昨年ニューメキシコで発見された衝撃の2.3万年前足跡の発見は、単にアメリカ祖史を数千年遡らせるだけでなく、根本的な再検討を必要としています。それは、シベリア・ハンターが、「いつ」マンモスを追ってアラスカへ入って行けたのか、ベリンジア地峡は形成されていたのかという本末転倒の議論を基礎にしていましたので。
そもそも南北アメリカ新大陸史は、問題は「誰が」「いつ」「どこから・どのように」、本土米国mainland U.S.に入ったのかが、中南米への拡がりを踏まえて根本(大氷床時代の新大陸のアラスカに最初に入った事の意義は限定的)なのです。そこから問題は、実は浅く・広くもないベリンジア地峡ではなく、現在主流化している昆布ハイウェイ・沿岸ルートの難所であるA.「海岸通り」と内陸ルートのB.無氷回廊の状況がどうだったのかとなります。内陸の氷床は融けただけでなく、そこに動植物が存在するようになって人が移住できるようになったのは「いつ」からか、それは「誰」だったのかという事になります。そこで前回の4万年の気温変化から導かれた温暖期である2.8万年前のA.「海岸通り」通過をプロットし俯瞰しました。図左下⑤南方から北上した現生人類が、約4万年前に北部九州へ、3.8万年前には黒耀石を求め伊豆の海を行き来し、3.7万年前には長野の高地に充実の痕跡を残し、大雪の無かった日本海側と太平洋側から北上、仙台にまでオットセイなどがいましたので北海道での暮らしの予行練習となりました。狭くなっていた津軽海峡を祖人Proto-Japanese は越え、⑥3.5-3万年前には北海道の暮らしに慣れて拡がって(旧石器遺跡数701)いました。ここで、外国の多くの学者は依然としてAinuを記述しますが、鎌倉時代から(北海道大学のDNA分析)の2桁新しいという誤りですが、日本学者がシッカリ訂正してあげないのが問題です。さて、北海道祖人が留まる理由は何も無く、千島・樺太に北上し昆布ハイウェイからアラスカに至ったでしょう。明治時代に、カムチャッカ南部にまで痕跡を残した北千島ルートン・コロボックル石器人やシベリア東端チュコト半島の海岸族石器人の痕跡が確認されています。 なお、アリューシャン方向への移住の図を示す動画もありますが、カムチャッカ側からは350kmもある航行の家族での渡海移住はムリでしたでしょう。遺跡からも逆にアラスカ本土からの西進がうかがわれます。
⑦ベーリング海峡は、中央にダイオミード2島や南にセントローレンス大島などがあり、浅く渡海は45km以下で、海民にとってはいつの時代も問題ありませんでした。東部シベリア・アラスカ地域に2.8万年どころか1.5万年を超える遺跡が全く見つかっていませんが、ユーコン川を遡上したBF遺跡があり、発見当時は古すぎるという事で(?)が付いていますが今は注目です。近年、本件は⑧内陸の無氷回廊が開いていない時代の遺跡が南方で見つかり、沿岸ルートが注目され、前回説明のアラスカ南部海岸の難所が2.8万年前頃の温暖期に越えられたと考えられ、ニューメキシコの足跡が、コロンビア分岐点からの内陸南下ルートか、南のカルフォルニアからの東進かは別にして、南米遺跡との中間位置にあり騒ぐ必要のない、時代的に納得しうるものです。このようにあらためて俯瞰すれば、北部九州から南米チリ(実は、アンデス高地や南端)まで納得しうるもので、浅いベーリング海峡がいつ地峡になったのかなどは重要性がありません。海民である北海道祖人が北上し、昆布ハイウェイ沿岸の進入南下に関わったと考えられます。なお、東京オリンピックは、世界に海越えの考古学金メダル神津恩馳島を紹介し、アイヌの誤解を解く絶好の機会として訴えましたが、政治・行政に全く意義の認識なく残念でした。
他方、シベリア・ハンターが、いつ東部シベリアに進入(ヤナRHS遺跡やデュクタイ文化)したか、海民に成れたのか、どのように本件に関わったのかはあらためて検討することとなります(プーチン側の発表は、時に眉に水分付けが必要)。なお、内陸の回廊は、氷が融けた後の何千年間は、動植物が定着できる環境になかったと見られています。いずれにしても、アメリカ始まり史は見直し再検討となっており、子供に教え、日本の状況を世界に発信し、新たな国際共同研究に日本も参加すべきで