現生人類史始まり時代の移住展開は、①人類学のアポロ計画のようなものと言われる10万人に及ぶサンプルから諸学共同で導かれた左下図であり、巷間の大陸・半島から来たのが日本人というのは誤りで、事実は枝分かれの類縁別個です。

②日本始まりの約4万年前当時は海水面が数十m低下していたことは重要で、①図に反映し、育まれたスンダランド、両岸を北に進んだであろう「パンカル海」、そして台湾東岸か北東亜平野東岸を北上して時計回りに移住した「曙海」を認識することが重要です。一部に誤解がある台湾~沖縄~九州というルートは、始まり時代は慶良間ギャップがあって本島行きはムリであり、考古学的にもそう考えられています。日本祖人がアメリカに渡った可能性として、日本人特有の母系のミトコンドリアB4が、米アリゾナのピマ族で見つかっている希少な近縁で、注目(英Oxford大 Stephen Oppenheimer)されており、写真の種々の人々に痕跡が感じられます。人類移住史の最終段階のアメリカに関し、➃やはり母系で発見が少ないハプログループDが、アラスカ南部からメキシコ、エクアドル、チリ、南端まで、移住最古の太平洋岸ルート南下(カリフォルニアSanta Barbara自然博物館 John Johnson)の痕跡説が出ています。チャネル諸島のチュマシュ海民が暮らしを伝え、1.3万年前のアーリー・ウーマン海民人骨が発掘され、また、北のコロンビア川岸の0.93万年前のケネウィック・マンが、海獣・海産物を主に食していた海民性などが注目されます。

⑤昨年発見された衝撃のニューメキシコの足跡が、前述の「川の人」ピマPima族やチャネル諸島人と距離的に遠からず、また、氷床がアラスカ・カナダから米国への南下を阻んでいた時代なので沿岸ルートが注目され、B4を有していたとみられる日本祖人(縄文人の先代、初代)の関わり・渡米の可能性が注目されます。日本が国際共同研究をリードして、日本祖人は「どこから」「どこへ」を解明するとともに、世界人類史に貢献すべきです。

もうすぐ1周年、①昨年9月末の米足跡発見で米先住民史が数千年遡り、もっともらしかったDNA話も再検討、ショックのその足跡は「誰か」について学界はすっかり沈黙です。シベリア・ハンターが来たことには変わらないとでも。

勿論、事は簡単ではなく結論は言えていませんが、先月やっと動画説明に登場した説は沿岸ルート・昆布ハイウェイであり、Japan(赤下線)が言及され、発見最古の人骨として、沖縄・山下町祖人(Proto-Japanese)が記述されています(沖縄からではなく、北部九州から北海道に北上したものなのですが)。そして沿岸ルートという事で、② 金メダルである オーストラリア・豪への人類最古の90km以上の家族渡海(考古学上の金メダル)と共に、伊豆の海で黒耀石を求めて「行き来した世界最古」という訳で金メダルの神津島が登場し(正しくは写真と違って、今は4km離れた神津・恩馳島とすべきなのですが)紹介されています。説明はありませんが、この東南アジア~日本~アメリカというルートで問題があるとすれば、③千島列島・北得撫(ウルップ)海峡の約80km越え(人類は豪行きでこれ以上を越えていますが)です。数十mの海水面上昇もあって、千島列島に3万年前級の実証発見物はないですが、 明治時代に調査の 北千島人のルートンは流木舟を操った、石器時代的な遊動 海民としての 暮らしの中心拠点としてカムチャッカ南部に進出(赤丸)していた痕跡を残しています(もっと北まで進出していたのをカムチャダールに押されたのでは)し、冬季の流氷を歩いて渡った可能性も十分考えられ、祖人も越えられたでしょう。

つまり、北海道で停止する理由はなく、海獣・鳥、海産物の食豊かな昆布ハイウェイの次々に島が見えた処女地を、北上して行ったことと考えられます。北海道は、石器などから「おそらく3.5万年前後」には、寒かった仙台・北陸で暮らしの予行練習ができていた祖人が、青森から当時は狭くなっていた津軽海峡を難なく越え、寒気と海獣食などに適応して暮らし、留まる理由もなく北上して行ったものとみられます。問題は、この「最初のアメリカ人」に関る日本側の発信が弱く、学校で全く仮説の説明すらない周回遅れで、世界の一部の学者には、アイヌ(鎌倉時代から)が登場する誤解がある状況です。「北海道祖人は、北上を続けて最初のアメリカ人に関わった可能性があり、世界では採り上げられている」問題として、コレを基礎に深堀りして出しちゃいましょう。

 

米国での図右下⑤昨年9月末発表の2.3万年前の足跡発見ショックで、改めて見直しされている現生人類移住史。日本では何故か教室でよく教えない、今の人々の直接祖先の始まり時代の話。

①出アフリカ後、東進してアジアに至り、過半が没しているスンダランド地域は揺り籠。「インマレイド」(古モンゴロイド)は東進して海を越えてオーストラリアに、他方、北上し沿岸のみならず河川を遡行してローラーをかけるように沿岸・内陸に拡がり、遂に日本列島に。従って、印離島のアンダマン諸島の人のDNA・言語と遠く離れた日本のそれとが似ていても、東チベットの人々とDNAが似てるのも、それぞれが孤立的な特色を考えれば残っていて不思議ではないのです。数十mの海水面上昇で沿岸での暮らしの痕跡は消えましたが、始まりの「パンカル海」周辺にいくつか残っており、フィリッピンの6.7万年前のカラオ洞窟人骨等の痕跡は重要です。この環パンカル海の人々が北上し、③台湾から「北東亜平野」沿岸を北上し、「曙海」周辺に拡がった訳で、万年後の魏志倭人伝の時代でも地域の繋がりの痕跡はしっかり残っており、南船北馬の違いも理解できます。さて、渡海した九州の「祖人」Proto-Japaneseは南に北に拡がりましたが、驚きをもって注目すべきは列島中央部、現代を思わせる関東・東海・甲信越の繋がりある賑わいです。

海産物の沿岸、広大な関東平野での狩猟、大雪が無かった日本海側などの環境条件に加え、特に神津・恩馳島と甲信における宝物の黒耀石の存在がラッキーでした。おそらくこの時代の世界で、最も人口密度が高かったのではないでしょうか。社会性ある落とし穴猟や環状キャンプなどの生活文化も高かったのです。そして、東北の縄文土器や土偶、漆製品など世界に誇る事象に繋がっています(先進九州は姶良大噴火災害・3万年前が、大変残念でした)。引き続き狭かった津軽海峡を越えて北上し、➃おそらく3.5万年前後には祖人は道東にまで広がり、伊豆の海を行き来した子孫ですから、次々に島が見えた千島列島を北上したでしょう。北千島の「遊動」海民で石器人的と言われた「ルートン」は、最長80kmの北得撫海峡を越えて動いた舟と共に「アイヌよりよほど古い」(鳥居龍蔵)暮らしの痕跡を残していました。なお、千島列島は当時氷河期でもあり、流氷を歩いて越えたのかもしれません。次々に島が見え、海獣・鳥卵・海産物と食が豊かな「昆布ハイウェイ」Kelp Highwayでしたから、ルートン痕跡の残るカムチャッカ南部を越えて北上し、ベリンジアからの「最初のアメリカ先住民」に関わったことでしょう。

無論、13世紀から(人骨実証は室町時代から)のアイヌではなく、世界の学者にも誤解している人がいるので正されねばなりません。⑤沿岸ルートから昆布ハイウェイを南下したとみられる「最初のアメリカ先住民」ですが、数千年遡った新たな米国史は、まだ、それが誰なのか、特に動画の発表も絶えてありませんので注目です。欧米学者先生は、足あとは誰だと言うのでしょう、北海道祖人の子孫ですか? 膨大なアイヌ200億円記念館展示・生活支援などの予算から、北海道史の国際共同研究による解明貢献と神社・遺跡の保護など有意義な事に、一部回して使用すべきです。

Footprints (23,000 BP) in White Sands has changed prehistory of America. The theory of Kelp Highway migration starts from Hokkaido, Japan and paleolithic sites there indicate the history since around 35,000 BP by famous seafarer descendants of Izu obsidian collectors.

図右①右下、2.3万年前の米ニューメキシコの足跡ショックの「最初のアメリカ人」論議は、北太平洋沿岸からの進入説が強まり、依然として北海道ルートに光が当たっています。

約4万年前に九州に家族で渡海し、伊豆の海で黒耀石を求めて行き来していた経緯を踏まえ、寒冷当時は冬に南下した流氷を歩いて渡ったかもしれない千島列島越えを、フネで越えた場合を検討して可能性があった事は、難所を含めて次々に島が見えたことなどから導きました。

そこで問題は、フネの場合、具体的に如何にHowです。3万年前頃の実証はできませんが、候補として②A木の舟か、海獣の革舟ウミアック(腐らない寒冷限定)が挙がります。

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Aは、その後の温暖化した縄文人の太い丸木舟(161発掘実証例)系統の木舟で、明治期までの海民ルートンが使用していたものが写真の流木利用のものです。英人スノーが貧弱な工作道具、材料に比し「巧妙」に造られている独特のモノと褒めています。板と板を隙間なく繋げ、当て木を付け、鯨の腱や骨繊維で縛り、その孔は木釘で塞ぎ、内側合わせ目はコケを詰め込んでいます(千島列島黎明記、明治初年)。Bは革張り舟で、同じく流木で骨組を作り、アザラシなど海獣の皮をなめして覆い、同様に腱等で縫い縛ったモノで、孔は獣脂で塞ぎます。皮が腐らない寒冷で水温の低い所に限られます。5~20人用が造れ家財道具を積んだ移住に適しています。

実は1976年、中世から語り伝えられている聖ブレンダンが60名余りを連れて約束の地に革舟で赴いた伝説の聖ブレンダンの実験航海(アイルランドから北廻りでグリーンランドを経て北米カナダの東岸ニューファウンドランドの沿岸航海)が行われました。

人々がバカにした予想に反し、あのタイタニック号が沈没した海域通過でしたが、舟は柔軟で高波の衝撃を吸収し浅い喫水は暗礁地域の航海に強く、冷水で防水用の獣脂が固まって耐航性能が向上し、難しい航海を無事果たしています。また、日本においては、3.8万年前の伊豆の海における行き来は氷河期であり、目的の神津恩馳島にいたアシカの革が使われたのではという見解(明治大 池谷信之)が出されています。仙台にまでオットセイなどの海獣がいた時代でした。

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3万年前頃の事ですから、A、Bタイプの素朴な型でしたでしょうが、いずれも当時の千島列島北上(難所80km越え)の諸条件に適応します。ルートンは木舟、北の米臨海アレウト族は革舟というように、南から北へ上がっていく状況で、腐らないモノに型式を替えていったのかもしれません。が、ともかく可能でした。

最後に③「誰が」は巷間に誤解が多いので付け足します。先ず、北から南下移住をイメージさせるマンモス・ハンターは北海道にうかがわせる痕跡なく、しかも最近の米国における実験考古学では、マンモスの毛と皮膚・肉が厚く、北米や北海道で発見されている程度の石器の槍で、数人が襲い掛かってハントすることはムリだと否定されています。せいぜい群れから離れた、病気やワナにかかった、あるいは子供などの狩り程度の話です。千歳や帯広などの道内の最古遺跡と台形様石器の本州品との類似性などから、北海道の先住民は青森から狭くなっていた津軽海峡を越えて適応した北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoであり、3万年以前は確実、3.5万年前後の可能性が高いと考えられ(東京大 佐藤宏之、南山大 出穂雅実)ています。ずっと後の2万年前頃、細石刃文化が沿海州・樺太から伝わったとみられていますが、万年の時代違いで誤解の元です。ましてアイヌに至っては、せいぜい鎌倉時代(実証人骨は室町時代?)からで全く別の話であり、世界の学者にもある誤解を正す必要があります。子供に世界に、国際共同研究による本件解明の深化を、と訴えます。

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始まりの人類史は、あたかも今、宇宙ではその過半を占めるとされるブラックマターが注目されているように、100m級の 海水面の上昇によって海底に埋もれてしまっている見つからない海民の暮らしの歴史こそが、主体であって重要なのです。

図左上、①世界最初の現生人類の渡海とされる理論歴史考古学上の問題に、遺跡なども発見され定説となっている南ルートではなく、環境などの諸条件の比較分析から、北ルートが容易で可能性が高いと発表(nature2019)がなされています。西パプアでの政争などで、考古学的な研究は従来なされていませんが。

このルートは、世界的に有名な海民のいるスラウェシ島を通るモノで実に納得です。いずれにしても、オーストラリア行きは5万年以前、約90km越えの意図的なものであった(2-3日を竹筏で)と学界では認識されています。②日本祖史の始まりはスラウェシから北上して来たのでしょうか、対馬海峡西水道40km越えはあまり注目されていませんが、約4万年前に家族渡海の造舟・操舟の知力は原始人ではないです。③魚もさばける切れ味の黒耀石を求めた3.8万年前からの伊豆の海の「行き来」は、世界の金メダルです。分析すれば謎ではないです(既報)。そして、これらの事から、青森の竜飛岬と下北からの津軽海峡越えの渡道は問題ではなく、北方4島、道北から北上継続となります。➃千島列島は、3万年前頃の海水面低下でも北を除き今とほぼ同様ですが、砂浜はもっと拡がっていた事でしょう。最大の難所の北得撫・ウルップ水道越え難所が問題で、アイヌは越えていません。出発の知理保以島はラッコ猟、海岸のトドの群れで知られ鯨も来ていました。何よりも新知岳がよく見え、偵察すればヒナゲシ、雲馬草が咲き乱れる、海獣・鳥・卵・海藻などの「昆布ハイウェイ」の食が豊かで、役立つ流木も豊富な処女地。何よりも獲物たちは、人間を全く知りません。

島の広さ230km²は東京ドーム4,900個分で、長い海岸線です。北部湾にはロシア潜水艦隊の基地があったほどです。水道の80km幅(wikipediaでは65km)も既に祖先はオーストラリアへ越えていますし、筏でなく漕いで概ね日中行程。朝早く出て夕遅くに、男たちが整えた拠点に家族で入れたでしょう。この島に行かなかった理由はアリマセン。ともかく千島列島ルートは、次々に島が見えていた食の豊かな所でした。海流は北から南でしたが、島から島へはむしろ横流に考慮することが必要でした。得撫島が新知島へ出て行く基盤となったように、新知島が更に北上する基盤となり得たのです。次の島見えたことや適度に基盤となる大きな島のあったことは幸運でした。最北の北千島を調査した鳥居龍蔵が「アイヌよりよほど古い」と評した北千島のルートン(コロボックル石器人子孫的)・第1アイヌは、旧石器時代人のような「遊動暮らし」の海民で、カムチャッカ南部から南千島迄、縦横に移動して暮らしていて祖人子孫の痕跡をうかがわせ、旧石器遺跡も発見されています。明治期に良かれとなされた色丹島移住でしたが、彼らには霧と寒風吹雪の北千島での遊動暮らしの方が良く、島に返してくれと主張し続けました。ロシア人、欧米・日本学者が、「とんでもない所」(英国のHJスノー:寒い憂鬱で不毛な荒涼、ラッコがいなければ来ない)、と考える地域ですが、昔からの遊動海民の好む食が今よりはるかに充実して得られた「トンデモない所」ではないことは重要です。

露ワシーリー・ゴロウニンは島の人々を、「いろいろな物を食う・1種増殖に励まない怠け者、択捉、松前と全然違う。」、と評したことに表れているように、1種(天候気象悪化の不作で飢餓)に偏らず季節・場所で得られるものを食す縄文人的な優れた生き方に理解がなければ、単に困難とルート認識も間違えます。因みにルートンは、「色丹良くない、ウシシル島(千島の絶景キンバイ草の絨毯に湖のような入り江と中小島)が良い。トド・ラッコ・オットセイが沢山」と言っていました。さて、カムチャッカの後は「米臨海」西沿岸をベリンジア迄(他方、稚内から樺太~オホーツク北岸も)は陸続きで、ベーリング海峡の渡海(途中に島があり40km程度)も全く問題なしです。宿題結論は、「3.5-3万年前からの北海道祖人は北上を継続し、標題の『最初のアメリカ人』に関わったであろう」、です。世界に発信を、国際共同の学術研究を 。

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