歴史・人類史学を主導した欧米学者は、過去にジンギスカンから手酷い目にあった強烈な記憶からか、東部アジア人を新・旧、東・西・南・北を問わず「モンゴロイド」と称した事が、歴史を誤解させ理解を難しくしています。

現生人類の祖先である出アフリカ黒人は、ホルムズ(海峡)北側地域から東進(一部は北進)、過半が今は没している東南アジア・スンダランド大半島陸地から、更に東進し海を越えて南下して豪州へと、緯度に大きな変わりがないため学者が驚くスピードで6-5万年前には拡がりました。この①海浜と草地・熱帯雨林のスンダランド地域の暮らしで黒人が「インマレイド」(仮称)に変化し北上(沿岸を、内陸河川を遡行)して拡がりました。そして、②モンゴル・シベリア南部地域で寒冷・寒風・降雪に適応し「モンゴロイド化」しました(1万年前頃か)。西方の中央アジアから東進した種族を加えた③そのモンゴロイドが、ジンギスカンよりず~と前に、今度は強い影響力を持って南下し拡がったのが東部アジア人類祖史の基本です。言わば、「ローラーが先ず南方から北上し、次いで南下」した訳です。戦後、特に近年の東南アジアにおけるモンゴロイド系の著しい伸張が目立ちます。従って、目は口ほどにモノを言いで、最初に北上したインマレイド系と身体特に寒風・降雪にさらされて変化した新モンゴロイドの顔面の違いが一見して写真のように分かります。注目は米ケネウィックマンで、当初西洋人系かと言われ騒ぎになりましたが、DNA分析でもはっきりアジア系で、北西海岸コロンビア分岐点で川を遡行したものであり、9千年前に明らかに南方系である痕跡を残しています。また他の影響が比較的少なかったと考えられるアンデス高地民も、その痕跡を依然として残しています。

考古学の 北西沿岸ルート・第1波、北海道・ベリンジア南岸の一時的列島ルート説と矛盾が無いです。近年、「日本人はどこから」で巷間のDNA調査による図表をもって、科学的と称して語られていますが、実は「標本コンシャス」つまり標本をどう選んだのかがしっかり説明なければ、意義が少ないです。標本を選んだ段階で、A北上インマレイドの南方系、B新モンゴロイド系、C混合系がある程度分かってしまうのです。やはり問題は、何を大切に思い、どういう暮らしぶりかという事こそ重要なのです。次回、細部説明します。

昨年9月のニュー・メキシコにおける足跡が、2.3-2.1万年前という「最初のアメリカ人」を数千年遡らせる衝撃で、世界の学界は今も沈黙です。

前回報告のようにミトコンドリアDNA日本最古のBグループに注目すれば、実は人類史の移住の歩みが、沿岸ルート第1波でアンデス高地にまで至った事が見えてくるのでした。世界の学界は、最初のアメリカ人論議において、1.渡米して行った人々は、未だ降雪寒冷によるモンゴロイドMongoloid化していなかった南方インマレイドInmalaid系であることをしっかり意識せず、雑に新旧全てモンゴロイドと呼んでいる誤りのために見えにくくしています。また、日本列島史も巷間の誤り3方向(北・西・南)渡来図でなく南方からの北上史であることを認識せねば、真実に近づけません。2.北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの用語が無いために3.5-3万年前から北海道史を語れず、充実の祖代・旧石器遺跡の史的意味合いを未だ解明できていません。このために世界に重要な内容が発信されず、世界学界では、史実痕跡の乏しいシベリア東部人の渡米イメージが未だ主流でしょう。3.Ainuが鎌倉時代・13世紀からで、この検討には全く無縁であり、歴史的な先住民で無い事もよく認識されていないため、今持って論文にアイヌを言及記述して恥をかいている学者が後を絶ちません。日本国会・政府の新法は、誤解を拡散している罪深い事です。

4.世界、特に日本では、「最初のアメリカ人」問題が日本列島史に関わる重要な事が認識されておらず、沿岸ルート第1波、無氷回廊、Kelpコンブハイウェイ、モンテ・ヴェルデ遺跡などの重要用語も全く学校で紹介されていない周回遅れです。特に、光が当たる南米はいまだ研究が不十分です、日本が国際共同研究を主導し、世界に貢献するとともに、日本列島史をさらに解明すべきです。

ミトコンドリア遺伝子(母系)-B(日本最古:「ミトコンドリアのちから」―瀬名秀明・太田成男)が示す北海道「祖人」Proto Japanese Hokkaidoの関り可能性は濃厚で、痕跡はアンデス高地(富士山頂級)にまで!正に、最古B4系のアメリカ新大陸への沿岸ルート・昆布ハイウェイ第1波の移住です。

 現生人類の祖先はアフリカで誕生し、出アフリカを果たして世界に拡がりました。①mtDNA母系をたどるとイブそしてその娘たちから、日本では9系統が確認され、その一つであるイナ系統が、米国とカナダ南部の太平洋岸及び中・南米に痕跡を残しています。更に細部のハプログループB系統では②下位に4と5が確認され、4系統の細部下位のB-4-2が、北米となんと南米・アンデス高地で確認されています。考古学的には、南米チリ-モンテ・ヴェルデ遺跡の年代及び昨年発見・発表されたアメリカ-ニュー・メキシコの子供足跡から北米の「無氷回廊」はkm級の厚い氷に覆われて未だ開いていなかったと考えられており、沿岸ルートをフネで南下という第1波説が有力で、このmtDNAのB-4-2の存在とも符合しています。また、シベリアとアラスカでイナ族やBグループが発見されない(かつて存在したが消えたかも?)ことも、沿岸ルートをDNA面でともかく支持します。また、沿岸ルートは、この時代は氷河期ですが、内陸に比較し寒さが厳しくなく、日本から南米南端まで「kelp highway・昆布ハイウェイ」(緑線地域)が動植物(海獣・鳥、水産物)の食の豊かさを与えています。南米アンデス高地民が「富士山頂から三重県の海岸」くらいの距離を、食と薬にもなる海藻を求めて行動(2週間の苦労と記憶)していることは驚きです。実は、シベリア東端チュコト半島のトナカイ狩猟の内陸チュクチ族は、海岸族がオカに上がった異なる暮らしぶりのものですが、オットセイなどの海獣肉を依然として強く求め、入手して絶やさないことを思わせます。まあ、日本でも飛騨の山奥の人々が刺身を好むことと変わらないです。

さて、アンデス高地人は1.2万年前頃から暮らしていると見られていますが、海岸から山岳高地へと暮らしが拡がったことを思わせます。因みに、始まりの北部九州約4万年前~伊豆の海の行き来38,000年前・長野香坂山37,000年前~北海道3.5-3万年前~ニュー・メキシコ2.3万年前~チリ沿岸のモンテ・ヴェルデ14,850年前~アンデス高地1.2万年前で、最古B系が長い期間をかけて移住していることもムリなく理解できます。そして日本人については、チベット東部、アンダマン諸島先住民との不思議な類縁が言われていますが、アンデス高地人が加わった訳です。そもそも現生人類は、当初の数多くない出アフリカ祖先の拡がった「皆親戚」で、離島日本・アンダマン、高地のチベット・アンデスに類縁の痕跡が残っていると考えればこれも納得できます。なお、明治時代の南米移民の中の2千人とも言われる日本人が、太平洋側からアンデスを越えて東方のボリビアやブラジルの大河岸のゴム園で働いていましたが、歴史の奇縁です。海水面の数10~120mの上昇で沿岸の暮らしの痕跡発見は困難ですが、以上のような考古学、DNAの事実から、3.5-3万年前からの北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが、南米にまで至る「最初のアメリカ人」関わりの可能性は、濃厚と言えるでしょう。

問題は、①学校で全くこの事が紹介されていない、②この万年前の話に海外では学者であっても、(鎌倉時代からの、祖人子孫とは言えない)Ainuが話に登場する大誤解です。世界人類史のみならず、日本・北海道史にとって極めて重要な本件について、先ずは誤りの歴史を正すことが重要です。日本が国際共同研究を主導し遺跡を保護し、子供と世界に発信せねばなりません。

ミトコンドリアDNA/母系のBタイプは、①日本人で2番目に多く、中国南部で発生したとみられており、北上して北部九州から拡がり、列島中央部で最古3.8万年前から祖人Proto-Japanese の「賑わい」の痕跡を見せ、狭くなっていた津軽海峡を越え、東北での暮らしを基礎に北海道の暮らしに適応しました。

最近の研究で台湾先住民と遠く離れた愛知・渥美半島の縄文人のDNAの類縁性が発表されていますが驚きではありません。そして北海道から北上を続けたと考えられていますが、巷間本にはその後の新しい真逆の沿海州・樺太からの南下ルート描画が根強く、研究と始まり祖代史の理解を阻害しています。近年、②中国・北京南西の田園洞人のDNAが分析され、下顎等からも西ユーラシア人系の西進では全くなく、沿岸系Bであるだけでなく食が淡水産物で狩猟族でないことが重要です。図のように、曙海沿岸から北東亜平野の河岸を遡上したモノとみられます。歴史教育では、ややもすると狩猟族が大陸~朝鮮半島ルートで北部九州に渡海したと決めつけられがちですが、このハプロBの拡がりを見れば、著しく朝鮮半島の遺跡が少ないことも、論議されているバイカル湖地域への北上西進説もよく理解できます。更に興味深いのは、田園洞人と世界のDNA特性をみると、Bタイプを有しない南米ブラジルと対立遺伝子であることです。

実はBタイプは、③なんと南米アンデス高地人、北米でみられますが、シベリア東部とアラスカでは見られないことから、新大陸の太平洋沿岸ルートで最古級時代にアンデスに至ったと考えられているのです(細部次回)。現行教育・巷間本の修正が必要な本説を、子供に世界に。日本がリードする国際研究を、ウポポイ予算でなくこの方面にこそ指向して国際貢献すべきです。

昨年の米国ニューメキシコにおける2.3万年前(最寒期LGM、内陸の無氷回廊は閉鎖中)の足跡発見で、北太平洋沿岸からフネで進入が定説化し、昆布ハイウェイが通ずる「北海道ルート」は注目されています。

しかし、巷間の北海道史は歪められており、正されねばなりません。図左、約4万年前に出アフリカの現生人類は、南方から緯度に適応しつつ北上し、渡海して北部九州に達し、海辺の痕跡は海水面の100mほどの上昇で発見困難ですが、3.8万年前からの伊豆の海におけるフネによる行き来と3.7万年前の内陸高地の長野・群馬県境の香坂山における小石刃を含む多様な充実の石器群が、祖人の認知力の高さと列島中央部の社会性ある賑わい・交易・陥し穴猟などの状況を示しています。そして、北海道史は、①これらの祖人Proto-Japanese が津軽海峡を越えて北上し、拡がったことを旧石器遺跡(数701)が示しており、巷間本の沿海州~樺太からマンモスハンターが南下してきて始まったのではありません。重要な事は、②礼文島で発見された女性人骨(3,800年前)が、当時の縄文本州人と同様の祖人子孫の「和民族系」であり、A祖代から暮らしていたか、B縄文になって舟で島に渡ったか、いずれにしろ道内の先住和民族の拡がりを示しています。北海道の先史で強調される沿海州・樺太からの祖代末期における「細石刃文化」の流入(1万数千年前頃、温暖化後の中小動物狩猟用の細石器)ですが、道北・礼文でさえ和民族性が維持されていたことは、細石刃文化の流入に伴う北方人の進入は、有っても少なかったことを示していることが重要です。即ち、北海道の先史は、巷間本が不当にイメージを強調するマンモスハンターや細石刃族など、北方の沿海州・樺太からの意味ある大量の南下進入はなかった、むしろ祖人と子孫の北上こそあったと考えるべき真逆の状況であり正すことが必要です。

結局、北からの意味ある進入は、③5世紀頃からの沿海州河口・樺太北部のウリチ・ニブヒ系の南下(北海道大学のDNA分析研究)であり、アイヌ(民族と言えるか疑問)は、オホーツク人と画され、和民族とも混血した北方系である多様な人々の総称であって、鳥居龍蔵が「第2アイヌ」(よほど古い北千島第1アイヌ)と言った人々を「先住民族」と驚きの国会決議をして、世界に大きな誤解を与えており正されねばなりません。今、「最初のアメリカ人」沿岸進入が定説化し、北海道ルート説も登場している時代に、➃道東・道北に拡がった北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの樺太・千島以北への北上継続こそ注目されねばなりません。状況を子供に教え、世界に発信、膨大なウポポイ予算は、この方面の国際共同研究にこそ投ぜられねばなりません。

左図現生人類の出アフリア後のミトコンドリアDNA移住図(YouTube最新)は、昨年9月末の米国ニューメキシコにおける足跡(23-21,000年前)発表の衝撃を反映できていませんがよくできています。

問題は、この発見で「沿岸ルート」仮説がもはや定説化したため注目される日本列島北上ルートであるのに、九州渡海以降が抜け落ちていることです。当時は海水面の100m級の低下(気温は数度低かった)により、「北東亜平野」が現れ、大きな湖のような「曙海」となり、日本海側に大雪が降らなかったなど、現在との大きな違いがありました。そして重要なことは、内陸からの人々もこの時代は未だモンゴロイド化していなかったので、大きな違いのない人々であったことです。東南アジアからの北上ルートは把握されているのに、動画は九州直前で線が止まったまま千年前まで、他は動いてハワイにまで至っているのが全く不思議です。作者の意図は不明ですが、無視されたと憤慨する前によく考えれば、もしかしたら良心的なのかもしれません。というのは、右図日本の巷間の書籍などでは誤解を生む3方向渡来図が多く、時代を追って線を動かしている作者は日本のこんな状況を無視して正しいものとすることをためらったのかもしれません。

日本の問題は、約4万年前からの1万件を超える旧石器遺跡から北上(沖縄南下)が導かれるにも拘らず、です。また、北米インディアンNatives・南米インディオ、豪アボリジニなど世界の先住民族問題に関しては、北海道への進入が鎌倉時代から(北海道大学、DNA分析)のアイヌAinuは全く無関係なのに、オリンピックの際や海外活動などによって世界に誤解が広がっていることも問題です。これらの事は、未だ打ち出されず学生・子供にも教えられていません。ウポポイ館200億円などの膨大な予算から、世界に貢献する祖史研究・遺跡保護等にも振り向けられるべきです。

今の時期の5月の雨は、また、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」と言われるものです。

左図A北米北西海岸の先住民Nativesは、内陸と全く異なる密で多種多様な言語小種族で、B特にカナダの痕跡にはっきり残されており、C現在でも沿岸30種族は確認されています。1図の①先入の沿岸ルートと②後入の無氷回廊ルートを考えれば、①沿岸は五月雨(式)Samidare進入で、②回廊は、強い狩猟族のまとまり陸続の進入であったと考えれば理解できます。というのは、昨年9月末にニューメキシコにおける子供などの足跡が2.3-2.1万年前のものと発表され、それまでのクローヴィス石器人定説をなんと万年遡らせて学界を驚かせ、ショックで今も特に「誰が」最初の米大陸人(フネで沿岸から)だったのかを考察した説は未だに出ていません(依然シベリア人か?)。更に、発表で沿岸と回廊進入の差は10-8千年という事になり、1万年もあれば沿岸から入った人々はニューメキシコのように内陸にも拡がった訳で、アメリカ東部にも回廊開通以前の遺跡が発見されて示しています。しかし、左図のように内陸の多様性が乏しいことは、後入の強い狩猟族の比較的まとまった陸続進入による沿岸拡がり種族の駆逐・吸収であったのではと考えられるわけです。

そこで次に、最初の沿岸進入に至ったベーリング地峡・ベリンジア地域の状況を考えますと、2図①米カンサスなど3大学チームは、当時(氷期)の沿岸(昆布ハイウェイ)状況、海水面の低下、沿岸地形などから海岸線付近に散在していた一時的な列島小島(Temporary Archipelago)で暮らしていた人々が、その後の温暖化の海水面上昇で島におれなくなり追われるように移動進入して行ったのが始まりだろうという説を発表しました。しかし、昨年の2.3万年前の足跡発見からベリンジア越えは氷期最寒期LGM(2.5万年前頃)の事と一応考えられることから、追われるようにではなく、一時的な列島小島をそれまで同様に開拓的に移住してきたと考えるべきでしょう。またベリンジアに関しては、②優れた広域(北千島、ユーラシア東部など)のフィールドワーカーとして有名な鳥居龍蔵が、チュコト半島のチュクチ海岸族の先人石器人オンキロン痕跡に注目したことが特筆されます。おそらく北千島人の留頓・ルートンとの関連だったのではと思われますが、問題意識が「最初のアメリカ人」であったとすれば、あの時代における驚くべき慧眼です。

右図下A既に3.8万年前から伊豆海民は、黒耀石を求めてフネで東京諸島・神津恩馳島を行き来し、B狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5-3万年前には北海道に拡がっていました。C近年の高橋克範氏の研究で、留頓の本拠地は遺跡痕跡からむしろカムチャッカ半島南部であったと考えられ、留頓先人が北上していればオンキロン、べリンジア進入と関わってくることになります。この北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに関する問題は、日本祖史はもとより「最初の米大陸人」問題と関わる重要なもので、これらに関する総合的な研究は、膨大なアイヌ関連予算からでも割いて投じ、世界にも貢献すべきです。因みに、人類がベリンジアをTemporary Archipelagoから入って行った状況が、「Samidare」(の進入)であったことは用語として提唱すべきです。ともかくこれらの事を子供に教え世界に発信すべきです。

図下約4万年前から祖人Proto-Japanese が列島に拡がって父母祖の歴史は繋がり、江戸幕府・松前藩の千島・樺太の領土認識は、進出して来たロシア(1711年)も「日本の島々」と認めたもの。

図上最上徳内が作成した地図の注目は明確な北千島で、留頓・第1アイヌ・コロボックル石器人は、最近の研究でカムチャッカ南部がむしろ「本拠地」と遺跡群が示しており、近年、「最初のアメリカ先住民」を研究する学者たちが提唱する北太平洋「昆布ハイウェイ沿いの北海道ルート説」と軌を一に。鎌倉時代に入って来て、保護されて女性に優しい社会に変わって行った第2アイヌは特に差別もなく、予算は留頓・第1アイヌと北海道ルート説に関して研究と遺跡の保護等にこそ投じ、世界学界に貢献すべき。

北からマンモスハンターは来なかった。図右下約4万年前に現生人類・新人が北部九州に渡海し、3.5-3万年前には沖縄から北海道にまで拡がったことは1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

そして図右上北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは、伊豆の海をも越えて黒耀石を求めた海民の子孫としてそこで留まった理由もなく北上を続けたと考えられます。東京帝大の鳥居龍蔵は明治~大正の北千島調査と分析から最終的には師の坪井正五郎が祖人について研究・議論するために提唱したアイヌ伝承のコロボックルこそ古い第1アイヌ・留頓ルートンで、樺太からの第2アイヌと違うという認識を記述(注:第2アイヌは得撫、77kmの新知島へは越えない)し、近年、北大の高瀬克範はカムチャッカ南部の遺跡研究から、むしろ北千島アイヌ(留頓)の本拠地はアムチャッカ側にあったとの認識を記述していますが、このことは、古い時代には更にカムチャッカ北部に居てカムチャダールの進出で圧迫されて最南端のロパトカ岬に後退してきたことをうかがわせます。他方、「最初のアメリカ先住民」研究の米学者は、北米大陸が厚い氷床で覆われている時代の遺跡(1.6万年前級)が処々に、また、その時代の南米チリにすら遺跡が発見され、北太平洋沿岸の食豊かな「昆布ハイウェイ」からフネで南下して来たと考えるようになり、「北海道ルート説」を唱える複数の学者が現れました。昨年9月末のニューメキシコにおける驚きの2.3万年前の足跡発見は、それまでの進入定説を数千年遡らせる氷期最寒期(LGM)にというもので説を補強、「誰が」来たのかはまだ米学者から定説化に至る論が出ていません。

さて今回、巷間の北海道史年表に強い疑問を抱いた中村恵子氏(北大)が、本来は中軸として記述されるべき幕府の松前藩・東北諸藩の行動とアイヌ配意の対応などに光を当てて歪められた北海道史を正す労作を発表されましたが、やって来たロシアも「日本の島々」と認識していました。このことによって、祖人から、坪井正五郎の本州同様のコロボックル石器(縄文)人時代、古代・中世の倭人・擦文人・蝦夷人(鳥居龍蔵命名の第2アイヌ含む)、近世の幕府・藩人
(第2アイヌ含む) 、そして北海道人と呼ばれる一連の歴史が理解できます。この間、樺太の方から2万年前頃の細石刃文化の影響が言われ、最寄人、アイヌの進入がありますが、征服や民族の大移動などは確認されません。年表には近世「「松前時代」を。子供に教え、世界に発信、更なる研究とウポポイ館を充実の北海道北海道記念館に改装を。

3世紀に内陸盆地出身で図の「曙海」のほとり地域はよく知らない①陳寿(233-297年)が、魏略というタネ本、呉は敵、東西南北の周辺国は野蛮格下、海民のヘンな習俗紹介などを基礎に、得られた諸資料から広大な周辺地域の意義づけ扱いバランスも考えて魏国史を描いた、断片的な事実を含む創「象」で、歴史書というより神話的と称すべきもの。

従って、邪馬台国・卑弥呼などそれらしい似た存在はあり得ても、北部九州と畿内(それ以外にも無数)に所在説が分かれ、依然として実証できないことで分かるように見つかりません。現在の教科書の採り挙げ方は史実かの如く誤解させるもので、日本書紀・古事記の扱いに比し不当です。但し、図右下の約4万年前頃の列島史の始まり「祖代」の状況である現生人類の出アフリカ後の東進北上による移住史を下敷きにすれば、魏志倭人伝の時代でもキーワード「曙海のほとり」の暮らしの痕跡や諸国の関係性が感じられることが重要です。そもそも沿岸の呉(越)と内陸の魏との南船北馬と評される違いと対立、狗邪韓国の倭性、②五島地域人と隼人が付近の人々とは違っているのに「類縁性」がある事、③侏儒国は北海道のコロボックル同様に原初的な民と考えられる表現であり、邪馬台国・卑弥呼、黒歯国などは根も葉もないものではありませんし、台湾山地沿岸人と倭人の最近のDNA類縁性の分析と符合しています。実は新しがりのインド太平洋構想などもその線上の温故知新です。子供に教え、世界に発信を。更なる研究予算の投入を。

確かに今や「縄文Jomon文明」と言われるほどの文化的に素晴らしい種々の遺跡・遺物が発見され、実証性の面でも縄文時代の事柄が多く明らかになってきましたので理解できます。

しかし、①最近のDNA分析で南方から(Kae Koganebuchi 東京大:台湾先住民のDNAと縄文人のものの類似性)であることが明らかになり、サルではない祖先主対象である現生人類・新人は、陸続きではなかった春は「曙」、始まりの海を家族で渡海して祖人Proto-Japanese が列島に拡がったこともはっきりで、沖縄・石垣島で2.7年前のモンゴロイド化以前の南方系人骨が発見されているなどの実証性もあります。特に②黒耀石を採取に海を渡って、38,000年も前から東京諸島に求め、物々交換し、広域の遊動暮らしや陥し穴猟や社会性ある集団キャンプや世界的に1万年も早い磨製石器など考古学界の注目です。そして、③近年の世界的な「最初のアメリカ人」論議(2.3万年前に米国ニューメキシコに足跡)で、北海道から北上を継続し、北太平洋沿岸の「昆布ハイウェイ」から入って行ったと考える北海道ルート説が登場しているのです。

➃祖代末期の静岡・浜北人骨は縄文人に似ており、各地の遺跡・遺物も祖代から縄文にムリなく繋がっているとみられる上に、祖代における大規模な人の流入や入れ替えは、遺跡やDNAの分析でも確認されておらず、少数の五月雨の渡来と考えられているのです。

従って、「私たちの祖先は縄文人である」は、誤解を招く表現であり、ましてや「縄文人はどこから?」は、2代目ですから日本列島に決まっている誤りの愚問です。あたかも江戸人が、明治維新でザンギリ頭に背広を着て、すき焼肉を食べようと、一皮めくれば江戸人であることと同じようなものなのに、余りにも縄文、縄文、Jomonで、これは米国の「2.3万年前の足跡」問題に参加できなくさせていることや酷いのは鎌倉時代のAinuの誤解が世界の学界や動画で登場するのが大問題なのです。そして、2代目のJomonは、初めて青森で発見された土器の16,500年前からなのか、定住や弓矢や土器が拡がった1.5-1.3万年前からなのか、というだけの事なのです。因みに、青森・最古土器は、祖代文化を基礎に東・西・北が融合した先進地域で温暖化の環境変化と共に生まれた産物と解釈出来る、それはそれで意義深い事です。子供に教え、世界に発信することが求められています。

北千島のアイヌ、正しい認識は「留頓・Routon」(第1アイヌ、コロボックル石器人)の本拠地はカムチャッカで、「最初のアメリカ人」への玄関口ベリンジア沿岸まであと1歩!です。

右図Ancient Geographic4月22日最新動画の「最初のアメリカ人」に係るインドネシア~フィリピン~日本~昆布Highwayでカリフォルニア・チャネルアイランド説は、オレゴン大Jon Erlandson提唱のCoastal, Kelp Highway 移住説が基本となっています。これに東京大-Kae KoganebuchiさんのDNA分析による台湾先住民~約4万年前に日本列島へ渡海(北部九州)した最初の「祖人」Proto-Japanese ~縄文人(渥美半島)の繋がりという、台湾が加わって説は補強されます。そして、アメリカへの出発地となる北海道に関しては、北海道大の高瀬さんが、②北千島アイヌ、正しい認識としては遊動海民の「留頓ルートンRouton」(鳥居龍蔵は、樺太から鎌倉時代に入って来た第2アイヌと対比し第1アイヌと命名)・コロボックル石器人(坪井正五郎命名)が、その遺跡・遺物から実は本拠地は南カムチャッカであるとの認識を示し(2019 年度 地域の文化財普及啓発フォーラム 北海道の古代集落遺跡)ています。

この事は、1.さらに北上していれば、アメリカへの玄関口ベリンジアに問題なく沿岸から達するもので、2.その後の新たな東進シベリア勢力の圧迫によって、ロパトカ岬、北千島にまで南下後退させられた可能性をうかがわせる注目すべき痕跡です。更にこの地域では、③函館西方の知内町の遺跡(2万年前)の墓の副葬品とカムチャッカ半島のウシュキ遺跡(1.3万年前、石器はアラスカの物と類似)の物が類似であると言われてますが、道東を経由してムリなくつながりが理解できる痕跡で、②③から、函館~道東~北千島~カムウチャッカ沿岸~ベリンジアの北海道ルートが想定されるものです。子供に教え、世界に発信すべき痕跡を踏まえた説となります。アイヌに対する現下の膨大な予算(年度末に使いきれず)から、本関連研究に振り向けるべきです。


昨日4.22動画登場。①昨年9月末、米国ニューメキシコ・ホワイトサンズで子供や絶滅大型獣の足跡が発見され、「最初のアメリカ人」定説を数千年遡らせると騒ぎに。

②当時は陸地続きだったベーリング地峡を越えて「いつ」やって来たのか?となり、足跡の状況、絶滅獣が示す古さ、何よりも安定の地層の上下に存在する植物の種子のDNA分析などが全て示す「足跡は2.3-2.1万年前」となって、半年を経て遂に③定説で教科書説明の無氷回廊から入って来て(モンタナ州子供人骨)拡がったクロービス人(13,500年前)より前に、ニューメキシコへは沿岸ルートが早く該当するとなり、カリフォルニア州チャネル・アイランドの13,500年前の人骨が注目され、クロービス人が石器を投げ捨てて高度な舟と釣針の海民暮らしになったとはとても思われず、アラスカから北西海岸を南下して来たという事に。

そして、➃釣り針の最古は日本で、そもそもインドネシアでは数万年前に豪州に向け舟・筏で渡海(約90km)しているし、既に舟で出て外洋魚を獲り食している痕跡骨が見つかっている。Kelp Highway(昆布ハイウェイ)は、魚はもとより海獣・鳥、貝、海藻、の食豊かなルートで適しており、図で先頭に書かれているJapanは約4万年前から1万件を超える旧石器遺跡に支えられ、フネでの北部九州への渡海始まりや伊豆の海を行き来の海民で、出発地である北海道・北千島「留頓」ルートンの海民暮らしが知られています。今もって北海道から出て行かない学界は周回遅れです。

世界の動向を子供に教え、研究予算を投じて世界の歴史界に貢献を。

今注目の北海道史の熱い論議が、新しい第3番目・世代の石器とも言われていた小指の爪先ほどの細石刃の謎をめぐって行われています。

祖代末期、土器出現(縄文時代草創)の前頃に登場したと考えられていた細石刃は、図左2.5万年前の氷河期中の道央千歳(柏台遺跡)で発見され最古とみられています。学界一般では大陸の中国北部やシベリア南部バイカル湖地域発と言われていますが、千歳の物はそれに近い時期で、かつ右図祖代のメイン青ルートである道内最古遺跡の帯広や黒耀石日本一の白滝に最古級の発見が無いため、左図樺太から日本海側の沿岸を南下したとすれば、旧石器遺跡の発見が無いのです。通常、考古学論議では先生方は発見が無いからと新説を認めませんが、この細石刃については、大陸~樺太南下の伝搬説を教科書でも採りあげ、北海道史でほとんどが記述(しかし、確認されているのは、紀元数世紀後のオホーツク・モヨロ人、鎌倉時代からのアイヌ)しています。

他に考えられるのは図左B道央の広大な低地帯の千歳で(小石刃から発展)生まれた(青森の最古土器のように)、または最近発見された長野・香坂山遺跡では3.7万年前の小石刃が発見されてますので、本州発(大陸から 朝鮮 半島を経て九州への伝播は、半島と九州の石器組成の比較などの状況から疑問視されてます)で、北上し変化していった伝播やC白滝や帯広などの細石刃から未だ最古が発見されていないというものです。いずれにしろ、北海道の始まり時代の大きい重要な問題ですので、(アイヌに対する膨大な予算から)発掘・研究等の予算を捻出して、各地の遺跡や細石刃石器の年代測定などを行うべきです。北海道史の重要事項の解明を、子供と世界が待っています。

左図、3.8万年前から伊豆の海をフネで行き来して良質な東京諸島・恩馳島原産地の黒耀石を採取し、広域で交換して活用していた祖人は、更に最新の発見で高地の長野・香坂山において、おそらく八ヶ岳~和田峠地区原産地の黒耀石を使用し、また最新の香坂山の発掘で、3.7万年前から、高度で多様な石器を使用して遊動暮らしをしていたことが分かってきました。

北上した祖人は東北における暮らしから北海道の降雪寒冷地暮らしに適応し、右図、遂に白滝の大黒耀石原産地を発見しましたが、青森~函館~千歳~十勝~オホーツク沿岸と暮らしが拡がっていけば、フネで神津島黒耀石を探し出した祖人ですから、いずれは発見されるものでした。その後の白滝産の拡がりは驚くべき広域さで、その質量の豊かさを示すものです。ここで注目すべきは、列島中央部の賑わいで情報交換して長野・香坂山で発見された高度で豊かな石器を有していた祖人は、樺太の白滝産痕跡から、北海道でとどまることなく北上していた可能性をうかがわせます。大陸北からマンモス・ハンターが南下して来た痕跡は無く、約4~3万年前頃の始まり時代の当時としては、ユーラシア東部におけるこの世界がうらやむ豊かな黒耀石の原産地と環境でした。傑出した日本列島中央部の高度で密な文化というエンジンを基礎に、北に拡がっていった祖人が北海道で留まる理由もなく、北上をず~っと継続して行ったと考えるべきでしょう。巷間の北海道史は、根本的に見直されるべきです。

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