(夏休み宿題の参考) 世界考古学史上の金メダル、伊豆の海の「行き来」の謎に迫る!

カテゴリー: 最新情報,祖代(Sodai)・祖人(Sojin)

東京都神津・恩馳島の3.8万年前の黒耀石採取の海の行き来は、最初は国際学会での発表を欧州学者に笑われた(最古はエーゲ海1万年前と思われていた―小田静夫氏)。

その後も①新聞が、伊豆半島の遥か彼方で55kmもあり、丸木舟を造る石器も発見されておらず、北上する黒潮に押されればどうやってたどり着けるのか?古さといい難しさといい、ロマンある「謎」として紹介しました。ともかく、この渡っただけではない「行き来」は金メダルなのですが。それは、②日本祖史が、約4万年前の始まり「祖代」に、南方から北上した「祖人」Proto-Japaneseが家族で30~40kmの対馬海峡西水道を、フネ(または筏)で渡ったことが世間によく認識されていないことも一因(金メダルは、6-5万年前のインドネシアから豪行き約90km)です。そして③海水面の低下で神子元島は小山であり、伊豆の海には高瀬島と鵜渡根(うどね)出し島が現れて渡海の距離は20数km、A海浜は徒歩でフネを曳行できましたし、実は黒潮は四国沖で太平洋に去っていて、むしろ押してくれる親潮分岐流があったかもしれない上に、対馬・西水道越えと違って海の男による東水道越え程度の事だったのです。出発地は、甲が容易ですが、乙は何といっても縄文時代の黒耀石の工房の見高段間遺跡がありましたし先代の行き来を受け継いだ可能性あり、丙眼前に迫る大島は最初に誰かが渡った所。また、おそらく祖人が最初に渡った丙・大島行き(帰路は厳しい)も考えられます。ガラスのようで「紙切り石」と言われる良質な宝物の黒耀石は、今と違い陸上に露出していて陽に耀いて手招きしており、問題の海の行き来も、往きは太陽で、帰りは伊豆の山々(と北極星)により目標もはっきりで、重い宝物を積んでの帰路は、うどね出し島~神子元山のルートが良かったでしょう。

新聞が驚いた3.8万年前も、沼津の井出丸山遺跡の出土品が池谷信之氏など内外の科学計測のお墨付きです。最近では、長野の高山の遺跡が3.7万年前で相互に年代を支え合っています。フネは、恩馳島のアシカなどの動物皮舟・カヤックか、丸竹の束ね筏か諸説ですが、丸木舟も、伊豆の山は後の船材の名産地で、ベーリング海のアレウト族は半年かけて皮舟造りしますので、祖人も磨製石斧・台形様石器で神に祈りつつ納期もなく時間をかけて木工すればできたのではと、一応仲間に入れたいと思います。いずれにしろ以上の事から「謎」ではなく、3.8万年前の事ですから、この位分かっていれば仮説学問として十分でしょう。全国の教室で説明すべきで、更なる深堀りを将来の学者である学生・生徒に委ねるべきです。さて、何しろ東京都の神津・恩馳島の「金メダル話」ですから、折角の東京オリンピックの機会に、日本祖代研究会は、国や都を初め各方面にSNSで訴えましたものの、発信されることは有りませんでしたが、絶好の機会を失し大変残念です。それでもビッグサイト前で資料を配布し、一部の海外メディア関係者は手にしてくれました。

そして、この先人の偉業が何故重要かと言えば、今、アメリカ・ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見で、太平洋北西海岸をフネで入って来たと言う沿岸進入説が益々補強されており、東ユーラシアの海民として、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに係る伊豆の海の行き来は改めて重要性を増しているからなのです。ともかく子供に教え世界に発信し、更なる国際共同研究を推進すべきものです。

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