夏休みです。この列島における私たちに繋がる日本人の最初の歴史、その始まりと世界史的な意義を有する渡米に関して大胆に思いを馳せてみます。
現在の私たちに直結する現生人類が暮らした4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる少なくとも何十万年前からこの地域に居た原人の子孫や旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していました。
私は始まりの「日本祖人」、「日本祖代」と言ってますが、歴史考古学的には「旧石器」時代・人でして、4~3万年前頃の日本列島の始まりの人々とその来着の様子に焦点が当てて語られている学界資料は有りません。(私には驚きです)
欧州では、旧人ネアンデルタールと新人の関係が大いに注目されていますが、こちらでは考古資料発掘が厳しいこともあって研究はなかなかです。
日本列島の日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みを考えれば、何よりまず台湾山地と揺籃の地である東亜地中海(台湾 凌教授の命名)が注目されます。
始まりの日本祖人は、海を越えて九州北部(八重山にも?)に至りましたが、西から(到達に遅れ)というよりも、南から台湾山地地域に北上して来た海の民の人々であり、日本祖人が九州に達した頃からは、同種の人々が同地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたこととなりました。
台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、東アジア平野沿岸の長距離を北上して気温の低さに適応しつつ、渡海はよく見えていた同様の幅の対馬に浅い海を越える必要がありました。
フィリピンの遺跡などから、新人類は6万年前頃には台湾山地沿岸に至っていた(東南アジアは約7万年前以前)と考えます。
このことから、長距離北上の気候適応と家族集団の渡海のために、東亜地中海西岸地域から日本祖人になるのに約2万年(!)をも要したことになりますが、更に知恵ある新人の到着待ちだったのかも知れません?
我々はこの4~6万年前に注目しますが、丁度5万年前頃、ビッグ・バンのように言語力の発達を軸に新人の脳力・心が画期的に開花した(こちらにも伝播)という説もあります。
八重山方面ですが、台湾―与那国島間及び宮古島―沖縄本島間(約170km)を考えますと、私は沖縄本島への定着は、南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。
特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。
次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。
ここで縄文初期の人々・日本祖人が周辺国に見られない独特の顔を作り上げていたことは重要で、日本祖代間に列島の中で混じり合い熟成されたものです。
さて、3万年前頃には北海道に渡り降雪寒冷地に定着した日本祖人のその後です。
米テキサス州Gault考古学研の長年の発掘調査で、オースティン近郊遺跡は16,000年前という報告がありました。90個の石器、動物の骨、若い女性の歯などが分析されています。
米大陸最古のものですが、無氷回廊が開いたのが12,500年前ですので、最初の新人類が「昆布ハイウェイ」からやって来た事がはっきりした点に大きな意義があります。
すると、A:海の民の日本祖人か、B:降雪寒冷地に適応したDNAの内陸人(現在の米大陸の主体人)かということになります。
さて、南米アマゾンの古い3部族のDNAが、印アンダマン諸島人~豪アボリジニのA型に近いという驚きのHarvard医科大の分析結果があります。
従って、環太平洋ルート(POR)で北海道東部から3万年前以降、日本祖人が昆布ハイウェイで渡米し、子孫はアマゾンにまで至っていたものと考える訳です。
何故、渡って行ったのか?高尚な説を唱える学者さんもいます。
まあ、前人未到の処女地に、幸いにも鏡面対称的に昆布・貝、エビ・鮭等、海獣鳥・卵、陸上植物などの食料がしっかり得られたためと思います。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo
(了)