昨年の米国ニューメキシコにおける2.3万年前(最寒期LGM、内陸の無氷回廊は閉鎖中)の足跡発見で、北太平洋沿岸からフネで進入が定説化し、昆布ハイウェイが通ずる「北海道ルート」は注目されています。

しかし、巷間の北海道史は歪められており、正されねばなりません。図左、約4万年前に出アフリカの現生人類は、南方から緯度に適応しつつ北上し、渡海して北部九州に達し、海辺の痕跡は海水面の100mほどの上昇で発見困難ですが、3.8万年前からの伊豆の海におけるフネによる行き来と3.7万年前の内陸高地の長野・群馬県境の香坂山における小石刃を含む多様な充実の石器群が、祖人の認知力の高さと列島中央部の社会性ある賑わい・交易・陥し穴猟などの状況を示しています。そして、北海道史は、①これらの祖人Proto-Japanese が津軽海峡を越えて北上し、拡がったことを旧石器遺跡(数701)が示しており、巷間本の沿海州~樺太からマンモスハンターが南下してきて始まったのではありません。重要な事は、②礼文島で発見された女性人骨(3,800年前)が、当時の縄文本州人と同様の祖人子孫の「和民族系」であり、A祖代から暮らしていたか、B縄文になって舟で島に渡ったか、いずれにしろ道内の先住和民族の拡がりを示しています。北海道の先史で強調される沿海州・樺太からの祖代末期における「細石刃文化」の流入(1万数千年前頃、温暖化後の中小動物狩猟用の細石器)ですが、道北・礼文でさえ和民族性が維持されていたことは、細石刃文化の流入に伴う北方人の進入は、有っても少なかったことを示していることが重要です。即ち、北海道の先史は、巷間本が不当にイメージを強調するマンモスハンターや細石刃族など、北方の沿海州・樺太からの意味ある大量の南下進入はなかった、むしろ祖人と子孫の北上こそあったと考えるべき真逆の状況であり正すことが必要です。

結局、北からの意味ある進入は、③5世紀頃からの沿海州河口・樺太北部のウリチ・ニブヒ系の南下(北海道大学のDNA分析研究)であり、アイヌ(民族と言えるか疑問)は、オホーツク人と画され、和民族とも混血した北方系である多様な人々の総称であって、鳥居龍蔵が「第2アイヌ」(よほど古い北千島第1アイヌ)と言った人々を「先住民族」と驚きの国会決議をして、世界に大きな誤解を与えており正されねばなりません。今、「最初のアメリカ人」沿岸進入が定説化し、北海道ルート説も登場している時代に、➃道東・道北に拡がった北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの樺太・千島以北への北上継続こそ注目されねばなりません。状況を子供に教え、世界に発信、膨大なウポポイ予算は、この方面の国際共同研究にこそ投ぜられねばなりません。

左図現生人類の出アフリア後のミトコンドリアDNA移住図(YouTube最新)は、昨年9月末の米国ニューメキシコにおける足跡(23-21,000年前)発表の衝撃を反映できていませんがよくできています。

問題は、この発見で「沿岸ルート」仮説がもはや定説化したため注目される日本列島北上ルートであるのに、九州渡海以降が抜け落ちていることです。当時は海水面の100m級の低下(気温は数度低かった)により、「北東亜平野」が現れ、大きな湖のような「曙海」となり、日本海側に大雪が降らなかったなど、現在との大きな違いがありました。そして重要なことは、内陸からの人々もこの時代は未だモンゴロイド化していなかったので、大きな違いのない人々であったことです。東南アジアからの北上ルートは把握されているのに、動画は九州直前で線が止まったまま千年前まで、他は動いてハワイにまで至っているのが全く不思議です。作者の意図は不明ですが、無視されたと憤慨する前によく考えれば、もしかしたら良心的なのかもしれません。というのは、右図日本の巷間の書籍などでは誤解を生む3方向渡来図が多く、時代を追って線を動かしている作者は日本のこんな状況を無視して正しいものとすることをためらったのかもしれません。

日本の問題は、約4万年前からの1万件を超える旧石器遺跡から北上(沖縄南下)が導かれるにも拘らず、です。また、北米インディアンNatives・南米インディオ、豪アボリジニなど世界の先住民族問題に関しては、北海道への進入が鎌倉時代から(北海道大学、DNA分析)のアイヌAinuは全く無関係なのに、オリンピックの際や海外活動などによって世界に誤解が広がっていることも問題です。これらの事は、未だ打ち出されず学生・子供にも教えられていません。ウポポイ館200億円などの膨大な予算から、世界に貢献する祖史研究・遺跡保護等にも振り向けられるべきです。

今の時期の5月の雨は、また、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」と言われるものです。

左図A北米北西海岸の先住民Nativesは、内陸と全く異なる密で多種多様な言語小種族で、B特にカナダの痕跡にはっきり残されており、C現在でも沿岸30種族は確認されています。1図の①先入の沿岸ルートと②後入の無氷回廊ルートを考えれば、①沿岸は五月雨(式)Samidare進入で、②回廊は、強い狩猟族のまとまり陸続の進入であったと考えれば理解できます。というのは、昨年9月末にニューメキシコにおける子供などの足跡が2.3-2.1万年前のものと発表され、それまでのクローヴィス石器人定説をなんと万年遡らせて学界を驚かせ、ショックで今も特に「誰が」最初の米大陸人(フネで沿岸から)だったのかを考察した説は未だに出ていません(依然シベリア人か?)。更に、発表で沿岸と回廊進入の差は10-8千年という事になり、1万年もあれば沿岸から入った人々はニューメキシコのように内陸にも拡がった訳で、アメリカ東部にも回廊開通以前の遺跡が発見されて示しています。しかし、左図のように内陸の多様性が乏しいことは、後入の強い狩猟族の比較的まとまった陸続進入による沿岸拡がり種族の駆逐・吸収であったのではと考えられるわけです。

そこで次に、最初の沿岸進入に至ったベーリング地峡・ベリンジア地域の状況を考えますと、2図①米カンサスなど3大学チームは、当時(氷期)の沿岸(昆布ハイウェイ)状況、海水面の低下、沿岸地形などから海岸線付近に散在していた一時的な列島小島(Temporary Archipelago)で暮らしていた人々が、その後の温暖化の海水面上昇で島におれなくなり追われるように移動進入して行ったのが始まりだろうという説を発表しました。しかし、昨年の2.3万年前の足跡発見からベリンジア越えは氷期最寒期LGM(2.5万年前頃)の事と一応考えられることから、追われるようにではなく、一時的な列島小島をそれまで同様に開拓的に移住してきたと考えるべきでしょう。またベリンジアに関しては、②優れた広域(北千島、ユーラシア東部など)のフィールドワーカーとして有名な鳥居龍蔵が、チュコト半島のチュクチ海岸族の先人石器人オンキロン痕跡に注目したことが特筆されます。おそらく北千島人の留頓・ルートンとの関連だったのではと思われますが、問題意識が「最初のアメリカ人」であったとすれば、あの時代における驚くべき慧眼です。

右図下A既に3.8万年前から伊豆海民は、黒耀石を求めてフネで東京諸島・神津恩馳島を行き来し、B狭くなっていた津軽海峡を越えて3.5-3万年前には北海道に拡がっていました。C近年の高橋克範氏の研究で、留頓の本拠地は遺跡痕跡からむしろカムチャッカ半島南部であったと考えられ、留頓先人が北上していればオンキロン、べリンジア進入と関わってくることになります。この北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoに関する問題は、日本祖史はもとより「最初の米大陸人」問題と関わる重要なもので、これらに関する総合的な研究は、膨大なアイヌ関連予算からでも割いて投じ、世界にも貢献すべきです。因みに、人類がベリンジアをTemporary Archipelagoから入って行った状況が、「Samidare」(の進入)であったことは用語として提唱すべきです。ともかくこれらの事を子供に教え世界に発信すべきです。

図下約4万年前から祖人Proto-Japanese が列島に拡がって父母祖の歴史は繋がり、江戸幕府・松前藩の千島・樺太の領土認識は、進出して来たロシア(1711年)も「日本の島々」と認めたもの。

図上最上徳内が作成した地図の注目は明確な北千島で、留頓・第1アイヌ・コロボックル石器人は、最近の研究でカムチャッカ南部がむしろ「本拠地」と遺跡群が示しており、近年、「最初のアメリカ先住民」を研究する学者たちが提唱する北太平洋「昆布ハイウェイ沿いの北海道ルート説」と軌を一に。鎌倉時代に入って来て、保護されて女性に優しい社会に変わって行った第2アイヌは特に差別もなく、予算は留頓・第1アイヌと北海道ルート説に関して研究と遺跡の保護等にこそ投じ、世界学界に貢献すべき。

北からマンモスハンターは来なかった。図右下約4万年前に現生人類・新人が北部九州に渡海し、3.5-3万年前には沖縄から北海道にまで拡がったことは1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

そして図右上北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoは、伊豆の海をも越えて黒耀石を求めた海民の子孫としてそこで留まった理由もなく北上を続けたと考えられます。東京帝大の鳥居龍蔵は明治~大正の北千島調査と分析から最終的には師の坪井正五郎が祖人について研究・議論するために提唱したアイヌ伝承のコロボックルこそ古い第1アイヌ・留頓ルートンで、樺太からの第2アイヌと違うという認識を記述(注:第2アイヌは得撫、77kmの新知島へは越えない)し、近年、北大の高瀬克範はカムチャッカ南部の遺跡研究から、むしろ北千島アイヌ(留頓)の本拠地はアムチャッカ側にあったとの認識を記述していますが、このことは、古い時代には更にカムチャッカ北部に居てカムチャダールの進出で圧迫されて最南端のロパトカ岬に後退してきたことをうかがわせます。他方、「最初のアメリカ先住民」研究の米学者は、北米大陸が厚い氷床で覆われている時代の遺跡(1.6万年前級)が処々に、また、その時代の南米チリにすら遺跡が発見され、北太平洋沿岸の食豊かな「昆布ハイウェイ」からフネで南下して来たと考えるようになり、「北海道ルート説」を唱える複数の学者が現れました。昨年9月末のニューメキシコにおける驚きの2.3万年前の足跡発見は、それまでの進入定説を数千年遡らせる氷期最寒期(LGM)にというもので説を補強、「誰が」来たのかはまだ米学者から定説化に至る論が出ていません。

さて今回、巷間の北海道史年表に強い疑問を抱いた中村恵子氏(北大)が、本来は中軸として記述されるべき幕府の松前藩・東北諸藩の行動とアイヌ配意の対応などに光を当てて歪められた北海道史を正す労作を発表されましたが、やって来たロシアも「日本の島々」と認識していました。このことによって、祖人から、坪井正五郎の本州同様のコロボックル石器(縄文)人時代、古代・中世の倭人・擦文人・蝦夷人(鳥居龍蔵命名の第2アイヌ含む)、近世の幕府・藩人
(第2アイヌ含む) 、そして北海道人と呼ばれる一連の歴史が理解できます。この間、樺太の方から2万年前頃の細石刃文化の影響が言われ、最寄人、アイヌの進入がありますが、征服や民族の大移動などは確認されません。年表には近世「「松前時代」を。子供に教え、世界に発信、更なる研究とウポポイ館を充実の北海道北海道記念館に改装を。

3世紀に内陸盆地出身で図の「曙海」のほとり地域はよく知らない①陳寿(233-297年)が、魏略というタネ本、呉は敵、東西南北の周辺国は野蛮格下、海民のヘンな習俗紹介などを基礎に、得られた諸資料から広大な周辺地域の意義づけ扱いバランスも考えて魏国史を描いた、断片的な事実を含む創「象」で、歴史書というより神話的と称すべきもの。

従って、邪馬台国・卑弥呼などそれらしい似た存在はあり得ても、北部九州と畿内(それ以外にも無数)に所在説が分かれ、依然として実証できないことで分かるように見つかりません。現在の教科書の採り挙げ方は史実かの如く誤解させるもので、日本書紀・古事記の扱いに比し不当です。但し、図右下の約4万年前頃の列島史の始まり「祖代」の状況である現生人類の出アフリカ後の東進北上による移住史を下敷きにすれば、魏志倭人伝の時代でもキーワード「曙海のほとり」の暮らしの痕跡や諸国の関係性が感じられることが重要です。そもそも沿岸の呉(越)と内陸の魏との南船北馬と評される違いと対立、狗邪韓国の倭性、②五島地域人と隼人が付近の人々とは違っているのに「類縁性」がある事、③侏儒国は北海道のコロボックル同様に原初的な民と考えられる表現であり、邪馬台国・卑弥呼、黒歯国などは根も葉もないものではありませんし、台湾山地沿岸人と倭人の最近のDNA類縁性の分析と符合しています。実は新しがりのインド太平洋構想などもその線上の温故知新です。子供に教え、世界に発信を。更なる研究予算の投入を。

確かに今や「縄文Jomon文明」と言われるほどの文化的に素晴らしい種々の遺跡・遺物が発見され、実証性の面でも縄文時代の事柄が多く明らかになってきましたので理解できます。

しかし、①最近のDNA分析で南方から(Kae Koganebuchi 東京大:台湾先住民のDNAと縄文人のものの類似性)であることが明らかになり、サルではない祖先主対象である現生人類・新人は、陸続きではなかった春は「曙」、始まりの海を家族で渡海して祖人Proto-Japanese が列島に拡がったこともはっきりで、沖縄・石垣島で2.7年前のモンゴロイド化以前の南方系人骨が発見されているなどの実証性もあります。特に②黒耀石を採取に海を渡って、38,000年も前から東京諸島に求め、物々交換し、広域の遊動暮らしや陥し穴猟や社会性ある集団キャンプや世界的に1万年も早い磨製石器など考古学界の注目です。そして、③近年の世界的な「最初のアメリカ人」論議(2.3万年前に米国ニューメキシコに足跡)で、北海道から北上を継続し、北太平洋沿岸の「昆布ハイウェイ」から入って行ったと考える北海道ルート説が登場しているのです。

➃祖代末期の静岡・浜北人骨は縄文人に似ており、各地の遺跡・遺物も祖代から縄文にムリなく繋がっているとみられる上に、祖代における大規模な人の流入や入れ替えは、遺跡やDNAの分析でも確認されておらず、少数の五月雨の渡来と考えられているのです。

従って、「私たちの祖先は縄文人である」は、誤解を招く表現であり、ましてや「縄文人はどこから?」は、2代目ですから日本列島に決まっている誤りの愚問です。あたかも江戸人が、明治維新でザンギリ頭に背広を着て、すき焼肉を食べようと、一皮めくれば江戸人であることと同じようなものなのに、余りにも縄文、縄文、Jomonで、これは米国の「2.3万年前の足跡」問題に参加できなくさせていることや酷いのは鎌倉時代のAinuの誤解が世界の学界や動画で登場するのが大問題なのです。そして、2代目のJomonは、初めて青森で発見された土器の16,500年前からなのか、定住や弓矢や土器が拡がった1.5-1.3万年前からなのか、というだけの事なのです。因みに、青森・最古土器は、祖代文化を基礎に東・西・北が融合した先進地域で温暖化の環境変化と共に生まれた産物と解釈出来る、それはそれで意義深い事です。子供に教え、世界に発信することが求められています。

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