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前回、出アフリカ後の人類の展開を考慮した言語系統樹を考えましたが、更に以下2点について考えを進めます。
A. アジアの楽園Sundalandとは、どのような状況の地域であったか?
B. 当時の日本との関係ではどうなのか?
出アフリカ後の人類の東進は、海浜をタミルからアジアの楽園Sundaland(下図の青丸)へ展開し、ユーラシア東岸地域を北上してシベリア南のアルタイにまで至りました。
その後、中国内陸語やタイ語の拡がり、北方からの日本語への強い影響などがありました。
そして、東進北上ルートでは、長期間(約2万-1万年前)・広域の半島大陸地が恵まれた条件にありました。
そのアジアの楽園Sundalandの言葉(EU語的ながら)が、アジアの言語の基層をなしていたであろうことを認識しました。
それでは、その地域はどんな状況であったかをDhani Irwanto氏のスンダランド水系図から、私が推測した地域の区分の1例が下図です。
言わば万年の昔の世界の中心Pusat dunia地域の区分図で、白矢印は、交易や人の移動です。
私は、インド洋と南シナ海の交易の連接を考えて、現スンダ海峡Selat Sundaからの白線水路を描きました。
線で囲まれたそれぞれの特色を有する地域において、基本的には川・海のそばで様々な多数の部族が狩猟・採集・漁撈、貝・鉱物等の交易をして暮らしていたことでしょう。
ここは当時の気候・植生等の環境条件から最高の人口密度であったと考えられ、正に世界の中心pusat duniaであったでしょう。
石器時代ではありますが、灌漑農耕や交易などにより進んでいた地域は、巨石遺跡を考えれば既にヒエラルキーのある人間の社会でしたでしょう。
神事・冠婚葬祭、建設などの規模の大きい集団行動をしていたものと考えられ、類人猿集団と全く異なる新人類文明の曙というべきでしょう。
なお一部に、図の右下部ジャワ海地域が最も進んでいたという推論が出されていますが、図のどの地域が最も進んでいたか興味深い議論が始まっています。Kota Sundaland, di mana?
そしていずれかの地域の部族が、時に急に海没していく状況もあった中で地域を離れて北上し、途中の地域での居住を経てその子孫たちが日本に到達したことでしょう。
時代も、時に部族系統も異にしますが、前述の基本的な海浜ルート生活の習俗を携えてです。Warga keturunan Sundaland tersebar ke utara dan tiba di Okinawa, Amami, Kyusyu selatan Jepang dengan gaya kehidupan sebelah sungai atau laut.
最近の研究により、広くない奄美群島の島でもその当時の植生の状況等から、狩猟・採集・漁撈により十分な食物を得て居住することが可能であったとの見方に修正されています。
海水面が100mは下がり島の砂浜が拡がっていた時代(2-1万年前)、舟での行動にも長けていた海人たちは、南方から、沖縄-奄美-南九州というルートで日本へ進出することは十分有り得ました。
但し、屋久島北の喜界カルデラの大噴火(約7千年前)で先進の九州が壊滅的な被害を受け、また千葉に至る黒潮沿岸地域が大きな被害を受けましたことは誠に残念な日本先史です。