米イリノイ大の世界mt(母系)グループ図右の南北アメリカ新大陸の状況は、北米ニューメキシコの2.3万年前の足跡発見によって「初期のアメリカ新大陸移住史」(FPAC : First Peopling of American Continent)問題が数千年遡り、これまで発見されている1万数千年前以降の北米遺跡が色あせ、①行き着いた南米が注目されます。
そのことで本ブログ既述の、1.移住がアジアからであることがはっきりし、2.南米へは太平洋沿岸を舟で南下した、更に北のアリューシャン列島からであると言う説が広く認識(3万年以前のロッキー無氷回廊通過説も登場)されてきています。特に青Dグループが、発見最古釣り針の日本と類縁性があり注目され、この点で、②本州の東西が合流した陸奥平野時代の青森から狭かった津軽海峡を北上した3.5万年前後からと言われる北方史は、最近も帯広で1.5万年前の石器がぞくぞくと発見され、また、祖代Sodai遠軽町白滝の黒耀石が国宝指定答申され、これらに繋がる北海道・北東北の世界遺産である縄文遺跡など重要です。更に北を見れば千島列島は次々に島が見え、冬季には流氷を歩いて渡ることも出来たと考えられ、「Kelp Highway 昆布ハイウェイ」と称される処女地の食の豊かさがありました。米ワシントン大Fitzhugh教授の指摘した千島北端の占守島に縄文前期より早い痕跡があることと共に、東京帝大の鳥居龍蔵がアイヌより余程古い、伝承のコロボックルであると恩師である日本人類学の祖・坪井正五郎説を認めた(大正6年)北千島の石器と流木舟使用の遊動海民である「留頓」(ルートン)は、実はカムチャッカ南南部に痕跡があり、むしろそちらが主体であった(北大 高瀬克範)という正に自称の種族名である留頓に相応しい「西」である占守の人であったことが明らかになっています。
しかしながら、米足跡で定説が揺らいでいる今も欧米学者は、シベリア狩猟族が来たとイメージしているものとみられます(太平洋沿岸ルートは舟に切り替え)。他方、mtグループ図を見ると③カムチャッカ半島のイテリメン・カムチャダール族は、周囲にも東端チュクチや何よりアメリカに全く見られないハプロG(ハプロD、Bよりも新しい東アジア発)主体であり、新しく安住の地を求めてシベリアの方からやって来たことを窺わせ、ニヴフのN9-Yも同様で、カムチャッカ半島、樺太北部・アムール河口は、北東部ユーラシアにおいて他と違う独特のモノで興味深いです。このことから、カムチャッカに居た留頓・祖先は、イテリメンなどに圧迫され後退したとも考えられ、北海道祖人Sojinの北上ルート痕跡を蓋って見えなくしているようでもあります。カムチャッカ半島には、1.5万年前のウシュキUshki湖畔遺跡があり、アラスカと石器の類似性が指摘されてシベリア狩猟族のアラスカ拡がりとして欧米で受け止められてきましたが、FPAC問題が2.3万年前に遡った今、その意義の見直しが必要でしょう。そして北に注目した鳥居龍蔵が、シベリア東端の海岸に石器人的オンキロン( チュクチの祖先、 ベリンジア西端) が残した 遺跡に注目すべしと言い置いたことにも光が当たります。
チュクチはトナカイ狩猟族的ですが、実は海岸にも依然としており、内陸チュクチもともかく海獣を平素食することを強く求めていますので海岸から内陸の暮らしに移行したと考えられるので注目されます。これ等の状況がよく欧米に伝われば、北海道祖人の北上ルートは更に注目度を増すことでしょう。教室に広め世界に発信を。
Peopling of America, Kelp Highway route from Hokkaido!
NA Footprints changed paradigm. ①South America‘s blue mt-D by boat, ②Aomori-Hokkaido-Chishima, Jomon artifacts and Routon Tribe in Kamcatka, ③New people pushed ancient Japanese back?