し環境を推論した研究は無く、氷河期が終わるまではムリというのが大方のイメージです。
また、地域のこの時代の遺跡の見つからなさも原因で、ベーリング地峡地域では14,000年前がせいぜいというところです。
開発が進む日本のこの時代の北海道には、十勝をはじめLGM前の有力な遺跡がいくつもありますが、千島列島(中、北)、カムチャッカ半島には見つかっていません。
シベリア、アラスカ・カナダでは、下図のYana川畔遺跡とムツ洞窟遺跡のいわば単発の状況ですので、北海道~千島・オホーツクからと考えるべきですが、氷河期の寒さが検討を阻んでいます。
この地域の真冬は、-40~50℃がイメージでしょう。
第3図
ところが沿岸に注目しますと、そのイメージとは全く異なります。下表のとおり、ベーリング地峡地域でも内陸と違って岬では—24℃くらいであり、帯広の—20℃の暮らしを経験していれば不可能とは言えません。
また、何よりも下表右のように、16~14,000年前くらいにはベリンギア沿岸を米本土に来ていますから、最寒期LGM以前の同様の気温の時期には来れるチャンスがあった筈です。
第4図
この通り、沿岸地域では不可能でなく、氷河期の寒さも米臨海の比較的な温かさで緩和されていた事を考えればあり得たと言えます。
最後に北海道ルートについてですが、上第3図の千島列島ルートと樺太・沿海州地域からのオホーツクルートがあり、寒さの沿岸気温は前述のとおりですので、千島の島々を経ることが難しかったろうとイメージされています。
しかしこれもよく見れば、次々に行く手の島々が見え、独り占めしうる食料も期待できましたので、乗り出さない、乗り出しても渡米していくのはムリとは言えない状況なのです。
第5図
そもそも日本列島にやって来る時に家族で8okmくらいを操舟して曙海(九州西部~南西諸島~当時の北東ア平野に囲まれた海)の五島・対馬正面を越え、伊豆神津島の黒耀石を獲りに行き来し、道東に来て雪と寒さの中、海獣を獲って暮らした海の民の子孫ですから。
やはり、こちら側と似た鏡面対称性あるあちら側へ、比較的温かい時代の夏などに暮らしを築きながら昆布ハイウェイを行けたと考えるのです。
第6図
米本土内及び南米への拡大と発展は、その後陸路を無氷回廊が開通した後にやって来た、戦いに強かったシベリアからの人たちだったのでしょうが、先住民の痕跡はアマゾンやアンデスなどにあるようです。
(了)