人類史の百貨店地域と日本との関わり(3)-4~3万年前時代の両地域

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日本史の授業は具体的には縄文時代(1.6万年前~)からであり、日本の始まりの4万年前頃は、学校で教わった記憶はなくどうも教科書に様子が書かれることもないようですが、とても重要なことと考えています。

科学信仰のある種の誤解から、神話や国の開闢の様相は歴史・考古学的な裏付けがないとして扱われませんが、民族の記憶としてあるいは始まりの原点として見つめる努力は必要です。例えばギリシャ神話は、荒唐無稽な事であっても教えられており今の人にも大きな影響を与えていますね。

さて、日本の始まり頃の様子ですが、当時は氷河期であり最も寒かった最終氷期最寒冷LGM期(2万年前頃)よりは少し暖かかったですが、今より2-4度C寒かったでしょう。

寒暖が不安定で、気温もさることながら海水面が数十m今より低下し上下していましたので、列島の地形も様相が大分違っていましたし、針葉樹と草原がかなり拡がっていたことでしょう。

そして、東南アジアから北上した黒潮が列島を挟むように流れていたのが大きな特徴です。海や川は今の乱獲もなく極めて豊富な魚介類がいたことでしょう。例えば北海道ではかなり前になりますが、にしん御殿と呼ばれる家屋敷が沢山建つほどニシンが獲れていました。

当時は、朝鮮半島も台湾もなく広大な東アジア平野と緑豊かな朝鮮山地、台湾高地でした。いずれにしても日本の始まりは、西の東アジア平野から一家が、一族が舟で九州に渡来しました。

黒潮の太平洋沿岸はもとより、近代に至っても北前船が活躍していますことから、まずは列島沿岸沿いを北上して拡がって行ったとみられます。

南西諸島方向からも舟で渡り九州にまで来たのかは関心のあるところです。

当時の東アジア平野は、北と南で人びとの暮らしぶりががそれほど違っていたとも思われず、また、海に馴染み海を越えて舟で家族として九州にやって来た人たちですので、渡海の時期が同じ頃であれば日本祖人としてのその特徴に差はあまりなかったことでしょう。

問題は、渡って来る前の東アジア平野沿岸にどういう人たちが居たかです。

東南アジア沿岸から北上したか、中国内陸から東進して来たかですが、出アフリカ後の移動の容易、食料の獲得、猛獣・毒蛇などに対する生活の安全、アフリカに近い気候などから、南方からの海岸の北上沿いルートと思われています。

出アフリカで紅海を越えた人類の豪にまで至る進出の早さ、舟・筏で数十kmを渡っていることなどからもそう考えられます。大きな海面上昇で遺物などは今や水中ですが。

板子1枚下は地獄と言われる渡海は、長い間積み重ねられた豊富な経験と知見knowhowがものをいう世界ですので、寒い内陸での狩猟生活を続けてきた人が海辺に来て渡海できるというものでは有りません。(蒙古来襲の失敗、難しい遣唐使船の渡海成功)

現代の軍においても海・海浜で移動・活動するとなればやはり海軍・海兵隊であり、”塩っ気”のない陸軍兵には厳しいことです。海を越えて陸に上がってもかなりの間は地面が揺れていますので。

さてそうなりますと、出発の東南アジア沿岸での現生人類の状況はどうであったかですが、暑さで人骨が残らず万年の時は鉄をも融かす難しさと言われる地での遺跡・遺物を発見する訳ですが、その後人々があまり使わなかった洞窟などに結構残っています。

下図の通り、広範囲で多くの人たちが海の民を感じさせる暮らしていたことが分かります。

舟で外洋に出て漁をしていて海産物をよく食し、磨かれた石器を使用し、埋葬はもとより既に洞窟絵や素朴な作りですが土製の飾りなどの精神性も見られます。彼らと子孫が北上して日本に着く頃は更にいろいろなことを身に付けていたことでしょう。

因みにオーストラリアへの旧石器時代の現生人類の進出は、数十kmの海を越えて4万年前頃から5万年前と言われています。上図のフィリピン南部タボン遺跡群で4.7万年前頃の人骨が発見されていますので、それらの事から北上して日本列島へは、4-3.8万年前頃に初めて渡来したものと考えられています。

さて、やって来た日本祖人はどんな様子でしょう? おそらく肌の色はまだ黒褐色、貝などの飾りも付けかなり入れ墨をした目のくりっとした小柄な人たちで、会話コミュニケーション、基本脳力はかなり現代に近く、動植物・自然に対する理解と対応力は優れていたでしょう。

上図で紹介した人たちの子孫である彼らは、舟を操り木竹道具と石器を上手に操り、海浜・河口・川の魚介類・小動物・植物を主に食し、女性・老人・子供たちは既に浜辺や川傍の素朴な苫屋での定住的な暮らしぶりであり、今で言う自然共生の生活であっただろうと私は考えています。

勇を鼓して渡海した日本列島は、緑豊かで手つかずの動植物食物がある良い所でしたので、家族が増え更に渡来してくる人もおり北へと拡がって行ったことでしょう。

火山噴火、地震、津波、そして台風が難点でしたが。

あるべき遺跡・遺物の多くは水中ですが、この程度のことは学校で子供たちに教えて良いと思います。更なる暮らしぶりについては、今も世界に残る中から子供たちが適当と思うものを選んでイメージを膨らませたら良いでしょう。

結論は、自然を大切に共生適応することの意義の見直しであり、災害対応を忘れず、そしてポケモン遊びはそこそこに野外に親しむことの重要さでしょう。

(了)

 

 

 

 

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