世界で今話題のネアンデルタール・デニソワ旧人ではなく、10万年前頃の出アフリカの新人が祖先であり、”Jomon”ではなく祖人Proto-Japaneseです。

北部九州から始まった①列島の北上(南西諸島へ南下)史であり、②図左下DNAは南方類縁性(Oota,Gakuhari)があり、③家族が約35kmを渡海し、3.8万年前に伊豆の海を黒耀石採取の生業で行き来して広域で交易、また、長野高地で発見の石器群や1m級の陥し穴多数で社会性ある猟をしていたことなどは、原始人ではアリマセン。➃北海道へは青森から狭かった津軽海峡を越え、巷間の「マンモス・ハンターが北から来た」は誤解です。最古遺跡・3万年前が帯広で発見され、今回、国内最大の黒耀石原産地である遠軽町・白滝遺跡群(2.7万年前~)が国宝指定の答申です。

図右上のDNA分析から、印アンダマン諸島、ラオス、北京近郊の田園洞などと愛知・伊川津貝塚の縄文人の古さを示す遺伝子に親和性がある南方系で、約4万年前に図左曙海の畔から渡海して来ました。

多様多島の沿岸で海・川辺の動植物を食す暮らしを経て、祖人Proto-Japaneseは、家族で約35kmを渡海したフネの造・操舟力の認知性を有し、右下伊豆の海で3.8万年前から黒耀石を求めて舟で行き来し広域で交易、鉄器の無い時代に1m級・169基の陥し穴を構築した社会性などを示し、最新発掘の長野香坂山遺跡では既に多様な石器群を有しており、原始人ではありませんでした。太平洋側と大雪の降らなかった日本海側の両方から北上して狭かった津軽海峡を越え、3.5万年前後には北海道に適応しました。道内発見最古の帯広を越えて北上した 遠軽町白滝の遺跡群(2.7万年前~、 黒耀石の大原産地)が、この度国宝指定となります。        

速報 祝 北海道・白滝遺跡群の国宝指定(図右)

始まりの約4万年前、北部九州への家族の渡海(約35km)を可能にしたフネ造り、外洋の気象・潮流などを理解しフネを操作した祖人Proto-Japaneseが、原始人ではなかった認知力を示した生業の痕跡を国宝に! 図中、世界考古学の金メダル、伊豆の海25km以上を良質の黒耀石採取に舟で行き来(3.8万年前~)した恩馳黒耀石の遺跡、図左、最古の鹿児島・立切の陥し穴猟の遺跡(3.5万年前)では、直径1mほどで上部がラッパ状に開く形をし、深さも1mほどで底が丸い形をした穴を鉄器の無い時代に集団作業の社会性を示して12基作っています。同様に図中の三島・初音ケ原では169基もの規模で、2.7万年前に作っており作業の社会性に感心します。 

日本列島人のDNAも、1万件を超える旧石器遺跡の石器も、始まりの祖人Proto-Japaneseは南方系であることを示しており、それは「出アフリカ」から南方を経た北上です。

図左DNAは、愛知伊川津の縄文人が、ラオスやアンダマン諸島人と類縁であり、4万年前に川の産物を食していた北京近郊の田園洞人ともであって、北ルートではありません。そして、北の混血を含めてアメリカ先住民に繋がっています。昨年、米国New Mexicoで2.3万年前の足跡発見の発表で、それは誰かが問題となり、内陸の無氷回廊が開かれる前ですので、北太平洋沿岸からフネで入って来たという事が、米大陸の遺跡やDNA分析から新定説化しています。それは誰だったのかということで、日本列島ルートも補強された新仮説です。中図の石器の分析から北上(沖縄への南下)が年代の経過を伴って明らかであり、沿岸から中央部長野の高地に至るまで、1万年以上の熟成を示し、伊豆の海における行き来、環状キャンプや陥とし穴猟の痕跡などと共に暮らしの「原層」と認識(次代の縄文時代を合わせ基層)すべきものです。右図、誤解のあるマンモスハンターは来ず、青森から北上し3.5万年前には北海道に拡がり、北海道に留まる理由もなく食の豊かな処女地である北へ、更に北上を継続したことでしょう。特に道東(先頃、帯広で1.5万年前の大量の黒耀石の生活痕跡発見)は、先のアメリカ先住民との関わりのゲートウェイとして注目されます。

なお、世界に誤解のある鎌倉時代からのアイヌは、始まり人類移住史には登場しません。これらの事を生徒・学生に教え、世界に発信、日本が祖代解明のためにも国際共同研究を主導し、先ずは諸状況から理論的に、「最初のアメリカ人」関わり問題の解明を図るべきです。

北海道史は、①青森から、当時は海水面の数十m低下で狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5万年前後に適応し、祖人が拡がりました。巷間みられる北からのマンモスハンター進入話は考古学痕跡のない誤解です。礼文島縄文女性も北海道の犬も、そして文化の重要一面である住居も南方系であることの認識が重要です。

②約4万年前に北上した新人が北部九州に家族で約35kmを渡海し、祖人Proto-Japaneseは、太平洋正面と大雪の無かった日本海の両正面から北上、また、海を越え沖縄に南下しました。この造舟・外洋操舟等の認知力は、もはや原始人ではアリマセン。③3.8年前には、実は陸地が増えていてフネを浜辺で曳行できた伊豆の海25kmの行き来は謎(朝日新聞)ではなく、神津・恩馳島の良質の黒耀石の採取に活躍(縄文時代には河津に工房も)しました。広い地域に(長野にまで)いきわたった交易の社会性も注目されます。近年、3.7万年前には長野の高地に多様な石器群を残していたことが発見され、祖人の水平・垂直の拡がりが注目されます。➃先日帯広で、1.5万年前の大量の黒耀石の生活痕跡を発見のニュースです。始まりの祖人から長い歴史を有する北海道を「白抜き」にするのは、世界に大誤解を与えるもので、早急に訂正が必要です。

さて、①今、世界人類史界は、「最初のアメリカ人First Americans」が、北太平洋沿岸からフネで入って来たというのが新定説化しており、候補である日本列島ルート、昆布ハイウェイの北千島の失われた海民・留頓ルートン族(アイヌではない)が注目なのです。子供・学生に教え、世界に発信、国際共同研究を主導すべきです。

帯広尖頭器①は、キャンプの炉の周りで加工作業の痕跡とみられます。但し、巷間の誤解であるマンモスハントではなく、また、そもそも北海道に北からマンモスを追ってハンターが来てハントしたという痕跡はアリマセン。

約4万年前に南方から対馬海峡を家族がフネで越えて北部九州に至り、北上南下し、②伊豆の海で舟を造り操作して25kmくらいの海を越えて行き来(世界考古学上の金メダル)し、東海・関東・長野にまで神津・恩馳島産の良質な黒耀石が拡がっている交易活動などは、認知力から原始人ではアリマセン。従って、③長野高地に多様な石器群を残しているのも不思議ではないです。祖人Proto-Japaneseは、当時は狭かった津軽海峡を越えて食豊かな昆布ハイウェイを3.5万年前後には北海道に適応(石器痕跡等から)していたと考えられます。祖代から次の縄文時代に移り変わっていく頃、青森・長者久保遺跡に暮らしに合わせた充実の石器群を残しています。他方、➃アメリカでは、アイダホ州の遺跡で米国最古の石器群と言われるものが、日本と似ているとの声があり、人類移住史において日本から南米まで、太平洋沿岸の昆布ハイウェイを拡がって行った、石器にも類似性があると新説が提唱されていました。これに対し最近のDNA分析により、⑤内陸の無氷回廊が開通するずっと前に最初の米先住民が既に拡がっているとされ、更に、北海道礼文島の縄文女性とミトコンドリアD系で繋がり、しかも米D系は沿岸拡がりの痕跡なのです。驚きは無氷回廊の出口のモンタナ州で発掘された子供人骨(12,500年前)が古い沿岸系であり、新しい回廊通過・拡散系ではなかったのです。

今、これらのDNA分析も太平洋沿岸拡散説を後押ししているのです。その意味で、候補であるゲートウェイ道東における今回の発見は、日米の関りで注目されるのです。教室で教え、世界に発信、国際共同研究を主導して、更なる解明を図るべきです。

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