図右①②で最初のアメリカ人に関し、米学者が北海道発ルートを挙げ、また千島ルートは有り得ないとする要因は確かに なく、北上し得たことを前回伝えました。米ハルドリチカ博士(ニューヨーク医科大)は、野外調査を主とする人類学者としてチベットからアラスカに至る人々の各種の骨格を研究し、最初のアメリカ人について、アジアからベーリング海峡を経由してアメリカ大陸に移住したことを唱えました。
1903年に国立博物館(現スミソニアン)の初代学芸員になり、人類学専門誌を発刊して1942年まで続け、スミソニアン博物館の初代館長に就任しています。そして、昭和8~13年頃、アジアに戦雲が見えだしていた時代に日本側が北千島調査(馬場脩、岡正雄など)に当たっていたことから、「渡米の経路として千島群島(ルート)が最も可能」の旨、人類学第1人者の金関丈夫博士に伝え関心を表明していますが、日米の学者の交流はその時代でもあった訳です。残念ながら、環境的にシベリアルートは厳しいと思われたのか、人骨の面から想定されたのか、博士が何故、千島ルートが最も可能と判断していたのか、練達の士の直感なのかは分かりません。当然、容易ではない発掘による実証です。発見された人骨が特に下アゴ形状など明らかにアイヌではないとして騒ぎにはなりましたが今後の研究とされ、最初のアメリカ人を実証する資料発見にはとても至りませんでした。明治9年の開拓官吏長谷部辰連、時任為基、明治11年御雇教師地震学者ジョン・ミルン、明治32年有名な鳥居龍蔵の調査、よく33年北海道庁の調査があり、戦前昭和の調査となっていますが、ハルドリチカ博士は状況を承知されていたのでしょう。
因みに鳥居龍蔵は、昭和14年、①北千島アイヌは、コロボックルの伝承はないが、土器・石器・竪穴住居について話を聞かせると、「我らの風俗と同じである」と答えたと言っています。②北千島人は「昔の先祖から入れ墨をしていた」と言うが、アイヌはコロボックルに教えてもらったといたるところに書いていて注意(目)をすべきと言っています。幅広く伝わるアイヌ伝承コロボックルは、ある意味で悪口なため当人たちが知らなくて当然と考えるべきで、そんな話は無いと言うのをコロボックルは存在しないとしたのは誤りだったかと修正していることが窺がえます。北のカムチャダール、南の蝦夷アイヌと戦った剽悍さを有する島から島へ行動する民としていて、まあ結論的に、南方北海道から北上した、熊祭りをせずユーカラ伝承も無い、昔の祖先から入れ墨(海民風習)していたよほど古い時代からのコロボックル的な北千島人(自称ルートン)を第1アイヌ、そして一方、アムール河人、ギリヤークの風習である熊祭りをし、北海道に北(樺太)の方からやって来た(現)第2アイヌと命名しています。
また、先の大戦でアリユーシャン列島に通訳として赴き、撤収後にアレウト族に関し書き記した日系2世で日本の高校に通い、名古屋で飛行機工場に勤務経験があり、英語、露語の通訳資格を有する春日部薫一級通訳官は、アレウト人が黒い双眸に黒髪で皮膚は黄褐色、日本人に酷似しており、目付き鋭く自尊心の強い精悍な民として、鳥居龍蔵の北千島人と共通しているのが大変、興味深いです。混血でない原民が日本人と似ているではなく「酷似」と表現した「日本人」を、春日部2世がどう認識していたのかですが、新鮮な目で見た所見は興味深いモノです。これらの成果を子供に教え世界に伝え、更に共同研究により理解を深めていくことが必要です。