既に報告しましたように、今とは大分環境が違いました4万年前、北東ア地中海の畔から海を越えて九州にやって来た人々は北上し、旧人とも遭遇しつつやがて北海道にまで拡がりました(3万年前頃)。
約2万年間(6-4万年前)とみられる長い北東ア地中海の畔における暮らしは、その後の列島での暮らしの原点でした。
北上した北海道までの沿岸部の拡がりとともに、結構早い段階から内陸の高地部にも拡がっていたことが残された旧石器遺跡から窺がわれます。
さて、日本史最大の謎、3世紀の倭の邪馬台国については今も論争が続いているようです。その後の7世紀には、隋に船が派遣されて学びの交流接触がありました。
その隋書では、下図のように依然として倭国の位置の認識が会稽の東と少し変ですが、東西南北の大きさ(行程5及び3ケ月)や朝鮮半島からの距離(3千里)などがしっかり示されています。
そこから、最初に書かれた魏志・倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国に注目すると、あまり違和感なくそれらが上図のように収まります。
重要な事は、裸国・黒歯国が船で1年くらいかかる所で、交易があったことです。
その行程と地域の状態からは、フィリピンだったのだろうと思われますが(インドネシアかも?)、紀元前後の簡単な船で熟練のノウハウを要するそんな長期の外洋航海が行われていたことが重要です。
無論、黒潮流を活用したものですが、海人の航海行動力があったこと、また何よりも、代々語り伝えて来たその方の地からやって来たからこそ、交流したのだと思われます(貴重な貝などを求めての事でもありますが)。
日本祖人は、基本的に南方からやって来た人たちと考えられ、その子孫の海人がまだ多く倭国各地に存在した邪馬台国話からも遥かな「日本祖代」の状況が窺われるのです。
因みに隋書は、「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。」と書いています。
(了)