4万年前頃、曙海の畔から多くの家族が海を越えて九州(八重山にも?)にやって来て、3万年前頃には日本祖人は北海道にまで拡がりました。
しかし、2.9万年前、鹿児島・姶良大噴火に遭って九州と西日本は大きな被害を受けました。そして一部の渡来を含めて或る程度その回復がありました。
最寒期の2万年前頃には、北と西の双方から暮らし振りの違う狩猟族、寒冷適応族の新たなかなりの人々の流入がありました。
1.35万年前頃には、関東にはっきり人々の多い列島の新たな形が整いました。そして、列島における生活に一般的に土器が含まれる縄紋時代となります。
このように、日本祖代(約2.8万年)で始まりの「くにのかたち」が出来上がって縄紋時代に移行していくときは、関東に人が多い現代の「国のかたち」に似ていたことが驚きです!(この後の時代には色々変化しますが)
日本全国に残された旧石器遺跡から人々―日本祖人に注目すれば、
①前期 曙海の畔の西・南から第1回目の人々が、初めて海を越え入って来て北に拡がって行った西高北低
②中期 姶良大噴火の九州・西日本被害により相対的な西低北高と一部渡来によるその回復化
③後期 最寒期に北と西から第2回目の多くの人々が入って来て、寒気が緩む中で列島に広く及んで平準化、そして関東のはっきりした肥大化
です。
暮らし振りは、先ず列島地域に「海の民」の暮らしを主に高地の川辺にも人々が拡がって始原風景が出来ました。ちょっと前まで、日本人は生魚と海藻を食べる、好む、変なヤツと言われていました。
そして、噴火大災害に遭ってその損失・傷を何とか回復していった2万年前頃の最寒期に、新たに大陸の狩猟・寒冷適応族という暮らしぶりの異なる人々が北の樺太から、また、狭くなった西の曙海の海峡を越えてかなり入って来ました。
そのことで生業が海、そして更にはっきり陸の狩猟等もとなって行き、関東に更に人が集まって縄紋時代(万年間)に移行していったようです。
日本祖代とは、初めて日本列島に今に繋がる現生人類の海の民が入って来て列島中に拡がり、後期には更に北と西の2方向から大陸より暮らしぶりの違う狩猟・寒冷適応の人々が入って来て拡がりの収まりを見せ、一応「くにのかたち」が整った時代と言えるでしょう。
そこには、列島の北・東北部と西・南部及び太平洋側と日本海側の違い、関東と甲信越の繋がりといった実は今に続く特色が窺がえるものでした。日本史は、中世から、近世から学べば十分と言う人がいますが、誤解でしょう。
祖代の後期には世界最古の土器も出現しましたが、やがて文字通り縄紋の土器が広範に使われる縄紋時代へと暮らし振りもはっきり変わっていきます。
(因みに万年を経た縄紋末期には、お米を持った人々が西から入って来て陸上主体の弥生時代になって行き西高北低化の人口は増加し、盛んに争いも生じました。)
(了)