今では、3.5万年前後からの北海道史始まり「祖代」の遠軽町白滝遺跡の黒耀石群が国宝に指定答申され、最右図米ワシントン大のDr. Ben Fitzhughが北千島の6,000年前という縄文遺跡を報告し、稚内に近い礼文島では4,000年前の縄文女性人骨が顔の復元までされています。1.オホーツク人とは異なり、2.樺太、道内のアイヌより北千島の「留頓」に近いという発表結果も、図右北海道周辺含む地域の時代史の概要を人的な歴史の積み重ね層序で描けば理解できます。つまり北千島・留頓は、孤立的であったため古さが維持されていたのです。鳥居龍蔵は北千島・留頓を、「道内アイヌ(第2)より余程古い第1アイヌで、コロボックル(恩師の坪井東京帝大教授の説)である」との最終認識を発表(大正6年)していますので、符合します。更にオホーツク人とは異なるという事で、それぞれが南方系の北上史であることをうかがわせ、実は樺太アイヌも、祖代には稚内~樺太は陸続きでしたのでその下層には貝塚人の存在を推定させます。山口先生の研究は、今日的に極めて重要な一つの示唆を与える意義深いものなのです。また、②重要な北千島・留頓については、5回の調査による馬場脩先生の膨大貴重な「馬場コレクション」に北上史の視点で光を当てねばなりません。
そういう状況で、千島列島最北の占守島・幌筵島の6,000年前・縄文-早前期の痕跡(Dr. Ben Fitzhugh報告)やシベリア東端のチュクチ海岸族、先住オンキロンの遺跡(鳥居龍蔵が言及)に光が当たります。他方左図、現代に繋がり「アイヌより余程古い」(鳥居龍蔵)、石器も発見されている遊動海民のコロボックル(坪井正五郎・東京帝大が唱え、鳥居龍蔵も大正時代になって認めた)・留頓(ルートン、西の人)は、カムチャッカ半島最南端ロパトカ岬地域にも存在していましたが、研究により実はカムチャッカ南端地域の方が主体であったものが縮小して来たものであり、正に占守島などに居た人々は名前のとおり「西の人」という事になっていたことが分かりました。この事は、大昔の千島の北上、更には北に進出というこのルートの物理的な可能性の推測が出来ます。従って、シベリア東端チュクチの石器人的な先住海民・オンキロン、アリューシャン列島の世界第1級の海民・アレウト族などの研究は今日的課題です。現生人類の最初のアラスカ進入のみならず南米先住民との関連という視点ではこれまで海民の祖史状況に広範な研究がなされて来なかったことから、現代科学の探求努力が期待されています。白滝黒耀石群が国宝指定答申された今、北海道・千島の最古に迫る祖史探求を生徒・学生に教え、日本の状況を世界に発信し、国際共同研究を推進することが強く求められています。
それでも、現在のアメリカ先住民に直結し、全米先史で基本となるクロービス石器文化を示すモンタナ州のAnzick幼児の人骨分析で、無氷回廊の出口にありながら太平洋岸からの初期移住系であり、西のコロンビア川で発見されたケネウィックマンも海獣食の沿岸系であることが注目され、また、中・南米へは、先ずは舟で沿岸を南下したと考えられています。始まりのアラスカへも、②2.5万年以前となれば、アジア人の寒冷適応のモンゴロイド化は未だで、また、巷間で言われているような数人が槍でマンモスハントすることは、否定されています。最新では、X::3万年以前の早い時期に細かった無氷回廊を南下した新説、Y:アリューシャンから沿岸を南米まで南下した説が出ています。問題は、③自明とされているシベリアから来た!ですが、実は欧米では、ヨーロッパから大西洋を越えて来たと言うソルトレーン説が一部に根強く、それとの比較論議で言われていたのです。初期アメリカ移住(Peopling of American Continent:PAC)者のDNAは単純ではないと分析されており、よく見ればA,B,Cの特色ある3ルートに分かれ、肝心の東部シベリア東端部では2.5万年以前の痕跡は見つかっていませんから検討されねばならないのですが、現在の主流はBとされています。