日本の始まり、日本祖人の時代を考える④-始まりの東亜地中海のほとり

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前回、人類史上の現生人類の移動進出の流れから、日本列島へは東南アジア方向から沿岸を北上し(仮に内陸からであったとしても)、数十mの海水面の低下で現れていた広大な東アジア平野に至り、舟で海を越えて来たことをお伝えしました。

同平野北部のAルートか、それとも南部の南西諸島沿いのBルートからCルートにより、九州南北のいずれに先に達したのだろうかは大いに興味のあるところです。

南部に先に達しているでしょうが、B—Cルートは、長距離で一部地域では生活は厳しかったのではと言われる島伝いです。しかし、どちらが先に達していたとしても、台湾の凌 教授が名づけられた東亜地中海の周りの出来事だということに思い至ります。

4万年前頃、女性をなどを含む家族で日本列島へ渡ることは、舟で来たことを思えば決して容易ではなく、、水産物・植物を多く食す明らかによく海に馴染んだ海の民で、内陸で大型動物を狩猟して暮らす人たちとは違います。

石器偏重史観は、狩猟にウエイトを置いた先史の見方をしますが、日本の始まりは海の民であっただろうと認識することは重要です。勿論、今は海水面が上昇したため当時の沿岸の人、いや生活の痕跡すら見つけることが困難で実証できませんが。

実証できないことは相手にしないということでは当時の事は考えられませんが、至当に考えればこうだろうということは言え、物理など他学問同様にこの「理論先史学」をもっと一つの分野として確立する必要があります。

ゼッタイと思われたニュートン力学も、アインシュタイン以降、大いに見直され発展を続けています。新たに人骨・遺物などが見つかり、必要になれば理論・定説を修正していけばいいだけのことです。

洞窟絵に舟が描かれていますし、時代はずっと新しくなりますが、入れ墨に鯨面の人(もっと色黒?)が倭人として魏志倭人伝にも書かれており、縄文時代の丸木舟や埴輪の舟なども見つかっています。

いずれにしても現代よりもゆっくり歴史が動いていた時代、意外に万年前の人たちは進んでいたというギョベクリ・テペ遺跡や洞窟絵など、近年の発見を踏まえた旧石器人のイメージはカエル必要があるでしょう。

4万年前当時の赤子を今、東京に誕生させるなら、あまり今の子と遜色なく成人するだろうと言われていますので。そして、東南アジアのパンカル半島(Sundaland)地域を北上してきた子孫は、その海辺での暮らし・操舟のknowhowは相当なものでしたでしょうから。

3.2万年前頃には、黒曜石の採取で伊豆半島と神津島の少なくとも10数kmは舟で大いに行き来していましたし。

一部に、大陸内陸の人のDNAと縄文人などが近いのでと言う人がいますが、日本祖人については、この地中海のほとりで海に馴染んだ民であるということを踏まえていない論です。それくらい内陸の民と海の民は、長い長い間に受け継いできた暮らしぶりが違います。

大陸の陸地がもっとずっと日本に近かった東亜の地中海のほとりの人々について思いを巡らし、舟で海を渡ることが容易でなかった時代に日本列島に至ることを考えますと、何といっても先ずは黒潮流があります。逆流していたとすれば、我々にはクレオパトラの鼻どころではないでしょう。

従って、東アジア平野南部の台湾高地地域へは、ベトナムなどの沿岸から北上したXルートにしろ、フィリッピンを北上するYのルートも無視できない興味あるものです。

当時の遺跡は、むしろYルート上のボルネオや比・フィリッピンの方で発見されていますし、比では、アフリカを出た頃とあまり変わっていない肌の黒いネグリト族もいますので。(従って、東亜地中海人は色黒?としました)

そして、比のルソンから台湾高地、南西諸島を経て南九州までうまく島々が点在していることが、舟で海を越えた移動進出を裏付けるものとして第2の要素と考えさせられます。沖縄では、日本で唯一、3.5万年前の人骨が発見されていますし。

東南アジア直系ではと思わせる風貌の南九州の隼人族、以南の人たちは、日本史において古い独特の文化を保ってきたと感じさせます。

 

さて、列島に拡がった日本始まりの日本祖人は、下図のAルート北部九州なのか、B・Cルート南九州だったのかが次の問題です。

当時は氷河期でしたので、台湾高地から朝鮮山地への展開は緯度を大きく変える気温の低下(3℃前後?)があり、南西諸島沿いは、石垣島—沖縄本島間の長距離渡海やトカラ列島の小資源、黒潮流越えという問題もありました。

東亜地中海人は、日本列島を丁度黒潮の流れるように北上して北海道にまで拡がって行って日本祖人となったわけです。

祖人は主に、北からの人か南からの人かは、無論、解明は容易でないです。

しかし、例えばその後の生活に大きな影響を及ぼした貴重な石器となる下図の黒曜石の交易の拡がり(産地のお蔭でもあり)を見ると、また、既にお伝えした瀬戸盆地・日本海の遺跡などの状況から、日本祖人の原動力は北説であったのではとなります。

  

実は2.9万年前頃、南九州・錦江湾の姶良カルデラ大噴火が、大変な被害を九州に齎しました(西日本、更に火山灰は東北まで)ので、肝心のCルートの分がよく分かりません。

もしかしたら、北から進出して来たまだそれ程違いの無い人たちが被害の鎮まった後、逆に南下して沖縄の方に行ったのかも知れません。

いずれにしろ日本の始まりは4万年前頃、この東亜地中海のほとりの海の民の人たちですが、台湾の凌 教授のこの命名が今は顧みられず教科書にも出てこないのが全く不思議な事だと歴シニアは思います。

そして最近の沖縄での人骨発見やDNAの研究の進展などを見てますと、始まりの頃の東亜地中海のほとりの人たちのイメージは遠からず生まれるものと期待しています。

(了)

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