右図下、北米での2.3万年前の足跡発見で初期アメリカ新大陸移住史FPAC問題の定説は崩れ、行き着いた南米に光が当たり、太平洋岸のKelp昆布Highway及びDNAのミトコンドリア(母系)ハプログループDが注目され、既知の古い14,500年前の(チリ)モンテ・ヴェルデ遺跡などと相まって、舟で南下して来た説が強まっています。
そこで、3.8万年前からの海民・伊豆祖人のフネでの活動、日本と南米のDNA―mtDの類縁性、北海道・千島列島を通ずる昆布ハイウェイ沿岸での暮らしの共通性などから北海道、日本列島北上ルートの移住説図が登場して来ています。但し、欧米に見られるカムチャッカからアリューシャンへのルートは、コマンダー諸島~アッツ島間が330kmであり3万年前頃の家族渡海はムリでしたでしょう。千島列島は、次々に島が見え最大の最大離隔距離は約80kmですが、冬季には流氷の接岸で歩いて行ける状況でもありカムチャッカ半島に行けたと考えられます。左図、そこで注目されるのが北千島の遊動海民・留頓(ルートン)で、明治32年に現地調査した鳥居龍蔵が「余程古い」とし、後に師である坪井正五郎のコロボックルCorobocle説を認めたものす。坪井東京帝大教授は、西洋科学を導入して間もない明治維新の時代に、皇国史観の縛りの厳しい中にあって、コロボックルと称することで祖先の歴史の探求のための北海道調査を行い自由活発な議論を推進し、初めて実質的な縄文遺跡図を作り上げたことは高く評価されます。また、鳥居龍蔵は北千島のみならず南米調査も行っていますが、シベリア東端・ベリンジア西端の海岸遺跡(竪穴、石器等)をチュクチ人(海岸と陸地の2種)がオンキロンと呼ぶおそらく彼らの祖先の痕跡である点に着目し、重要であって心すべしと言い置いているのは驚くべき慧眼です。
右図、既に米ワシントン大Dr. Fitzhughが、北千島における6千年前の縄文痕跡を報告し、北海道大・高瀬克範は実はカムチャッカ半島に留頓が進出していた痕跡があり、むしろそちらが主体であった事を明らかにしましたが、自称の「西の人・ルートン留頓・モングル」の所以であったことが分かりました。また、北千島を実視したH.J.Snowが留頓の舟を伝えていますが、大木が得られない地での流木利用の舟は興味深く、昆布ハイウェイ説関連の重要な遺物として注目されます。このような中で、馬場脩(おさむ)が昭和8・1933年から昭和13・1938年まで5回にわたり北千島の継続した現地調査を行っているのは偉業であり(北大も調査)、今、その大量貴重なコレクションは注目すべきものです。他方、留頓については、形質情報の他に、人骨の存在が知られており、また、子孫は日本はもとよりカムチャッカ半島、極東から東欧にまで存在していることが知られていますから一大プロジェクトでの調査研究が期待されます。人類史、日本史の解明において、内外の文献を含めたこれらの総合的な研究が今求められているのです。教室にこの状況を知らしめ、世界に発信、総合的な国際共同研究を推進すべきです。