米ニューメキシコ・ホワイトサンドにおける23,000年前の少年足跡などの痕跡は、土層の明らかな上下と足跡の関係、そこに含まれる植物種子の年代分析等から信頼性が高い分析報告と受け止められています。問題は、アメリカ学者は、大人と子供の生活における仕事の役割分担の違いといった社会性に着目し重要性を指摘していますが、重要な点の指摘がありません。

それは、1図、最初のアメリカ人は、「A、B、誰が、いつ」小フネで北太平洋沿岸を入って来たのか(最新の定説化)という言わば人類史始まりの最終段階であるアメリカ新大陸への移住、「最初のアメリカ人」問題への関りの指摘の無いことです。実は今回の発見は、それまでの米大陸史を 数千年間 遡らせた点にあり、その重要な意味は、これまで定説だった北米から南米への移住拡がりが「急行」の千年ではなく、通常ペースの白紙的には8,500年間になることで、白紙的だからという事だけでなく喧伝してきたことが崩れて恥ずかしいという事もあるのでは邪推(失礼)します。しかしこのことは重要で、このペースを逆算すれば、例えばAルートの北海道やBルートのヤクーツクを3万年前頃に出発することになり、これも近年DNA研究家が唱えられてきた、ベリンジア(地峡)に早く到着して数千年間もそこに滞留してDNA変化を生じ、温暖化してから入って来たという説も崩れるのです。

しかし、出発3万年前は、Aは青森から狭くなっていた津軽海峡を越えて北海道に進出し、35-30,000年前頃には道東に暮らしてますので、そのまま滞留もなく北上を続けて行ったという実に素直に納得できるものです。Bの方は、バイカル湖地域のしっかり遺跡年代とヤナ遺跡が一時的とも言われていることから考えると、3万年前の集団の暮らしはどうだったかなとなりますが。Aは、図説明の始まりの北部九州への渡海、38,000年前からの伊豆の海の行き来、北海道旧石器遺跡数701など歴史的な基盤はしっかりです。千島列島は次々に島が見えましたし、最大離隔77kmも見えていたので海民は移住できた(既報のルートン族、オンキロン族の石器時代的な暮らしの痕跡もあり)でしょう。Aは海水面上昇数十mで痕跡は海底ですし、Bは現在も過疎で居住少なく開発発掘も限られ遺物の発見は困難ですので、学説化は難しいですが、このくらいのことは学校で教え、日本の状況を世界に発信すべきです。アメリカの議論では、「北海道」は登場してますので。

図左、明治人の東京帝大・鳥居助教授が、人類史最後の大きな謎「最初のアメリカ新大陸人」は“誰が何処から”に関する米国の専門家たちの最新の議論に、長い間の広域のフィールドワーク経験に基づく北千島の遊動海民「ルートン」(第1アイヌ)や東部シベリア・ベリンジア西端の海岸族「オンキロン」などに関する有益な研究成果を携えて参加できるレベルであることが驚きです。更に驚きは、議論を聞いていてそれほどビックリすることもなく、フムフムとうなずくだろうと想像できることです(源の人類が20万年前にアフリカで誕生して世界に散らばり、日本列島へは約4万年前頃にフネで北部九州に来た、DNAというものがある、などには驚きますが)。

明治23年に北千島の現地調査を行い、現地民の自称ルートン(第1アイヌ)の暮らしぶりが石器・骨器を使用し、北部千島、カムチャッカ南部を”遊動”して竪穴住居に住んでいることから、南から北上した「よほど古い」人たちだと認識するに至り第1・第2アイヌ(本道)と命名した慧眼です。北千島調査の直後は、現地民が(アイヌ伝承の)コロボックルは千島で聞いたことがないとの答えから居なかったとしたことが喧伝され、現在も学界ではおとぎ話扱いですが、大正6年には逆に存在の確信に変わり活字で発表しています。特に注目すべきは、シベリア東端(ベリンジア西端)に、やはり石器や竪穴住居の痕跡を残した先住海岸族オンキロンに強い関心を示し、解明の重要性を指摘しています。このことは、どこにも記述は見あたりませんが、「最初のアメリカ人」問題に意識があったのではと思わせられるほどです。図右、昨年9月のニューメキシコにおける古い足跡が、層位・種子等の分析から23,000年前と発表され、崩れていた定説「無氷回廊ルート」ではなく、益々沿岸ルートに関心が強まっていますが、アイダホ州立大Speer博士のNet動画説明でもそれらが語られ、質疑ではHokkaido、日本が登場しています。

研究視野がベリンジアに達していた明治人鳥居龍蔵助教授は、大正・昭和初期に既に現在(2021年9月)の最新の論議に参加できるレベルであった驚きなのです。令和の今、日本では何の説も発表がないどころか、論議さえなく、学校では未だ全く何も教えられていないのにです。現在、なぜこのような状況になっているのか、学界の大きな問題です。

フィールドワーカー鳥居龍蔵・東京東京帝大助教授・鳥居人類学研究所長(自宅)・「総合人類学者」の足跡は、当時、北千島・カムチャッカ半島、長野黒耀石原産地、沖縄、台湾・朝鮮・シベリア・蒙古・満州・シナ西南部・樺太等の各地に及び、後に南米(インカ)にも足跡を残されました。

現生人類は、DNA分析等から30-20万年前にアフリカで誕生、その後、数万年前に「出アフリカ」で全世界に拡散したことなど全く想像もできない時代に、当時大きなテーマだった「日本人とは」の問題意識を堅持され、「第1先住アイヌ・ルートン・コロボックル、そして、樺太から進入の新第2アイヌ」の区別論を唱えられ、ベーリング地峡・ベリンジア西端・アジア側東端のチュクチ族、特に海岸先住オンキロンに強い関心を示され、チュクチ族からの聞き取り内容を単に昔話でない注意すべき重要なことと書き記されました。チュクチ族の内陸狩猟族ですら、元々海外族という意見も貴重な重要さで、そのオンキロン竪穴住居と遺物の研究から、1.竪穴遺物はオンキロン(チュクチ前)の物だと答えた事は、吾人の大いに注意すべきものなり。2.先人をアイヌがコロボックル(樺太アイヌが、トンチ)(北海道祖人系)と言うに似る。3.海豹アザラシを追い漂泊(遊動)・猟漁。竪穴住居(アレウト、ルートン、エスキモー等)、石器・骨器、土鍋・ランプ、ごみ溜め動物骨、4.入れ墨(縄文土偶的)舟は皮製(カムチャ・ルートンは木製)、小舟仲間・シャーマン信頼社会、5.犬で狩り(アイヌ犬は南方系)、無言交易などの特徴把握は、現代視点で重要です。

学者としての慎重さからか、オンキロン貫頭衣の南方性や「最初のアメリカ人」には言及されていませんが、オンキロンに大いに注目すべしとされたやや尋常でない関心を示された記述は、記し得なかった問題意識をうかがわせ、驚きの先進性なのです。現在、2.3万年前の米国南部ニューメキシコの足跡発見で定説が崩れて模索中の世界祖史学界にとっては正に温故知新で、勿論当時の限界から全てが正しい訳ではないですが、今こそ鳥居研究成果に光を当て学ぶべきです。

図左鳥居龍蔵が「よほど古い」と認識し第1アイヌと命名した北千島ルートン(北海道祖人・海民系)が、北上してカムチャッカ半島沿岸からにベリンジアに入って行ったのか?数十m以上の海水面の上昇と万年の年月経過で海岸痕跡は見つかりません。

図右、現生人類の認知性については、一説には海産物を食するようになったので脳力が向上し、南アフリカの海岸洞窟で7.5万年前の穴開きビーズ装身具や線刻( 赤色オーカー彩色を施した物もあり) などが発見されていて、現生人類は、アフリカを出る段階で既にそのレベルの認知力を有して東に西に北に移住して行ったと考えられます。図中のように、装身具は各地で形態に違いがありますが、この地域のどこが最初かは、出アフリカ認知力でその後作り出した物であり、何とも言えません。北海道函館知内町の有名な湯の里4の遺跡と北海道~ベリンジアルート上のカムチャッカ半島の遺跡が、①埋葬にあたり同じように副葬品・装身具を墓に入れていること、②その装身具が極めて形態がよく似ており、東部ユーラシアを見ても他にこれ程の類縁は見られず、また、③湯の里4遺跡の台形石器(赤丸)は、祖代前半(3.5万年前頃)から列島各地でみられたものですが、➃道北、樺太、沿海州など大陸の東部には見られないことなどから、特にその装身具の形態類似から、祖人が伝えた知内~ウシュキの伝搬とみられます。即ち、青森地区は最古土器や芸術的土偶でもよく知られていますが、日本海側、太平洋側、北側の3者が交差する豊かな特質がありました。青森から、知内町~道東~カムチャッカへの北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの北上のつながりが考えられるルートの痕跡と言えるでしょう。図左下、カムチャッカの中部にまで至れば、後はもう、ベリンジア行きに問題ない「指呼の間」と言ってもよいでしょう。

アジアからアメリカ新大陸への最初の人類の移住ルートは、図左Aオホーツク海沿岸から米臨海北岸のルート、BヤナRHS遺跡が発見されている北極海沿岸を東進するという2ルートであり、巷間本に無造作に線が引かれているバイカル湖~ベリンジアという山間極寒の生活移住 ルート は困難です。

そしてBは、ヤナからの東進は環境と痕跡などから時代は新しく、やはり花綵(はなづな)海(オホーツク海沿岸から米臨海北岸)が有力で、更に言えば進入直前地の痕跡としてチュクチ・海岸族オンキロンが注目です。さて右図、米オハイオ・Kent州立大のマーチン・エレン実験考古学者等は、マンモスの個体特性を踏まえ、有名な狩猟族のクローヴィス石器により種々の実験を行い、石器はスイス・アーミーナイフのような諸作業用であり、マンモスは密集した毛と厚い皮膚・脂肪で守られていて、とても槍投げで致命傷を与えるようなものではないという実験結果を発表しましたが、納得です(依然、マンモスハント説の主張反論ありですが)。エレン等は、せいぜい負傷していたり孤立したマンモスを稀に狩り、多くは死亡した肉の解体であってマンモス・ハンターとは言えないと、欧州・中央シベリアに対しても考えています。以前から、マンモス狩りなんて、「父親が息子に生涯の自慢話として(脚色加えて)するような稀なもの」という学者はいましたが、正に実証されたと言えます。

このことはマンモスの絶滅期まで数千年以上も人類と共存しており、絶滅は温暖化の環境要因が主という最近の研究も傍証です。そうなると東部シベリアにもハンターはいなかった訳で、先に述べたA、B2ルート観と符合する重要なイメージ変更事です。巷間本の①マンモスハンターが北から北海道へ、②マンモスハンターがベリンジアからアメリカ新大陸へは否定され、トナカイと暮らす内陸族と海岸族ということになります。これらのことから、最初のアメリカ人は、①昆布ハイウェイA系‐1・2ルート、②北海道は有力な出発地として注目であり、③2.5万年前頃以前にベリンジアに達していて、➃一時的列島Temporary Archipelagoからアラスカ湾沿岸をフネを使用して進入して行った、と考えられます。問題は、はっきりしないからと学界は教科書に書かず、教育もしていませんが、一方で北からハンターが来たとか、ベリンジアを渡って行ったとか、誤りを教えていたわけですから、論理的に導かれる最新の①~④を先ずは教え世界に発信し、国際共同研究を主導すべきです。

北米における衝撃の2.3万年前の足跡発見で、「最初のアメリカ人」は、それまでの定説を数千年遡らせ、かつ、北太平洋岸の食豊かな昆布ハイウェイをフネで入って行ったと考えられ、複数の米国学者からは北海道ルート仮説も出ています(シベリアのマンモス・ハンター初渡米説は崩れ)。

この人類史のパラダイム変化で、先達の大森貝塚のエドワード・モースと坪井東京帝大人類学教授が北海道の竪穴遺跡と遺物から唱えた前プレ・アイヌ説は、その後、広範なフィールド調査の鳥居助教授も 4要件に合致する事からも 存在を確信し、北千島の第1アイヌ(遊動海民ルートン)だと思うと発表した北海道先住説話のコロボックルは注目です。図下曙海へと北上してきた現生人類は、多くの家族がフネで渡海して約4万年前に北部九州に至り(考古学界の共通認識)、3万年前頃には沖縄から北海道に拡がっていました。つまり列島実証最古級2.7万年前の沖縄・石垣島祖人とあまり違わない祖先の拡がりであったと考えられ(寒冷地適応のモンゴロイド化は未だしていなかった)、後の沖縄・港川人(1.8万年前)は当時の東南アジア・大半島陸地スンダランド・ジャワのワジャック人に類似と言われています。そして、西のスマトラにはコロボックル(蕗の下の小人)かと言いたい種族がともかく現実にいます。

いずれにしても原郷の南方から、特に祖語の共通性で注目される環太平洋の人類史を新たな視点で研究を深化させる事が求められています。子供・学生に紹介し、国際共同研究を日本学界がリードすべきです。「最初のアメリカ人」問題は、私たち日本人についての歴史理解を深めることにもなるのです。

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