図中、最終氷期の海水面が数十m低かった当時、よく見えた対馬、そして七里ケ曽根から沖縄に南下し、北上して青森・陸奥平野から北海道の暮らしに適応しました。
発見最古の遺跡は何と列島中央部の東京・鈴木、静岡・愛鷹、伊豆の海を宝物の黒耀石を求めて神津島に行き来した生業航海の3.8万年前から逆算して約4万年前が日本史の始まりと考えられ、3.7万年前には長野の高地に至っています。
始まりの対馬渡海は、人類が豪州への古く長距離の渡海を既に果たしていますので問題にはなりません。舟(筏)を造り、海で1日行程の長距離を上手に操作して知恵者の老人、子供を乗せて越えるのは言語力なしにはムリでしょう。
実は伊豆の航海は屈強な男たちの25kmですから謎ではアリマセンし、沖縄から北海道までの大変な拡がりからも認知力は既に原始人を脱していたと言えるでしょう。
では始まりの祖人Sojinはどんな人たちだったかといえば、人類史の拡散の状況から①巷間言われている大陸・半島(当時は無かった)から来たというのは誤解で、曙海のほとりの沿岸で暮らしていた南方系の海民であり、まだ寒地変化のモンゴロイ化の影響が無い「北インマレイド」種族の人々と考えられ、沖縄・石垣島で発見された人骨(2.7万年前)の顔復元でも納得です。
これらの事が何故、内外によく知られていないのかといえば、②実証最古で“当時の新宿”の賑わいの鈴木遺跡等に対する教室での扱いが全く適切でないことと、重要な始まり祖代Sodaiを後期旧石器時代と外来語で呼んで放置(英語にすれば、約4万~縄文始まりの期間なのに世界で誤解される)していることにあります。
大進入の無かった島国の我々、沖縄や浜松の人骨から繋がりが示されている島内変化なのに始まりの祖人が異人であったかのような印象を与え、また、今や最初のアメリカ人との関わりの可能性で注目されているのに、祖代の多くの世界考古学史上の特筆すべき事項が認識されていない問題にもあります。
日本祖代研究会(RGaPJ)は、重要な遺跡や年表の内外への周知と共に、祖代・祖人、曙海・北東亜平野・陸奥平野、インマレイド種族など始まり時代を適切に理解し、研究議論を的確容易かつ活発にし得る用語の採用を提言します。「後期旧石器時代」では長過ぎて、生徒が議論で舌を噛みます。