最初のアメリカ人Who?で、注目の北海道史の諸問題

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A巷間誤解の北のマンモス・ハンター痕跡は北海道にありませんし、細石刃文化の流入が強調されますが、青森祖人の進出後の数千年後の事です。3.8万年前からの本州中央部の遺跡は図左下の充実を示し、太平洋側と日本海側(当時は大雪無し)からの北上と青森・陸奥平野での合一を基盤に青森祖人の北上が北海道史の始まりであることを石器が示し(堤 隆)ています。

むしろ図中上の露学者シュービンが語ったように北樺太、B占守島への北上継続を認識すべきで、沿海州の白滝黒耀石の存在もその方向ですし、6千年前の縄文遺跡が発見されている占守島の留頓(ルートン)は、カムチャッカに進出し、そちらが主体であったことも分かっています。
13世紀のモンゴル元の樺太乗り出し、西文化が波及した宗谷北(日本刀を副葬した父・西、母・縄文系の有力者の墓)の意義などが語られることなく、カタカナでオホーツク文化といわれて来た内容は、北海道から進出した祖・縄文人以来の樺太南南部人に、西・北の大陸人が進出して混成で生み出された異国と接する北部九州的な「宗谷北」文化の道内波及であり、これまで歪められてきた北海道の図のような人の歴史を認識する必要があります。オホーツク海北側及び東のカムチャッカはロシアの進出まで語るほどの影響はなく、オホーツク文化と称するのは針小棒大であり、賑わった伊豆祖人の文化の拡がりを太平洋文化と称するようなもので誤解の元です。
また、大森貝塚の発見で日本考古学を開いた文明開化期のお雇い外国学者のE・モースが、考古遺物のプレ(前)・アイヌ説を述べ、B明治の先達が苦心の学術用語コロボックル(アイヌ伝承の先人、留頓ルートン)を使用して不敬の問題を起こすことなく全日本遺跡図を明治38年には発表しており、現地研究フィールドワーカーの鳥居龍蔵が発表した「相当古い第1北千島アイヌ、第2樺太、第3道内」という人の歴史の基本をもって偏向を是正するため教室で採り挙げねばなりません。
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これらの事が論じられずに誤解のまま放置され拡がっていることが、日本史・コロボックルに理解なく、アイヌの実情も無理解なC「縄文以来のアイヌ(語)」という余りに酷い歪曲が国際的に発表され、今種々のその他の誤解が振り撒かれています。これ等の北海道史の誤解の是正を政府に強く求めます。

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