当サイトが従来のいわゆる黒潮北上文化論と異なり、時計回り論を提唱する理由は、当時の台湾山地からの黒潮越え及び宮古島-沖縄本島間の家族移動の難しさにあります。
また、北東ア平野は植生豊かな沿岸の暮らしができたと考えられますので、沿岸伝いに家族で移動し発展して行った方が理解し易いです。
また、台湾側からみて危険を冒すだけの八重山の食料などの魅力があっただろうかという問題もあります。
他方、九州に渡ってからの意外に早い伊豆の神津島への操舟行き来が目を引きます。世界史的にも注目される史実です。
九州北部の五島・対馬は海が浅く島が見えます。その後の歴史を見ても、行き来は緊密で朝鮮南部は、その後の倭に含まれていました。
また、南西諸島のトカラ列島は、黒潮が西から東へ流れるのを越えますが、島間の距離は広くなくよく見える飛び石的な難しさですので、先島の方よりは行き来し易いでしょう。
台湾山地-与那国島間は、約80kmの距離もあり海流も激しく、また、宮古島から沖縄本島間は、当時でも約200kmで家族にとって渡海は厳しいでしたでしょう。
トカラ列島越えは、それまでに曙海の九州西側沿岸で暮らしてきた経験も生かされます。
現在までに発見されている上図の南西諸島の遺跡年代の状況に注目しますと、無論たまたま発見されているだけとも言えますが、沖縄本島の方が八重山・石垣島遺跡よりも古そうです。
従って、少なくとも沖縄本島までは時計回りの方が、発展の広がりを全く自然に無理なく理解できます。
時代が遥かに下った遣唐使の時代ですが、五島から沖縄本島までの連携がよく窺がわれます。
日本側から大陸へは、A:朝鮮半島北上沿い B:直接、東シナ海を渡海 C:九州西側沿岸を南下して沖縄本島から北西方向に上海の方に渡海 といったルートが有りました。
(了)