日本人とは、「日本人とは何か」と問う、世界に珍しい人たちだそうです。
この問題については、埴原和郎先生が「二重構造モデル」を提唱され、それまでの①人種1~2回交代説、②土着集団と後の渡来人たちの混血説、③小進化の連続移行説 に一応の決着を付けられてます。
それは、日本列島にいる人々が日本人という事で、前述3説は北海道や南西諸島などを含む地域性を考慮していないことが問題であり、要は縄文時代人の系統がどのくらい今に至るまで残っているとみるかで分かれているとされました。。
先ず下図左下、東南アジアの原アジア人から日本祖人3代を経て縄紋時代人へと移行しました。
東南アジアの古人骨、フィリピンの古部族である黒い皮膚で小柄なネグリト、八重山の石垣島古人骨、縄文人骨に近縁性のある事が現生人類の沿岸北上の流れを窺がわせます。
日本祖代分の特筆すべき2つ事象である①姶良大噴火と②狩猟族の進入を加え、A、B、Cの3区分が考えられるとしたものが、当サイトの考えで後で説明します。
ここで、特に北海道にまで拡がった時代に引き続き樺太や千島列島に拡がって行った事が自然だと思います。
従って、約2万年前の最寒冷期に北海道へ大陸の内陸から人々の流入がありますが、出て行った人が戻ればDNA変化は少なくなります。
出来上がりの縄紋人移行時には、基本的に、①4タイプに分かれる、②本州・九州・四国等から成る地域が概ね中央のフォッサマグナ線地域で東と西に違いが見られ2分されるというように認識されます。
当サイトでは、更に日本海側と太平洋側という小違いの区分もあるものと考えています。
埴原二重構造モデルでは、方言・風俗習慣などの日本の東と西2分性と4つのタイプがいずれも皆一緒の日本人であることも指摘し、アイヌは日本人とは別というそれまでの考えを否定しました。
日本人の成り立ちは、4万年前の九州渡来から北海道に至るまでの拡がりが始まりですので、アイヌを先住民とするのは誤りです。
この点で、アイヌを先住民とした国会決議は歴史の裏付けのない不適当なもので、アイヌの人権を尊重する決議といったように名称を変更する必要があります。
先住民などと他と区別して言える人はいない歴史の古さこそが、米国やオーストラリアなどと全く異なる日本の特徴です。
他方、この埴原二重モデルは、日本犬や野生の二十日鼠、更にはATLV(成人T細胞白血病ウィルス)の保有者の分布という、其々独立して行われた性格の異なる調査研究がその二重性という内容に合致して支持していることも指摘され、大変注目されます。
さて当時はっきりと認識されていなかった縄紋前の日本祖代を追加する訳ですが、先ずは4万年前、下図の曙海から人々が海を越えて九州に至り、南下して沖縄や北上して北海道にまで拡がって日本祖人Aとなりました。
その後、実は現在分かっていることで特筆すべき点が少なくとも2つあります。
それは、B、Cの区分をもたらす元になった2.9万年前頃の姶良大噴火と約2万年前の最寒冷期のユーラシア東部内陸からの狩猟族の北と西からの進入です。
姶良大噴火は、九州大被害、西日本全域に相当の被害、火山灰は東北にまでと言われていますので、西日本の人口の減少・北への移動、そしておさまってからの人の流入となったことでしょう。
当時は海の民の暮らしが主体であったと考えますので、土地に縛られる農耕時代よりは噴火の影響が少なかったかもしれません。
注目される東と西の違いも、始まりはこの姶良大噴火の西へのインパクトであったのであろうと考えます。(その後も縄文時代の九州の喜界島噴火があります)
そして次に、氷河期最寒冷期LGM中の約2万年前の北と西からの狩猟族の進入です。北からの進入は日本海側に、西からの進入は太平洋側に大きな影響を与えたことが石器の伝播による暮らしの変化の様子で分かります。
実際に進入した人数は、与えた影響程では無かったであろうと思いますし、既に居た部族との結婚の進んだ具合は今後の更なる研究でしょう。
この段階で、関東甲信越を横断する繋がりと人の多い広大な関東平野での暮らしの中心性が生まれており、今に繋がる原型とも言えるでしょう。
このような大きな事象を受け止めながら暮らしの文化を熟成させ、やがて温暖化が進む中、全国での土器の使用の一般化、竪穴住居での定住と進化、画期的な弓矢の使用などの生活諸変化が見られた縄紋人と呼ばれることになっていきます。
祖先である日本祖人は、時に大変困難な激動の時代を生き抜きながら日本列島の暮らしの特色ある原風景を生み出し、後の時代にバトンを繋いでいます。
日本史は、〇〇時代から知れば十分と言う不遜不敬な問題点をご理解いただけましたでしょうか。
(了)