石のみならず 歴史的に意義深い①人骨、②活動に光を!

図左下、愛知・伊川津縄文人が「日本人どこから」の起源(場所的)の方向性を示しており、1万件超の遺跡が示す北部九州からの北上(沖縄南下)史にあって日本列島中央部の浜松において始まりの祖代、縄文・・と時代的に連続性を示している根堅・蜆塚の古人骨があります。また図右、伊豆の海における世界最古の生業の往復航海及び山麓では最古石器や100を超える陥し穴の設定による猟など知力・技能・社会性の古さを示す活動が見られ、それらの意義は大きい(原始人は誤解)です。この地域で集中的に発見されており、日本先史の認識及び現生人類初期のアメリカ新大陸移住問題への関り可能性からも意義深く、世界遺産登録に相応しいものです。歴史を科学する、日本考古学の祖であるエドワード・モースが、北上した北海道の遺跡について「プレ・アイヌ」と断じ、 また、制約の中で熱意をもって日本先史の探求に尽力された東京帝大の坪井教授などの先達に光をです。 13世紀からのAinuとは異なるので内外の誤解は正すべきです。教室に、世界に。

  

当然、石(器)より人(骨)です。また、残らぬ竹・木・骨器にも思いを馳せましょう。

①浜北・根堅遺跡で発見された祖人Sojin・縄文人骨ペアは、極めて重要なのです。隣の愛知・伊川津縄文人骨はDNA分析でアンダマンやラオスなど南方インマレイド系と類縁であることが示されました。それが隣の浜北縄文人骨と類縁と考えられますので、同地の下層に繋がる祖人もと推定されます。そもそも約4万年前に「曙海」の畔から南方系人が、九州西側から沖縄へ南西諸島を南下し、東進して静岡へ至ったものと(かつては北方からの可能性で白紙にしている巷間本もありました)考えられます。また、浜北東隣では、伊豆の海を3.8万年前から黒耀石を求めて伊豆祖人が舟で行き来していたことが原産地分析で分かっており、3.7万年前の長野高地における祖人の活動も発掘されていますから、「いつ頃、何処から」は見えています。列島中央の祖人の渡海・陥し穴猟の知的レベルも各地適応で注目すべき重要な事で、地域の環境に応じ適応の工夫ができたことでしょう。②近年のDNA分析や考古学分析の進展で「出アフリカ」後の人類の歩みが明らかになってきました。そして南ルートAと北ルートBが考えられ、今では日本列島へは南方における始まりから沿岸系A-1と考えられますから、渡海の北部九州、沖縄、伊川津、浜北、海行き来の伊豆の祖・縄文人は納得です。また、知的なレベルから長野高地へも活動範囲を広げ、多様な石器を生み出したことも分かります。

さて、巷間に見られる北ルート説ですが、現生人類・新人の4~3万年というレベルでアムール河口・樺太地域と北海道にマンモスハンターが来た痕跡は無く、また、モンゴロイド化も「未だ」でした。③北海道史は、青森・陸奥平野を基盤に海峡を越えて適応した3.5万年前後からの拡がりであり、道内発見最古の帯広地域から道北へ千島へと北上を継続したことでしょう。礼文縄文人も北海道犬も南方系の北上であることを示しています。そして、列島の1万年件を超える遺跡が総合的に九州からの北上・南下史を支持し、列島中央部の浜北人骨ペアは実証基礎として重要です。そして今、最初のアメリカ移住との関わり可能性で6千年前縄文痕跡のある北千島、遊動海民の留頓ルートンRouton・コロボックルCorobocleが北上史の延長痕跡として注目されるのです。因みに、13世紀からのAinuアイヌは時代的に全く対象外であり、内外に誤解がありますので正されねばなりません。浜北人骨ペアを国宝に、周回遅れの教室にこれらの事を、そして世界に発信です。

巷間本に左上小図、南米に至るまで移住ルートの矢印が示され、日本列島ルートも候補と言えるもので祖代研究会(RoPJ)と同様の説となっており、支持できる内容です。

ベリンジアへのルートも崩れたこれまでの定説Bの「シベリア方向」とせず空けてあり学術的で、DNA分析から時期はベリンジアに2.4万年前頃、進入規模は5千人という数字が、米ニューメキシコ足跡発見衝撃の時代に大変有意義な尺度を与えます。進入後の南下も「無氷回廊」説と「沿岸南下」説の後者を示唆と指摘し納得できるものです。そこで拡大図で祖代研究会(RoPJ)が細部コメントすれば、第1にルートは大区分でAとBであり、A-1、A-2、B、混合を含めて4説の黒枠コメント内容となり、ここで言語学的にはA-1、A-2と説を唱えられた松本博士の慧眼は、当時B説主流であった世に埋もれていましたが光が当たっています。留意すべきこととして、アフリカを出たのは黒人であり、東進後の時間経過と新環境適応で「インマレイドInmalaid」(仮称)に変化したと考えられます。そして緯度を北上により亜熱帯を越えたことは大きな状況変化と適応と認識すべきで、未だモンゴロイド化(2.5-1万年前、米ハーヴァード大Dr. Howells)はしていなかった時代の変化(DNA分析でも分岐が多く発生)した「北インマレイド」のA-1、A-2であったという事です。なお問題は、図中の赤枠「縄文人は最初の東アジア集団の子孫」説明は大げさな奇異です。2代目ですから先代・初代の祖人Sojinの子供であり、何処から来たのでもない日本列島で生まれたものです。

そこで教科書の後期旧石器時代の「後期旧石器人」とでもすれば、世界語であって国によって時代が異なり、縄文・平安・江戸などと合わない違和感となる不適切です。また、日本史の始まりが「大陸・半島から来た」は誤解で、「曙海の畔・北東亜平野東岸」から「家族が渡海」した事実は近隣食の成り立ちと異なりその後に影響ある大変重要なことです。右図、内外でこれまで説明の無いA-1北海道ルートについては、当時の青森・陸奥平野の賑わいを基盤に、3.5万年前後には北海道に適応しました。道東ゲートウェイから北上、白滝遺跡の黒耀石は国宝指定答申、礼文島縄文人と犬は南方系の痕跡、最大約75kmの海を越えて行った北千島は少なくとも6千年前からの痕跡で十勝石(黒耀石)の利用や有柄・有茎石器が見られ、そこの「余程古い、コロボックルである」(東京帝大 坪井正五郎、鳥居龍蔵)遊動海民の自称であった「留頓・ルートン・Routon」(仮称)は、カムチャッカ半島南南部にまで進出していて、むしろ向こうが主体であったことが明らかになっています。更に北に進出していてベリンジアは指呼の間、新来のシベリア勢力に押されて後退して来たとも考えられる重要な参考痕跡です。

実は日本の教室が、1万件超の遺跡に支えられて太古にしてはよく分かっている祖代の内容を採り挙げず、世界の人類史論議に周回遅れなのは、説明と議論ができる用語が無い事(祖代Sodai、祖人Sojin、曙海、北東亜平野、留頓、最初のアメリカ人など)が大きな原因で、それを「よく分かっていないから」と逃げていると言える惨状です。他方、Ainuが彼らの伝承で美しいと入れ墨を真似た北千島の留頓コロボックルとは違う対象外の13世紀からのことであるのに内外において登場してしまっている誤解は改善すべき問題なのです。教室で説明と議論を、世界に発信を。 

大谷選手の大活躍の蔭で、①世界人類史・日本史界では、米ニューメキシコで発見された足跡(2.3-2.1万年前)が騒ぎです。

既に、DNA分析や考古学から「最初のアメリカ新大陸移住人」(PAC)がアジアからは定説ですが、「いつ?」が数千年遡っただけでなく、モンゴロイドではなかった事、もっともらしかった「バイカル湖の方からマンモスを追ってシベリアから入って行った」も、数人での槍持ちハントは実験考古学で否定されました。何しろ肝心のシベリア東端・アラスカに対応しうる痕跡が見つかっていないのですから正に謎なのです。そんな古い事は関係ないと教授ですら言いますが誤解です。殺し合いの未だ無かった時代の万年前のアメリンドの拡がりは、DNAが薄まっても消えても暮らしぶりや精神面で大切にしたこと、言葉などは底流に今も受け継がれていると考えるべきなのです。人間の脳は建て増し建て増しであって太古は残り、リセット型ではないのですから。足跡発見で、北米遺跡は全てがずっと新しいことになり、舟で行き着いたと考えられている南米が注目され、信頼性が高いモンテ・ヴェルデ遺跡(チリ)で20種の海藻が生活に生かされていたことが分かり、あらためてKelp昆布ハイウェイ(えんじ色)が注目されていますが、日本列島はすっぽり入っているのです。

その日本については②下、ラオスで8.6万年前の人骨が発見され、遺跡的にはインドネシア・スマトラ島(当時は大半島)、ラオス、フィリッピン・ルソン島とスンダランド・パンカル海の周りの南方が源境として、また、DNA的に南印アンダマン-ラオス-北京・田園洞人-愛知・伊川津縄文人の類縁性が言われていましたが、そのラオスに今回の古痕跡発見で強力に補強され、伊川津の隣の浜北は仲間の縄文人の前の祖人骨も発見されていますし、3.8万年前の伊豆の海・舟民や愛鷹、長野と石器がしっかり支えていますのでこれらが繋がります。北上した祖人Sojinは、仙台で北の暮らしの予行を行い、東西が合一した賑わいの青森・陸奥平野を基盤として3.5万年前後から道東に進出し(巷間のマンモスハンタは来たは誤解)、「道東ゲートウェイ」から樺太・千島へ北上を続けたことでしょう。沿海州アムール川畔でも発見されている白滝黒耀石が国宝に指定答申されています。さて③千島方面ですが、30数個の島々は次々に見え、最大島間離隔は約75kmですが舟で行けない距離ではなく冬は流氷を歩いて行けました。最北端の占守島で、少なくとも6千年前に海民の暮らしがあった事が発見され北海道大学から報告されています。問題はこの議論において内外でアイヌの名が出ますが、樺太の方から始まりのアイヌ文化は13世紀からの事で、6千年前の事や北千島の遊動海民の対象に名が出るのは対象外の誤解です。

中世から確認されている、「余程古い、コロボックルである」(東京帝大 坪井、鳥居)とされる自称「西の人」の留頓(ルートンRouton)は、かつてはカムチャッカ南南部に進出していてそちらが主体だった事が明らかにされており、おそらく更に北方に居たのが新来のイテリメン(カムチャダール)に押されて後退して来たとも考えられます。となればベリンジアは沿岸伝いの指呼の間ですから、痕跡発見の無いこの地域に関し候補となる重要な資格を有します。謎の地域の痕跡は簡単には分からないでしょうから、周辺から理論的に迫ることになり、地域的には南方から南米まで、分野ではDNA・考古学・古環境・古生物・・・テーマは大きく拡がっていますし、このような事を今の教室は扱っていませんので多様で斬新なのです。

科学誌Nature Communicationsが、ラオス・タンパリン洞窟における発見を今週号で掲載。

左図、地域ではこれまでインドネシア・スマトラ島、フィリピン・ルソン島での古い発見があったが、今回のラオスにおける頭骨・脛骨等の充実の発見と分析は「日本人は何処から」に関し、出アフリカ東進後のスンダランド・パンカル海の南方説を強く支持。これまでDNA分析でアンダマン諸島人―ラオス古人骨―北京・田園洞人―愛知・伊川津縄文人の類縁性が指摘されていたが、今回、中のラオスにおける地域最古の発見で強化され、伊川津隣接の静岡・浜北縄文人更に同地の祖人骨により列島史の始まり時代からの繋がりが想定され、右図、地域的にも沖縄から青森・陸奥平野から海峡を越えて北海道に進出し北上を続けたと考えられる事、2代目の縄文世界遺産まで納得しうる歴史の流れとして繋がった意義は大きい。 まずは教室に、日本の状況を世界に。

“First Americans” candidate

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Right: ①Vitamin D, indispensable to infants and mammary gland of some tribe adapted to the Beringian environment ②Rich in fish and sea bird egg ③in Kelp Highway



Left: Ancient evidence of human bones, artifacts and activity since 40,000 BP in Japan

北方でビタミンDが不足すると、知られていなかった近代でも深刻な病気になる悲劇は多数起きていますが、当然にして万年前の始まり祖代において出アフリカから極北に至った人類も直面した大問題。特に最終氷期最寒期(Last Gracial Maximum)のシベリア―アラスカを繋いだ陸地ベリンジア(Beringia)では、寒く暗い日照の乏しい状況であり、「北インマレイド」の膚はメラニン色素が濃かったでしょうから太陽光線の皮下取り込み量が不足しがちだったでしょう。

ところが 図右①、 近年の研究で、胸の乳腺等が進化してビタミンDの多い母乳を赤ちゃんに提供できるお母さんが登場し、新生児が環境に適応して生き残り、その種族が拡がり繁栄したと考えられる科学的な分析による説は納得しうるものです。となれば②、そもそもビタミンDの多い魚を、摂取効率の良い海藻、海獣脂肪や海鳥卵などを食べることは重要な事となり、③太平洋沿岸のKelp昆布Highwayルート(図のえんじ色)が注目されます。南米赤枠の有名なモンテ・ヴェルデ遺跡(14,500年前)では何と20種の海藻(欧米では海の雑草)を食していた痕跡が発見されているのです。勿論図左(前回説明)、曙海畔から北部九州への渡海で始まり、周囲えんじ色で染まる列島中に拡がった祖人Sojinが注目されます。3.8万年前に伊豆の海を行き来した祖人Sojinは、青森・当時の賑わいの陸奥(湾)平野から狭かった津軽海峡を越えて「道東ゲートウェイ」から千島・樺太へと北上したと思われ、アイヌより「余程古い」「コロボックルである」(東京帝大 鳥居龍蔵)遊動海民の留頓(ルートン)という、カムチャッカまで進出していた痕跡のある魚介食の民である日本列島ルートの可能性もこのビタミンD説で補強されます。生徒に教え、世界に発信、国際共同研究の推進を。

6月8日は世界海洋デー。現生現生人類移住史における最後の謎とも言うべき「最初のアメリカ新大陸移住」(FPAC)問題は、2.3万年前の米ニューメキシコにおける足跡発見で定説が崩れ見直される中で、Kelp昆布Highwayの日本列島ルート説が登場。豪州への移住等とともに海を越えた祖人Sojinの種々の事象が示す知力・社会性に注目です。

実は、国宝指定答申がなされた遠軽白滝の黒耀石に匹敵する始まり祖代(縄文Jomonの前、一部関連含む)の世界的にも重要なモノ・コトが数多くあるのです。そもそもの始まりが曙海の畔から30-40kmの対馬海峡を約4万年前に家族で越え、沖縄から北海道にまで列島中に拡がりました。3.8万年前には黒耀石を求めて伊豆半島から神津恩馳島(当時は陸続き)に行き来していた活動が世界最古で、南ではトカラ列島を越えて山下町洞祖人などが、世界では一般的に難しいとされる離島で暮らしていて特筆されます。津軽海峡は若干狭かった上に陸奥湾が平野だったので多くの人の賑わいがあったことでしょう。竜飛岬のみならず大間崎が道東へは近く有り得たことでしょう。そして何と言っても万年の経過で残存が難しい「フネ」は重要で今後の解明課題ですが、アイヌ(13世紀~、入れ墨の先住コロボックル真似というアイヌ自身の幅広い伝承)より余程古いコロボックルだとされ(東京帝大助教授 鳥居龍蔵)、6千年前の縄文遺跡(米Dr. Ben Fitzhugh)人などの子孫かと考えられる北千島・カムチャッカ南南部にまで進出していた(北海道大 高橋克範)遊動海民の留頓(ルートン)の製作した流木舟は、海を越えるために種々の工夫をして作られた点において参考になり注目され、伊豆祖人(フネ:丸木舟説、海獣皮説)の子孫のモノ・コトとして納得できます。なお、南米への最初の移住も始まりは太平洋沿岸を舟で南下と考えられており、解明は世界的にも重要です。ともかく祖代・祖人の用語を定めて周回遅れの教室で語り合い、世界に発信、国際共同研究の推進に努めるべきです。

何事も始まりを知らずにその後の史的発展を真に理解することはできませんし、問題多い現代に温故知新が求められます。祖代・祖人Sojinという「用語が無い」ために、教室で説明・議論されることが殆どなく新聞テレビも報じない日本史の重要な始まり時代。約4万年前からの初代である「祖代Sodai」約2.4万年の基層、次の縄文時代1.3万年を合わせた習俗文化の基盤は、日本史期間の92%の厚みを有しているのです。

さて右図、世界の現生人類移住史の最後の謎とも言うべき「最初のアメリカ新大陸移住」(FPAC)問題において、出アフリカ後の東部アジアへの東進―北上・亜熱帯越え―モンゴロイド化後の今も続く南下という歴史の中、始まり時代の日本列島ルートは、注目されてきています。そして、これに関わる主に祖代の重要な事象として左図15例が挙げられます。いずれも考古・DNA学者は「そんな事知っているよ」と言うものですが、日本史はもとより世界人類上も内外にあまり知られていない一つ一つが重要なコトなのです。更に例えば右図、”歴史上のノーベル文学賞“である紫式部、清少納言が何故1000年も前に登場し得たのかは、92%の基盤を理解することなく説明することはできないでしょう(巷間のフェミニストは、日本文化の認識不足。日本女性の60%は再び生まれる時も女性がいいと言ってます)。民主主義は、選ばれる議員の高いレベルと有権者が知らされていることが重要です。多様な行政、地域興しに当たる地元の先生に幾つ知っているか訊いてみましょう、お爺さんお婆さん有権者にはオリンピックや紫式部がと言って教えてあげましょう。それにしても局部磨製石斧をネットで売り買いとは余りに酷過ぎます。-日本祖代研究会RoPJ(Researchers on Proto-Japanese)

図右、米ニューメキシコにおける2.3万年前の足跡発見は、「最初のアメリカ新大陸移住」(FPAC: The First Peopling of American Continent単数)問題について、近年の考古学やDNA分析等を踏まえて考えれば、単に祖史を数千年遡らせるだけでは無い幾つもの見直しと検討を迫っています。

図右、第1に欧米では大西洋ルートとの対比で、シベリアから”陸橋“ベリンジアを経てアジア人が入って来た事が今や自明となり実質的に決着しました。その「シベリアから」は、マンモスを追ってモンゴロイドがやって来たというものでしたが、マンモスを大型動物やトナカイと修正したとしても疑義が生じています。それは、ベリンジア直前のシベリア東端に至る南回りと北回りという問題です。現状は巷間のDNAの拡がり図でも北回り図が主流となっていますが、南米をよく見たDNAや考古学等 の分析から南ルートでしょう。先ず新旧と区分しているモンゴロイド用語問題です。東部アジア祖史は、出アフリカから東進しインド亜大陸を経て南方へ、そして北上に転じシベリア南部で寒冷適応の身体変化をしてモンゴロイド化し(第1段階)、今度は南下して東南アジアにまで拡がった第2段階という「ローラーが往復したかのような構造」にあります。この第1段階である現生人類移住の「往きのローラー」が北上を継続してシベリア東端にまで至ったのが南回りルートであり、日本列島の種々の痕跡はその中で重要な意味を持っていますし、始まり時代の日本祖史もその中で位置づけ認識せねばなりません。そして亜熱帯を越え裸体・野原で1年は暮らせない「北インマレイド」の図のような豊かな参考に満ちた南回りの諸事象に比し、一方の北回りは出アフリカ後に黒人が北上した後、どのように人が変化して2.5万年以前にシベリア東端に行ったのか、実はイメージは示されておらず様相がはっきりしていないのです。

第2に図左A図、マンモス・ハンター説ですが、実験考古学によってマンモスの厚い毛と皮膚に対する北米で発掘された石器による実験から、巷間の大槍持つ数人がマンモスを襲って狩りする図は否定されています。またB図、2.5万年以前にシベリア東端に至った人々は未だモンゴロイド化していない人々でしたので、巷間のモンゴロイドが槍担いでベリンジアを越えて行く図は、有力な沿岸進入説も登場しており、誤解の元です。そして図右で詳説しますが、そもそも東部アジア祖史は、出アフリカから東進し南方・スンダランド地域に拡がり(豪州にまで)、海川岸域・マングローブ・熱帯樹林・草地・山麓等の種々の環境と時の経過で黒人が「インマレイド」化(これを旧モンゴロイドと称したのが誤解と混迷の元)し、北上して裸体に近い状況で暮らせる亜熱帯を越えました。シベリア南部に至り(西方からの種族も交え)、寒冷に適応して身体が種々の変化を生じて2.5-1万年前頃にモンゴロイド化(Dr. Howells, Harvard大学 )した第1段階(往きのローラー)。次に、このモンゴロイドが南下(東西・北にも)して東南アジア地域にまで拡がって行った今も続く第2段階(復のローラー)、即ち「東亜往復構造」を認識すべきであり、日本人2重構造説も単なるその一部なのです。重要な事は、亜熱帯を越えた事と時の経過で変化したと考えられる日本列島人が含まれる「北インマレイド」で、新旧モンゴロイド区分の問題点はこの重要な点の認識が曖昧で不十分な事です。

巷間の先史書の問題は、当時の状況は今と環境を全く異にしていた事をよく認識していない問題です。散在する湖沼と河川網の「北東亜平野」(今の東シナ海一部・渤海・黄海で、朝鮮半島は無く朝鮮山地であったので、巷間の日本列島へは朝鮮半島から来たと言うのは誤り)及び時代により伸縮した「曙海」の畔、日本列島、おそらく樺太・千島、アムール川地域などに北インマレイドが拡がっており、北上を継続してシベリア東端に至ったと考えられるFPACの最有力候補なのです。DNA分析においても、アメリカ新大陸特に南米先住民との類縁性をはっきり示していて、明らかに古いミトコンドリア母系ハプログループDを欠く北上黒人の北回りとは大きな違いです。日本祖史の最古の実証活動の痕跡を残す伊豆祖人、沖縄・静岡愛鷹・長野などと共に静岡浜北祖人が、隣の南方系の伊川津縄文人と仲間の浜北縄文人に同地の遺跡で繋がっている事が重要です。即ち、始まりの祖人と南方系を示す縄文人との繋がりで、先人たる祖人の南方系性をも補強しているのです。最後に図左、大きな問題が祖史を世界にも説明し教室で議論する用語です。人類史、日本祖史上の始まり時代として、重要であるにも拘らずよく知られていません。実は教室でFPAC問題が論じられない周回遅れの状況の原因は、用語にもあります。海外では日本の始まりを縄文Jomonと受け取れる紛らわしい誤解すらありますし、日本の教授やSNS動画でも「縄文人は何処から来たのか?」と愚問を発しているものがあります。2代目ですから、日本列島に決まっています。

さて図左下、日本祖史を表現する用語ですが、「日本原人」は現生人類・新人を扱っていますからダメです。「ヤポネシア」(人)では、生徒は縄文人の親は異質な外国人かと誤解します。「先土器人」では、始まりが青天井で不明です。ではそこを明らかにと「後期旧石器人」としても、世界語であるので国よって時代・期間を異にしていて英語にすれば誤解され、対の語である新石器人は縄文人に溶けて日本史には出てきません。そもそも、縄文―弥生―古墳・・・江戸、明治と言っている話の始まりが、世界語の「後期旧石器人」では木に竹を繋ぐ違和感であり不適当です。また、用語が長過ぎます。人類史や日本祖史を論ずるのに、生徒が舌を噛みそうなのも適切でないです。結局、世界に知られた縄文Jomonの前、約4万年前からの日本史始まりの祖先は「祖代Sodai」の「祖人Sojin」が相応しいでしょう。Jomonのように世界に理解してもらい定着させるには、祖人Sojinを国内で汎用しJomonの初代誤解も解くことです。教室の周回遅れを取り戻し、世界に発信、国際共同研究による更なる探究の推進です。  -日本祖代研究会(SGPJ: Study Group on Proto-Japanese)

図右上、米ニューメキシコ2.3万年前の足跡発見により、南米モンテ・ヴェルデ遺跡で揺らいでいた学界主流の史観(1.4万年前からの北米無氷回廊通過・クローヴィス石器文化始まり)は崩壊しましたが、衝撃の重要な意味は未だしっかり認識されていないようです。

アメリカ新大陸祖史の時代を数千年遡らせ新たなルートを挙げるだけでなく、「未だモンゴロイドは登場していなかった」、モンゴロイドはいなかったので「誰が?」という重要な修正の動きは学界に見られません。足跡で時代は古くなったものの、シベリア北ルートから(マンモスを追って)モンゴロイドが来たというイメージのはっきりした修正論説は未だ無い(実験考古学は、北米発見の石器では、毛に覆われ厚い皮膚の数人で槍投げのマンモスハントはムリと否定しています)ようです。図中、東部アジア史は、現生人類が出アフリカ後に東進し、南方から北上して亜熱帯を越えてシベリア南に至り、西方からの種族も交えて2.5-1万年前から寒冷・寒風・降雪の厳しい環境に適応し、先ず大きく身体を変化させてモンゴロイド化しました(第1段階)。今度はそれが拡がり出して南方の東南アジア地域にまで南下した(今も続く)第2段階という「往復移住・混合」が特色です。我が国の日本人2重構造説も、大陸・半島から来た点を強調していますが、このアジア祖史の大往復ローラーがかかった流れの中の単なる小さな話に過ぎません。現在よく認識されていませんが、始まりの第1段階である往ローラーのゆっくり進み長かった期間の基層の影響は習俗文化において重要であり、文化の基盤は根本において変わっていないと考えます。

左図、南ルートは図のように、長頭人の出アフリカ―南印―沖縄(九州からの拡がりで本州・北海道も同様)―北千島と人体の繋がりが見た目にも感じられ、アメリカ新大陸とは、近年のDNA分析による古い母系ミトコンドリアのハプログループmt-Dの状況や北アマゾンなどの種族との見た目の類縁性もあります。さて、「最初のアメリカ新大陸人」(FPAC)問題では、実は肝心の入って行った出発の東部シベリア・ベリンジア地域にニューメキシコの足跡を可能にするような時代の痕跡は全く見つかっていない、最後の謎となっていて、せいぜい1.5万年前迄です。アフリカを出て直ちに北上したグループ、出アフリカ北上黒人は「東進後どんな人?」が問われねばなりません。北米沿岸や南米に多い古mt-Dを有していないのにも拘わらず、欧米先生による渡米の主流説は明確な修正の無い北ルートのままなのです。即ち、解明すべき問題はFPACなのですが、現代に影響の大きいモンゴロイドを新旧と称し、南北の人の大きく異質で時代を異にする違いが大雑把で曖昧になっているのです。FPAC問題の北ルート・マンモスハンター渡米説は、おかしいのです。むしろ今や最初の移住として有り得たのかが問われねばなりません。実証性ある南ルートにもっと光を当てるべきなのです。最後の謎の解明に更なるシベリア東端状況の深堀りを追求するのみならず、周辺特に行き着いた南米の研究をすべきです。欧米先生は誤解生む「新旧モンゴロイド」用語が、日本先生は縄文Jomonだけでその前の北インマレイドも祖人Sojinも用語の無い事が、論議し探究する上での障害なのです。

周回遅れの教室に紹介し世界に発信を、国際共同研究の推進を求めます。

アフリカ発の長頭は、「現生人類」が正に生まれた出現の痕跡を感じさせます。

猛獣が跋扈する地上で暮らさざるを得なくなり、左図、危険を察知し食べ物にありつくには音より臭いより遠く近くがよく見える目情報が重要で視線を投影する後頭が拡がり、他方、獲物をさっと取って身をかわし逃げる動きのすばしこさのための小脳が拡大して後頭部が大きい長頭となり高機能となりました。問題はこの事が出産を困難にし、その母子への危険を増大させました。未熟児は弱いですから、10ケ月十分にお腹で栄養補給が必要ですので、生まれる頃には大きくなります。先ず長頭を上手く縦にして通過させたら、肩を通すために90度回して通りやすくしないといけませんが妊婦が自分ではできず手助けが必要です。生まれても他の動物のように立ち上がったりするわけもなく、長い間の給餌が必要ですので夫婦親族が関わります。愛情を注ぎ協力して子育てし、また、妊婦が生もうとなった種族が高機能の頭を持って生き残り繁栄していきました。アフリカを出た黒人で、東進し東南アジアに至ったグループは、氷河期でしたが温暖な気候に恵まれ、熱帯雨林・草地、マングローブの海川辺や山麓などの多様な環境の中、インマレイド(例:マレーのSemang族)に変化し、豪州へフネ・筏で、北上し日本列島祖人を経た痕跡は離島である北千島の留頓(ルートン)にまでも見られます。これを欧米先生が新旧区分のモンゴロイドと称したので訳が分からなくなっており、「最初のアメリカ新大陸人」(First Peopling American Continent)問題の有力候補はインマレイドが変化した「北インマレイド」であって、新旧モンゴロイドでは正しく認識できず、表現して議論も出来ません。

さて学界は、右図、出アフリカ直後から北上した黒人が、その後東進してどのように東アジアに関わったのか、どのように黒人は変容していたのかよくイメージを与えていません。一方、東部アジアでは、DNA分析や考古学の知見から、豪州への早い段階での人類のフネ・筏での到達が確認されており、東南アジアからインマレイドが北上し、亜熱帯を越えて裸ではとても暮らせない時節がある大きな環境の違いに適応(3=4万年間)して「北インマレイド」に変化したと考えられます。更に北上を続け、シベリア南地域において北上黒人系の西からの種族も加えて寒冷・寒風・降雪の厳しい環境に適応し、凹凸・開口の少ない頭部やがっしりした体つきなど大きく身体を変化させて諸特徴を挙げられるモンゴロイド化(2.5-1万年前~、Dr. Howells Harvard U.)しました。そして今度は、そのモンゴロイドが南下して東南アジアにまで至り、今もその影響は拡大し続けています。過高断面的にこれを評すれば、モンゴロイドに成るのに東西混合の二重性が、また、インマレイドが北上しその後南下した、ローラーが上下に2度、往復でかけられたような二重性が指摘できる東部アジア人の認識すべき構造です。巷間よく日本人の二重構造説などと何でも大陸・半島からと言いますが木を見て森を見ておらず、東部アジアのこの大きな構造認識が基本なのです。これ等の事が、実は世界人類史のFPAC問題に関わる重要な事であり、 北インマレイドが重要な 生活習俗・言語の基底 なのです。新旧モンゴロイドの用語では 、この中間的な状況を適切に表現できず、曖昧で正しく認識し得ず誤解も。 細部は次回説明です。教室に、世界に、そして国際共同研究を。


図右上、アジア人類史の基本が混迷している原因は、ジンギスカンに心底驚かされた欧米先生が、み~んなモンゴロイド(新旧)と命名したため分からなくなっていますが、南方系インマレイド、北上した北インマレイド、寒冷適応で身体変化したモンゴロイドで分かります。

出アフリカ東進で沿岸や熱帯雨林などの暮らしの環境によりスンダランド地域で変化した「インマレイド」が、北上し亜熱帯環境を越えて寒さのある北に入って「北インマレイド」に変化し、また、シベリア南において東西から進んだ人類は、 万年後には 寒さ・風・雪の厳しい環境に適応してモンゴロイドに大きく身体変化しました。日本人の祖先・祖人Sojinは、「曙海」の畔・「北東亜平野」沿岸(朝鮮半島は無く、大陸から来たは誤解です)から家族渡海し、列島中に拡がりました。今、米ニューメキシコ2.3万年前の足跡発見で、人類史最後の謎である「初期アメリカ新大陸移住史」(FPAC)論議の定説が崩れ、行き着いた南米に注目でDNA分析より太平洋沿岸民の類縁性が指摘されています。ここで近年研究が進む北アマゾン奥地の孤立Yanomami古族と、人類史の日本列島ルート上の注目地域である北千島の海民・留頓(ルートン)が似ていることが驚きであり納得です。人類史の原点はアフリカで、絶対ではないですが注目すべき一つに長頭・短頭問題があります。米ハウエルズ教授が指摘したように、モンゴロイドは、発見された米足跡に至ることは有り得なかった2.5-1万年前出現と新しく、長頭の北千島・留頓は、アフリカ・北インマレイド系であり、万年を超えるヤノマミ族もモンゴロイドではないでしょう。北インマレイドの沖縄・石垣島祖人―海民・伊豆祖人―北海道祖人―コロボックル・留頓―「モンゴロイドでない北インマレイド系の南米・古先住民」の類縁性に驚くこともなくむしろ納得するのが最前線です。

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この事をしっかり認識しないDNAランダム・平等サンプリングは深層・真相に迫れず、むしろ誤解を生むので要注意と主張しておきます。教室に、世界に、更なる国際共同研究を。

右図下、北米での2.3万年前の足跡発見で初期アメリカ新大陸移住史FPAC問題の定説は崩れ、行き着いた南米に光が当たり、太平洋岸のKelp昆布Highway及びDNAのミトコンドリア(母系)ハプログループDが注目され、既知の古い14,500年前の(チリ)モンテ・ヴェルデ遺跡などと相まって、舟で南下して来た説が強まっています。

そこで、3.8万年前からの海民・伊豆祖人のフネでの活動、日本と南米のDNA―mtDの類縁性、北海道・千島列島を通ずる昆布ハイウェイ沿岸での暮らしの共通性などから北海道、日本列島北上ルートの移住説図が登場して来ています。但し、欧米に見られるカムチャッカからアリューシャンへのルートは、コマンダー諸島~アッツ島間が330kmであり3万年前頃の家族渡海はムリでしたでしょう。千島列島は、次々に島が見え最大の最大離隔距離は約80kmですが、冬季には流氷の接岸で歩いて行ける状況でもありカムチャッカ半島に行けたと考えられます。左図、そこで注目されるのが北千島の遊動海民・留頓(ルートン)で、明治32年に現地調査した鳥居龍蔵が「余程古い」とし、後に師である坪井正五郎のコロボックルCorobocle説を認めたものす。坪井東京帝大教授は、西洋科学を導入して間もない明治維新の時代に、皇国史観の縛りの厳しい中にあって、コロボックルと称することで祖先の歴史の探求のための北海道調査を行い自由活発な議論を推進し、初めて実質的な縄文遺跡図を作り上げたことは高く評価されます。また、鳥居龍蔵は北千島のみならず南米調査も行っていますが、シベリア東端・ベリンジア西端の海岸遺跡(竪穴、石器等)をチュクチ人(海岸と陸地の2種)がオンキロンと呼ぶおそらく彼らの祖先の痕跡である点に着目し、重要であって心すべしと言い置いているのは驚くべき慧眼です。

右図、既に米ワシントン大Dr. Fitzhughが、北千島における6千年前の縄文痕跡を報告し、北海道大・高瀬克範は実はカムチャッカ半島に留頓が進出していた痕跡があり、むしろそちらが主体であった事を明らかにしましたが、自称の「西の人・ルートン留頓・モングル」の所以であったことが分かりました。また、北千島を実視したH.J.Snowが留頓の舟を伝えていますが、大木が得られない地での流木利用の舟は興味深く、昆布ハイウェイ説関連の重要な遺物として注目されます。このような中で、馬場脩(おさむ)が昭和8・1933年から昭和13・1938年まで5回にわたり北千島の継続した現地調査を行っているのは偉業であり(北大も調査)、今、その大量貴重なコレクションは注目すべきものです。他方、留頓については、形質情報の他に、人骨の存在が知られており、また、子孫は日本はもとよりカムチャッカ半島、極東から東欧にまで存在していることが知られていますから一大プロジェクトでの調査研究が期待されます。人類史、日本史の解明において、内外の文献を含めたこれらの総合的な研究が今求められているのです。教室にこの状況を知らしめ、世界に発信、総合的な国際共同研究を推進すべきです。

結論的に、今や人類史人類史最先端の研究は日本史最先端の研究にも成って来ています。考古学は関東ローム層の下に、無いと思われた人類の痕跡を3.5万年前の“岩宿層”に発見し、その後の新たな発見に幕を開きました。そして近年、3.8万年前の伊豆の海における黒耀石採取のフネによる活動を、3.7万年前の長野の高地における高い認知力を示す多様な石器群を、北海道・白滝に当時の膨大な宝脈・黒耀石と人工の遺物が発見されて国宝指定に答申され、昨年も帯広で1.5万年前の黒耀石器がザクザクと発見されています。

一方、静岡・浜北では岩宿層・祖代と次代の縄文層の人骨発見による繋がりが明らかになり、これらから約4万年前の「曙海」の畔から北部九州へ家族が渡海した始まりから、沖縄へ南下し陸奥・青森を越えて北海道に北上して拡がった列島史が見えてきました。他方右図北米ニューメキシコにおける2.3-2.1万年前の足跡発見により、人類史「初期のアメリカ新大陸移住史」(FPAC : First Peopling of American Continent-単数)が、数千年遡る事となりました。1.3万年前頃のクローヴィス文化による始まり定説のみならず、全ての北米における既発見遺跡の意義が薄れて、行き着いた南米遺跡が注目されることとなりました。そしてDNA分析によってアジアと南米のつながりが明確になって「何処から論争」に一応の終止符が打たれると共に、舟で南米に南下した始まり説、太平洋岸Kelp昆布ハイウェイ説の登場で、日本と南米のDNA類縁性も注目されることになっています。ここで、これまでアジア(人)=シベリア(人)で終わっていた「何処から論争」は、ベリンジアからアラスカに至るシベリアの東端へ「誰が、何処から」が問題となります。米イリノイ大の研究で、カムッチャッカ半島及びアムール河口・北部樺太の人々は新着の種族であるとみられ、その深層が注目されることとなっています。

太平洋岸ルート説は、既に北海道、日本列島にまで延伸されたものが歴史動画に登場して来ていますが、右図千島列島の北端である占守島には6千年前の縄文痕跡が報告されており(米ワシントン大Dr.Fitzhugh)、また、明治32年の鳥居龍蔵の北千島現地調査から「余程古い」石器使用の遊動海民である留頓(ルートン)の状況が明らかになり、その後、人々は北に逃れた伝説の「コロボックルである」(大正6年)(Corobocle)と巷間の誤った認識を正し、師であり日本人類学の祖である東京帝大・坪井正五郎説の正当性を回復しています。気候や火山の爆発などで環境は厳しい千島列島ですが、処女地の昆布ハイウェイで海獣・鮭・海鳥卵・昆布などの食は豊かでした。次々に島が見えていて最長離隔距離は70-80kmですがフネで行けない距離ではアリマセンし、冬季には接岸の流氷で歩いて行けたと考えられます。重要な事は、近年の研究で留頓はカムチャッカ半島南南部に進出していたことが明らかになり、むしろそちらが主体であって北千島は西であり、正に留頓Routon「ルートンモングル(「西に住まえる人」の意)」であったことが明らかになり(北海道大 高瀬克範)ました。従って、イリノイ大の研究と合わせれば、深層では留頓・祖先が更に北方に進出していて新来のイテリメン・カムチャダールに圧迫されて南下して来た事が推測され、大昔のベリンジア関わりも視野に入ってきます。因みに、歴史動画では第1級の北の海民アレウト族に惹かれるのか、カムチャッカからアリューシャン列島ルートになっていますが、コマンダー諸島からアッツ島へは330kmで人類の家族での初期移住はムリだったと考えますし、ア列島の遺跡の発見からも東から西に拡がったと考えられています。

この点で鳥居龍蔵は、シベリア東端の沿岸民の祖先オンキロンのモノだと言われた竪穴・石器の海岸遺跡に注目すべしと言い置いていますが、驚くべき慧眼の指摘でした。さてこれらの事を踏まえ、近年のDNA分析による左図ミトコンドリア(母系)系統図は、時間的に祖人Sojin/縄文人(Jomon)を、場所的には北海道におけるコロボックル・留頓、北海道ヤマトを加えれば日本史版となり、愛知・伊川津縄文などのDNA分析が強化した南方共通性を主体にユーラシア内陸共通性が加味された特性を有する南方系説、ラインが異なるアイヌに「先住」を付した国会決議に対する内外の疑問がよく理解できます。米ニューメキシコ足跡で人類史の定説が崩れ、今や、世界人類史の最後の謎であるFPAC問題の探求は、日本史の始まり時代から現代に至る北方史の状況の解明が重要であり、人類史に日本史が絡み関わって今後の更なる探求が課題になっているのです。周回遅れの教室で論じ、世界に発信を、です。

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