昨日、右図世界人類史の最後の謎「最初のアメリカ新大陸人」問題で、定説を数千年早めて覆す騒ぎの「ニューメキシコの足跡」の地に米先住民が集結、最大のフェスティバルが行われました。

図中下、諸説ある中で、青森(左図 白丸:最初期の遺跡と青森-祖代後期遺跡・赤四角)・北海道(Kelp Highway 昆布ハイウェイ)ルートも既にいくつかの動画で登場しており、関わりの可能性がある各地の祖人Sojin(縄文前の祖代Sodai人)も注目していることでしょう?!(縄文Jomon人は、1.65-1.5万年前で足跡に間に合わず、Ainuは13世紀からです、内外の誤解を正そう)。参加の旗に、丸に十の字の薩摩隼人・島津家・鹿児島のマークが見えて興味深いです。

左図①近年のDNA分析により、印アンダマン諸島人、8千年前ラオス人骨、狩猟族でない淡水食の北京・田園洞人、(北部九州祖人)、愛知・伊川津縄文人が類縁の南方系で、静岡・浜北、関東へと繋がっていきます。

②文化的にも伊豆の海を3.8万年前に黒耀石を求めて舟を造り行き来し、長野高地に多様な石器群が見られ、陥し穴猟や環状キャンプなどの社会性とそれらが言語コミュニケーション無しには考えられないことから、「日本祖語」を有した祖人は、もはや原始人ではアリマセン。当然にして列島中の山川、動植物などに名前があったでしょうから、別に13世紀からのアイヌが命名した訳ではありません。そして、③祖代当時の列島中央部は、沿岸及び広大な関東平野での遊動暮らしで現在を思わせる太平洋側と日本海側が連接された賑わいを見せていました。そして、そこに精神性ある縄文文化が加わって、今、東北史は見直されてきています。右図当時は日本海側に大雪が降らなかったことも幸いし、オットセイなど海獣・海鳥卵・海藻の豊かな仙台の東西2方向から祖人Sojinは引き続き北上し、早い段階から東北の高地部にも拡がっていた(白丸)ことが分かります(海水面が数十m上昇し、発見困難)。青森は最古級遺跡こそ見つかっていませんが、祖代後期遺跡(赤四角)が日本海側と太平洋側で発見されており、東西が合流した「陸奥平野」、食豊かな津軽海峡Kelp Highway(昆布ハイウェイ)の暮らしから、竜飛、大間のいずれからも容易に北海道に進入できました。帯広、常呂の旧石器は本州との繋がりを窺わせています。北海道進出の祖人は、道南・道央はもとより、襟裳から道東のハイウェイを拡がった暮らしが近年は「最初の南北アメリカ新大陸人」関り可能性で、世界人類移住史的に注目されてきています。

そして、日本一と言われる豊富な宝物の黒耀石が幸いした遠軽白滝旧石器群が国宝へ、大陸からの細石器文化ももたらされ、やがて精神性ある先進の北東北・世界縄文遺産へと受け継がれましたが、当然と言えます。生徒・学生に、世界に発信を、更なる研究の深化を。

女性議員を、女性の活躍をと言われる昨今ですが、世界に天照大御神や紫式部・清少納言に比べられる時代の偉人女性は他に見られません。その大きな理由は、約4万年の日本史期間の92%にもなる日本文化の厚い基盤に有り、近隣国との違いも島国としての独特のこの基盤にあるのでしょう。

①最近のDNA分析で、愛知・伊川津縄文人が、明治以来言われて来た人類の出アフリカ後の南方系の北上を示す類縁性が明らかになり、その事は、②始まりの北部九州祖人(約4万年前)と伊豆の海を行き来した3.8万年前の伊豆や愛鷹祖人、長野高地の香坂山祖人、また、伊川津の隣の浜松・根堅祖人(1.8万年前)、同縄文女性(1.4万年前)の繋がりとも類縁と考えられ、相互に実証性を示します。考古学的には、伊豆祖人の舟の作成・黒耀石採集の海上操舟や長野の高地にまで活動範囲を広げ、かつ多様な石器を生み出した知力が注目され、また深さ1m越えの陥し穴を60基以上設けた作業の社会性は、「あ~う~」ではムリですから「日本祖語」があったものと考えられます。祖代が遊動する狩猟採集時代と言われる中で、石器技術の高度化、環状キャンプや住居状遺構など次の代への着実な発展が窺え、始まり祖代から現代を思わせる列島中央部の賑わいが広大な関東周辺に見られました。引き継がれた縄文期には伊豆・河津の縄文工房、そして地域の暮らしぶりを示す充実の貝塚などに加え、③東日本の生活文化の面では火炎土器、土偶、木造建築物など精神性や造形のレベルの高いモノがありました。

また、それらが祖代からの狩猟・漁撈の暮らしに加わり、独特の文化で戦いに強かった(別の視点では弱点)歴史的な特徴に登呂稲作が加わり北上し変化を与えました。問題は、それらを継承するその後の東日本の歴史が、魏志倭人伝や記紀の影響による九州~畿内史観で歪められ、軽視されて至当に探求されず描かれていない事でしょう。正すことが求められています。(大谷翔平、佐々木朗希君たちもそうだと言っています?!)

浜松地元の方が不思議発見。さて、歴史上重要な北海道・白滝黒耀石器群が、昨年晴れて国宝に指定答申がなされました。ところが、石よりも重要な人が教科書にすらその意義説明をきちんと採り上げられず、世界に発信されていなのです。

実は浜松と同じ県内の「伊豆祖人」は、3.8万年前に伊豆・東京諸島へ舟で行き来し、黒耀石を採取(年代、原産地特定の実証)していた活動が世界初で、言わば「世界考古学史上の金メダル」なのです。しかし、一般的に日本列島は酸性土壌で人骨発見が無いためと新聞が「驚きの謎」と書いたためか、今一つ知られていません。そこで「根堅祖人」です。そもそも天照御大神誕生地の名(古事記)を有する尊い遺跡で、沖縄以外では最古の祖先人骨です。日本列島の中央部、何よりも近傍の「伊豆祖人」を実証的に説明しうるものであり、また1.4万年前の20歳代・143㎝、女性の根堅縄文人骨へと繋がる(いつから縄文かは学者議論中)始まり時代からの歴史を現代に至るまで示す重要な者なのです。それもこれも「祖人Sojin」という用語が無いために、教室で話をし、学者が種々の課題を議論することが一寸し難いからというだけの事なのです。それは「後期旧石器時代人」の語が、長すぎるし英語にすればイメージは世界でバラバラ、日本史固有の始まりである約4万年前からとは思われず、その後に続く新石器時代と縄文時代も当然に合わず、そもそも教室で後期旧石器時代人について説明すれば、その都度舌を噛みそうなのです。今や世界文明の一つともされる縄文Jomonの大切な親・先代、日本史始まり祖代Sodaiの #浜北祖人Sojin と伊豆祖人の活動を教科書に世界にと言いたいのです。

更に、現生人類の「最初のアメリカ新大陸移住」PAC問題は世界の注目であり、北海道からの「昆布ハイウェイ・Kelp Highway」ルートはその一つの有力候補なのです。それを実証面で支えるのが海民・伊豆祖人の舟での行き来活動であり浜北祖人骨なのですから、祖人骨を国宝に、話を教室に世界にという訳です。 


山口先生は①充実のサンプルを詳細に分析し、遠隔類縁の発見事実のみを発表されたが、おそらくその結果に先生のみならず見聞の学界皆が驚きをもって受け止めたのではないでしょうか。

今では、3.5万年前後からの北海道史始まり「祖代」の遠軽町白滝遺跡の黒耀石群が国宝に指定答申され、最右図米ワシントン大のDr. Ben Fitzhughが北千島の6,000年前という縄文遺跡を報告し、稚内に近い礼文島では4,000年前の縄文女性人骨が顔の復元までされています。1.オホーツク人とは異なり、2.樺太、道内のアイヌより北千島の「留頓」に近いという発表結果も、図右北海道周辺含む地域の時代史の概要を人的な歴史の積み重ね層序で描けば理解できます。つまり北千島・留頓は、孤立的であったため古さが維持されていたのです。鳥居龍蔵は北千島・留頓を、「道内アイヌ(第2)より余程古い第1アイヌで、コロボックル(恩師の坪井東京帝大教授の説)である」との最終認識を発表(大正6年)していますので、符合します。更にオホーツク人とは異なるという事で、それぞれが南方系の北上史であることをうかがわせ、実は樺太アイヌも、祖代には稚内~樺太は陸続きでしたのでその下層には貝塚人の存在を推定させます。山口先生の研究は、今日的に極めて重要な一つの示唆を与える意義深いものなのです。また、②重要な北千島・留頓については、5回の調査による馬場脩先生の膨大貴重な「馬場コレクション」に北上史の視点で光を当てねばなりません。

そして、③コロボックル・留頓そのものについては、最後の田中キヌさん、世界各地に散在する関連の留頓系DNAが、今や世界人類史の解明に資する重要なものとなっています。もしかしたら、世界を驚かせる結果が埋もれているかもしれませんから。ともかく生徒・学生に状況を教え、世界に発信し、国際共同研究を推進すべきです。

右図、最初のアメリカ新大陸への進入PAC問題は、2.3万年前のニューメキシコ足跡発見で定説が崩れ、図右上、槍持ちマンモスハンターや寒冷適応で身体変化のモンゴロイドさえも今は否定的なものなのです。

そういう状況で、千島列島最北の占守島・幌筵島の6,000年前・縄文-早前期の痕跡(Dr. Ben Fitzhugh報告)やシベリア東端のチュクチ海岸族、先住オンキロンの遺跡(鳥居龍蔵が言及)に光が当たります。他方左図、現代に繋がり「アイヌより余程古い」(鳥居龍蔵)、石器も発見されている遊動海民のコロボックル(坪井正五郎・東京帝大が唱え、鳥居龍蔵も大正時代になって認めた)・留頓(ルートン、西の人)は、カムチャッカ半島最南端ロパトカ岬地域にも存在していましたが、研究により実はカムチャッカ南端地域の方が主体であったものが縮小して来たものであり、正に占守島などに居た人々は名前のとおり「西の人」という事になっていたことが分かりました。この事は、大昔の千島の北上、更には北に進出というこのルートの物理的な可能性の推測が出来ます。従って、シベリア東端チュクチの石器人的な先住海民・オンキロン、アリューシャン列島の世界第1級の海民・アレウト族などの研究は今日的課題です。現生人類の最初のアラスカ進入のみならず南米先住民との関連という視点ではこれまで海民の祖史状況に広範な研究がなされて来なかったことから、現代科学の探求努力が期待されています。白滝黒耀石群が国宝指定答申された今、北海道・千島の最古に迫る祖史探求を生徒・学生に教え、日本の状況を世界に発信し、国際共同研究を推進することが強く求められています。

米ニューメキシコの①2.3万年前の足跡発見の衝撃は、北米遺跡の意義を薄め、行く途中や行き着いた中・南米に光が当たって来ています。

それでも、現在のアメリカ先住民に直結し、全米先史で基本となるクロービス石器文化を示すモンタナ州のAnzick幼児の人骨分析で、無氷回廊の出口にありながら太平洋岸からの初期移住系であり、西のコロンビア川で発見されたケネウィックマンも海獣食の沿岸系であることが注目され、また、中・南米へは、先ずは舟で沿岸を南下したと考えられています。始まりのアラスカへも、②2.5万年以前となれば、アジア人の寒冷適応のモンゴロイド化は未だで、また、巷間で言われているような数人が槍でマンモスハントすることは、否定されています。最新では、X::3万年以前の早い時期に細かった無氷回廊を南下した新説、Y:アリューシャンから沿岸を南米まで南下した説が出ています。問題は、③自明とされているシベリアから来た!ですが、実は欧米では、ヨーロッパから大西洋を越えて来たと言うソルトレーン説が一部に根強く、それとの比較論議で言われていたのです。初期アメリカ移住(Peopling of American Continent:PAC)者のDNAは単純ではないと分析されており、よく見ればA,B,Cの特色ある3ルートに分かれ、肝心の東部シベリア東端部では2.5万年以前の痕跡は見つかっていませんから検討されねばならないのですが、現在の主流はBとされています。

しかし近年、カムチャッカ南端スタート説も出ており、白滝黒耀石群が国宝に指定されることになる今、正に日本の理論的な研究が期待されているのです。これは人類史に貢献という事だけでなく、日本史、北海道史に関わる重要な問題なのですが、現状は周回遅れです。PAC問題の意義を生徒・学生に教え、挑戦を期待するものです。

↑トップへ