(日本史最前線)日本人は何処から誰が?「大陸・半島から来た」は、世界の誤解!曙海の畔から海民が!

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日本に関わる現生人類・新人の東アジアへの拡散は、①北ルートと南ルートが言われていますが、最近のDNA分析で愛知・伊川津貝塚・縄文人骨、北京近郊・田園洞人(河川食が注目されている)、ラオス古人、アンダマン諸島人などの類縁性が明らかになって補強された南ルートに注目です。

考古学的にも、既にインドネシア・スマトラ島の人の歯やフィリピンの古人の動物骨に残された痕跡等と周囲の分析を含めた年代発表などでも補強されており、中国湖南省の福岩洞人も始まり時代の古さとされています。一方、北ルートは、カラ・ボム遺跡やマリタ(マルタ)遺跡(2名の日本学者は、南方系との指摘)などがありますが、実はA:北の始まり時代の石器の拡がり状況から曙海・日本海には達していませんので、日本への渡海問題への関りは言えないのです。注目は、B:南ルートの「亜寒帯入り」で、やや温暖な時代だったと思われますが何しろ氷河期の事、裸体に近い暮らしをしてきた南方人が、福岡や熊本でも雪が降りますから環境の激変に衣食住の面で対応したことは特筆されます。そしてC曙海の畔から内陸に向かった人々と対馬海峡を渡った人々の分かれた拡がりは、その後の歩みを大きく異にしていきました。②曙海西岸地域では、田園洞人時代から多くの遺跡が発掘され、A:出アフリカ後に分かれて北上した人々の北ルートは、指標となるカラ・ボム遺跡(4万年前頃)の類縁を見ても曙海や日本海には達していないのです。決定的に南方人の北上を示し稲作で重要な河姆渡遺跡が沿岸で発見されて世界の黄河文明史観を覆しました。B:古代国の燕、呉越は正に万年にわたり伸縮した曙海沿岸の民です。一見すると遠く離れた燕と倭ですが、海が縮まった時代には隣の親戚と思えるもので、山海経の記述も納得できます。始まり時代の沿岸民は、やがて、西北からのモンゴロイドの南下による影響を受けて戦いの時代が来ますが、この沿岸民の特性はDNAとは別に長く今も残っているようです。

さて、③東岸の日本列島史ですが、家族の40kmの渡海は大変重要な特性です。実は、舟を造り操作する能力は歴史の重要な特性となり、実証的に裏付けられたこの始まりの祖人の伊豆の海での行き来から縄文人、倭人・・・と、DNAとは別に言語・習俗の文化面で独自なものとなって行き、今や「縄文文明」とも言われています。そして、教室では全く教えられていませんが、B:北米・ニューメキシコ州において2.3万年前の子供たちと動物の足跡が発見されて新大陸史の定説が崩れ、北海道祖人が北上を継続して「最初のアメリカ人」に関わったのかが、近年指摘する学者やyoutube動画にも現れてきていて世界史界の注目なのです。「曙海」史観、分拡史と共に、日本人は何処から「何処へ」を生徒・学生に、世界に発信を。

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