イエズス会アンゼリス神父は江戸初期 にその使命から、流石に驚くべき左図地図報告をにしています。

ベーリングの120年前に海峡を、間宮林蔵の200年前にやはり海峡を把握し、北極海に至る陸地もまずまずで、青森とアンカレジを正しく認識しています。それにも拘わらず、興味深いのは①北海道を大きく理解し、「米臨海」西沿いは、カムチャッカ・千島・道東が陸続きです。即ち②千島は、島間の 最大 距離約80kmという、漕いで1日で行くのは大変な所があり、20を超える島々を舟で行き来せねばなりませんが、す~っとアラスカに行けそうです。そして、中・北千島人は、③ヒゲ無く未開でアイヌとはっきり違う理解をしている点も興味深いです。アイヌと中北千島人は、④顔を合わせて交渉しない物を置き合って交易するやり方(沈黙交易)でした。また、別の神父の情報では、⑤エゾ人は、彼らの言葉を理解できない(孤立的な古さ)としていますので、中・北千島人は、アイヌとも一味違う言葉でもあったのでしょう。

「最初のアメリカ人」沿岸ルートである青森~アンカレジは、地形的には思ったより一通性がある認識を持たれる状況にあり、人的には右図新旧の2層という状況で古Ⅰ層の一通性が窺がわれ、はっきりと祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、「沿岸ルート」のやはり有力候補であることが分かります。更なる研究を進めるとともに、子供に教え世界に発信です。

右図沿岸ルートの青森~アンカレジについて、明治先達が地域の歴史と人に関し、2層構造観に至っていたことは正に驚きの先進性です。

日本考古学始まりの大森貝塚発見の米学者モースと人類学の祖である坪井正五郎は、北海道にはアイヌと違う先住の人々がいたと口碑や遺物などからはっきり新旧2層を認識し、フィールドワーカーで有名な鳥居龍蔵は、千島列島を訪れ北海道アイヌと北部千島の人や暮らしぶりの違い、特にシベリア東部・カムチャッカ半島にはシベリアで見られるマンモス骨で家を創る系の鯨骨利用のエスキモー(イヌイット)以前に、竪穴住居に住み石器や骨器を使い、ゴミ溜めに熊・トナカイ・セイウチ・トドの骨を残したオンキロン(人)がいて、海岸にはアンカリ(人)がいたことを把握し、オンキロンとアンカリはその名前の言葉(発音)から同じ種族ではという新旧2層の認識を示している。

そして北部千島人と海岸のアンカリ人の中間のカムチャッカ半島「米臨海」側には、13,000年前の遺跡で道南知内町遺跡と墓の副葬品の状況が似ている同種と考えられる人々がいたことを考えると、繋がって図中の旧新1・2層の区分となります。「最初のアメリカ人」については、舟の民「北部千島人」と海岸の民アンカリが移住沿岸ルート系の古い痕跡を残しているモノとして、実に納得の新旧2層の種族構造の仮説に導かれます。 更にコレが、近年の米先住民Ntivesの広範なDNA分析から得られる見方とも矛盾がないのです。因みに、アリュウシャン列島アレウト族は、DNAは新しいとしても暮らしぶりは離島に海民性の暮らしぶりの痕跡が残ったモノとも考えられ興味深いです。 膨大なアイヌ予算を充当して古文書や遺跡等について関係諸国との協同研究を推進しましょう。子供に教え世界に発信しましょう。

今、世界人類史の重要な問題である「最初のアメリカ人」(1万数万年以前から)について、右図①日本最新の旧石器辞典が全く扱っていない周回遅れです。従って、子供は学校で全く教わっていません。

旧石器時代は約1万年前以前、中国では1.4万年以前になろうかという状況でアフリカ、ユーラシアを扱いながら、世界注目のアメリカ新大陸の重要な旧石器時代を全く扱っていない異常です。問題は長く左図②シベリアのマンモス狩猟族Bが、当時の海水面低下で生じていたベーリング地峡からマンモスを追って入って来て、氷床が融けた「無氷回廊」を通り米本土に、南米にまで拡がったというものでした。ところが近年になって、③その回廊が開いた頃の南米チリ遺跡が歴史界に衝撃を与え、北米では開通以前の遺跡が諸所で発見され、北太平洋沿岸の昆布ハイウェイ(Kelp Highway)をフネで入って来た”沿岸ルート説”が主流になってきました。DNA分析によってアジアからであるとなり、一部に根強かった大西洋ルートなどは否定されています。そして、④食が豊かな昆布ハイウェイルートと石器の類似性に着目したアメリカ学者の中に、A日本から来たのではと言う者が現れました。

日本からとなれば北海道であり、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoが注目されますが、日本では根拠もなく沿海州・樺太の方からマンモスを追って(現生人類が)南下し入って来たというイメージが今も書籍や博物館の展示で与えられ、南方九州から北上して拡がったという1万件を超える旧石器遺跡が示す事実が示されない異常から、外に出るイメージが生まれず、今やアメリカ学者が言い出した事に対応できていません。さて、左図A④3万数千年前の青森から狭くなっていた津軽海峡を越え、3万年前(石器分析)には北海道に拡がっていた祖人が注目され、図のように一旦はいろいろ別れても合流する種々のルートが考えられます。当時の地峡により、北極海の冷水の流入はSTOPしていた米臨海は正にハワイに繋がる海でした。外国の学者にはアリューシャン列島ルートを指摘する者もいますが、図中央のロシア・コマンドル諸島(かつて侵入した露人が生活難で全滅)から列島側へは400kmを超える漕舟が必要で、1日10時間で約1週間、万年前には困難だったろうと考えます(仮に、祖人が渡っていたなら言葉もない驚き!)。

更に、考古学的には“米臨海”地域は、せいぜい1.5万年前までの遺跡発見の状況ですが、⑤DNA分析ではもっと早くに現生人類はベーリング地峡に達し、そこで滞留してDNAが変化したCと考えないと理解できない状況にあるとの分子生物学分野の意見が出ています。という状況で世界は移住史の最後の謎に取り組んでいます。日本も積極参加し、北海道の当時の状況、考えられるルートに係る状況についての解明努力が必要で、膨大なアイヌ予算から充当して協同研究などにより世界学界に貢献しましょう。子供に教えて研究進展に期待し、世界に旧石器時代・日本祖代の北海道関連を発信しましょう。

青森で最古級の土器(縄文でない)が出た16,500年以前を旧石器時代・日本祖代とするので、アメリカ大陸分は扱っていません、がいい訳なんでしょう。

しかし、そもそもかつては、縄文時代とは概ね日本列島に縄文土器がいきわたり、定住生活や弓矢の使用や明らかに先代と暮らしぶりがはっきり変わった13,000年前頃からで、約1万年間と言われていました。今では15,000年頃説、そして最近増えて来た16,500年説ですが、青森にしかない縄文もない土器が登場した時をもって縄文時代の始まりには違和感がありましたが、仮にアメリカ新大陸との関りを排除するためであれば、世界を観ないその姑息さは許されません。世界移住史最後の謎の「最初のアメリカ人」問題は、無氷回廊定説が覆って17,000年以前に「米臨海」沿岸ルートから進入説が主流となってます(関係米学者7割)。

青森~アンカレジ沿岸ルートも浮上、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、注目です。学界は、縄文時代の始まり、世界の「最初のアメリカ人」問題を議論しよう、子供に教え世界に発信しよう。

世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人」については、右図の「米臨海」沿岸からフネで1.7万年以前にという事で、青森~アンカレジの「昆布ハイウェイ」沿いが注目されてきており、特に図中央、北部千島の海の民”祖・縄文人”系の痕跡に、その探求課題が浮上して来ています。

ところがなんと、100年以上も前の考古人類学の始まり時代に、日本人類学の祖、東大の坪井正五郎教授が、図左千島列島人に注目すべし、①アイヌとの関連、②石器時代人(祖代、縄文時代は分かってはいなかった)との関係、そしてアジアとともに、③北米の人々の由来を考え究めるうえで必要と指摘し、正に現代を驚きの先取りしている先進性です。では、千島列島の調査研究はその後もなされてはいるのに何故、今日まで教授の先進の認識が生かされていないのかは、A.折角、当時も現地研究がなされたが、当時のレベルの判断で坪井教授の認識を否定してしまい、また、教授が亡くなられて反論の機会もなく立ち消えてしまった。B.特に、世界的にも③アメリカとの関係では、シベリア・マンモス狩猟族がベーリング地峡を越えて入ったとする移住の旧定説が根強く、注目されなかった。C.学界が千島アイヌ、あるいは北千島アイヌと呼んでしまい、鎌倉時代から北海道に入って来たアイヌと同一視する矮小化の問題を生じてしまった。ことなどにより休眠してしまいました。

坪井教授は、当時得られた聞き取りや現地研究、文献諸資料から、「アイヌとは違う」人々という今では重要な問題意識を有して注目しましたが、結局その後の研究においては、(北)千島アイヌとして矮小化され、アメリカとの関連に着目する研究は無い状況になってしまっています。実は明治の千島・樺太交換条約で、日本政府は国境の外国密猟者による襲撃の危険もある”北部千島人”を説得し、明治17年(1884年)に南の色丹に移住させ生活基盤を与えましたが、結果として病人が発生したり大きな生活変化に適応できず、97人の過半が亡くなり、生まれた子供を加えて62人に減少、その後混血もあり道民の中などに融け、昭和16年には今から思えば学術的に重要な北からの移住者がいなくなってしまいました(千島列島を巡る日本とロシア:秋月俊幸)。

色丹で生まれた子も年月が経ち、今では亡くなっていることでしょう(DNA調査を追ってほしい!)。残念ですが、この新たな光が当たる千島列島人、特に海の民「祖・縄文人」系の「北部千島人」は、これまで行われた種々の研究をそういう目で見直し、隣国史と比較検討することが求められています。世界が求める課題の重要研究に、近頃の膨大なアイヌ予算から世界課題の国際協同研究 に充当しましよう。子供に教え世界に発信し、誤解も正しましょう。

図右上17,000年以前に”米臨海”沿岸から昆布ハイウェイをアラスカ・アンカレジの方へフネで入って行きました。この沿岸ルートで浮上している青森~アンカレジのルートを検討します。

左下青森から3万数千年前に海峡を越えて北海道に渡り拡がった祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、千島列島方向と樺太方向に北上を続けた事でしょう。A-1千島列島ルートとA-2オホーツク沿岸ルートは、やがてカムチャッカ半島南端か根元の肩口沿岸で合流します。図中央コマンドル諸島からアリュウシャン西端までは約420kmで、当時渡るのはムリ(列島最古遺跡も8,400年前で新しく、東方から)でしたでしょう。地域で注目の①カムチャッカ半島Ushki遺跡は、13,000年前頃、“米臨海”側の湖畔で、墓が道南の津軽海峡に面する知内町遺跡(2万年前)との類似が言われ興味深く、石器はアラスカと共通性が言われています。

次に②高度の海の民のアレウト族で、その遠洋操舟行動力は沿岸行動に留まるイヌイット・エスキモー族と違って技量は群を抜き、近世にやって来たロシア人を驚かせ、猟に活用するために北千島・カムチャッカに連れて来られたりしました。そして、それらと北海道の間で注目されるのが③北部千島の海の民“祖・縄文人”系の人々で、「北千島アイヌ」と称しているのは誤解の元であり、ユーラシア内陸を原郷とし鎌倉時代頃に登場するアイヌは有ったとしてもずっと遅れて来た上書きです。礼文島縄文女性(約4,000年前)同様に島に残された大昔の痕跡です。千島列島は、難所もある北の海、島間80km漕舟することも必要な「数百里の千島列島を昔から自由に行き来して来た」と豪語する海の民はアレウト族並みで、祖・縄文人の残された痕跡を感じさせるものです。堅穴住居に住み、土器石器・骨鏃矢を使い、北海道の人々と言葉を交わすことなくモノを置いてやり取りする「沈黙交易」をすることなどもアイヌとは別種の大昔からの祖・縄文人系を思わせ、言葉も人も今はもう融け消えて追えませんが「北千島アイヌ」と呼ぶのは誤解と考えます。

残念なのは明治時代に鳥居龍蔵が、せっかく北千島に調査に行きましたが「そういう種族の話もない」と否定したのが全く逆でした。現に、元島民で調査の助手を努めた者は、アイヌから「小人」と悪口を言われているのは気付いていて怒っていますし、島にいた人が 自分たちへの悪口噂を 知る訳も無くて不思議ありません。石器時代そのままともいえる品々も見ています。まして、21世紀のこれまでに分かった考古学の知見は当時は想像もできませんでした。そのまま今も 放置されているのが問題です。江戸の昔から幾つか関連資料もある 「北部千島の祖・縄文人系」の解明こそ、日本が世界の学界に果たすべき研究発掘の重点でしょう。膨大なアイヌ予算の充当を。子供に教え世界に発信を。

日本列島と米新大陸太平洋岸の先史の関連は、始まり時代から数十mの海面上昇により発見は困難ですが、学者が注目する「類似性」が興味深いです。

近年DNA分析が注目されますが、例えば日系○世がDNAも見た目も日本人的だとしても、寿司よりハンバーガーの方が、演歌は分からずジャズが好きで、何より日本語が出来なければもはや日本人とは言えず、伝統文化、言葉が重要です。図右下①松本博士は、言語の基本的な要素でユーラシア内陸部の人々と異なる、環太平洋の人々にRとLの違いが苦手などの共通性があることを見出し、更に、米大陸西沿岸から入り南下して行った太平洋側の人々と内陸の氷床が融けた後に、無氷回廊を南下して大西洋側に拡がった人々の違いにも着目されました。②近年、最初のアメリカ人は沿岸からという事で、北部九州に渡海して日本祖人 Proto-Japanese が、 始まった、伊豆の海を黒耀石を求めて行き来していた、沖縄へ、狭いが津軽海峡を越えて北海道に拡がった、という「海の民性」は注目され、仙台くらいにまでオットセイなどが居た海辺の暮らしでした。

向こうではアリューシャン列島アレウト族の小舟を操作する技量、造る技術の高度なことはロシア人をびっくりさせていますし、カナダの沿岸の部族には海辺の漁撈と採集だけで生活し、裏の森の動物の狩猟には関心を示さない正に「海辺の民」もいます。例えば、③北海道函館西方の2万年前の知内遺跡とカムチャッカ半島ウシュキ遺跡(縄文草創)の墓の副葬品などに類似性があることが指摘されています。そして、④台形石器が北海道南部から鹿児島まで類似性があり、帯広と北陸、ウシュキ~チュコト~アラスカ、遠軽白滝とクーパーズ・フェリーの遺跡の石器の類似性を言う学者がいます。改めて、日米露加の先史の各種分野を総合的に共同研究するプロジェクトが期待されます。こんな事を子供に教え世界に発信しましょう。

米オレゴン州立大が、左図北米に、内陸の氷床に開いた赤い線の「無氷回廊」を
シベリア狩猟族が 入って行く頃、いやその前の時代の遺跡が南北アメリカ新大陸で発見されてきたことなどから、それまでの定説はNO、青い線の沿岸ルート説をYESとしました。

そして、では具体的に誰が、何処からを考察し、右図の青い細線ようにKamishirataki上白滝・日本一の黒耀石原産地~オホーツク海沿岸~カムチャッカ半島沿岸~ベーリング地峡沿岸~太平洋西岸(南北米)のルートを挙げ、
“ コロンビア分岐点 ” から左折して川を遡行した北米最古級のクーパーズ・フェリー遺跡を例示(石器が遠軽白滝出土品と類似性ありと認識)しています。

そして、そうなると最初にやって来た人々は海の民かと問いを発し、暗にシベリア人観に疑問を呈しています。 是非、日本祖人Proto-Japanese は①北部九州へ約4万年前に家族で3~40kmの海を越えた民、②黒耀石を求めて十数Km以上の伊豆の海を行き来した民、③狭くなっていたが津軽海峡を越えた民である事などを分かってほしいです。これらの事は、 日本祖代研究会が、更に東南アジア・スンダランドSundaland~太平洋西岸地域を北上~北部九州から日本列島~千島列島を加えた環太平洋移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説と軌を一にするものです。

問題は、世界にこのような議論があること自体を生徒・学生が教えられていないことで、「日本人はどこから」を右下第3図の北・西・南の3方向渡来の内籠りで説明しているために列島から出て行く発想が全く無い欠陥なのです。

世界のオリンピック年です、子供に教え、世界に発信を、そして始まり「北海道の祖代史」を、正に”先住”の祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoを世界の議論に参加させましょう。

前回の出アフリカと南方原郷から、左第1図南方から台湾山地東岸、そして北部九州の北まで小島の多い生物多様な当時の北東ア平野の東沿岸の緯度変化を北上して慣らし、約4万年前に多くの家族が渡海して来ました。http://www.sunda-wind.net/news/9262 

その後、曙海を 時計回りに南下して沖縄へ、太平洋・日本海の両側、瀬戸内から拡がり、関東甲信越の賑わいを経て、狭かった津軽海峡を越え、3万年前には北海道の寒気と雪に適応した始まり時代の日本列島北上史です。右上第2図は、関連する米国の「最初のアメリカ人」議論で、オホーツク沿岸からベーリング地峡で足止めの滞留しDNA変化を生起させた後、北極愛の冷水が流れ込まなくなっていた米臨海の昆布ハイウェイ沿岸から、これまで発掘された南北アメリカの遺跡の年代から1.7万年以前に入って来たというものです。実は、以前はマンモスを追ってシベリアBから内陸を歩いてと言われてましたが、東シベリア内陸は冬季―60度で現代も死者が出ています。で、オホーツク沿岸となれば北海道発のA系でA’ であり(B’でも)、シベリア・アムール川沿いからと北海道・樺太からの2方向からとなって、北海道が重要ルートに急浮上しています。

ところが右下第3図、博物館や巷間本等では、日本の始まりは北・西・南の3方向からとされ北海道から出ない図が認識されており、北上して「最初のアメリカ人」議論に参加することがないという大問題があるのです。3方向図は、始まり時代はそこへ至る足跡が無い、あるいは足跡は沿岸から河川を遡行して上流地域につけた可能性があるのです。いずれにしろ、プーチンもいないのに、北上しなかった事由は有りませんから、特に、米国で北太平洋の昆布ハイウェイの沿岸ルートが主流になった今、議論に参加せねばなりませんし、鎌倉時代からのアイヌが“先住民族”という大誤解も正さねばなりません。それにしても北海道のアメリカ関連を含めた先史の研究と遺跡の保護状況は、抜本的に改善せねばなりません。子供に教え、世界に発信を。

明治時代に人類学が確立してから、先人は標題について、おそらく南方が原郷で、遠い3~4千年前のこと、大森貝塚人はアイヌと違う古い人たちだとか、北海道に背の小さいコロボックルが居てアイヌにいじめられて千島の方に逃げたとか、研究と活発な論議をしていました。さすがに、現在の世界の全ての人がアフリカ発の親戚にはびっくりでしょう。しかも日本に来たのはゼロ一つ古い遠い昔でした。しかしモンゴルの方や東南アジアまでを実際に回った研究者たちの知見を合わせてまずまずの認識であったと言えますし、実は、アイヌに追われて逃げたというコロボックルも、 今は 始まり史に十分に意味が出て来ていると考えています。

その南方について、第1図は、朋友のDhaniが、スンダランド地域で近年明らかになった旧石器遺跡を、数字年代を添えて地域の基本となる21,000年前頃の地形に整理したもので納得です。右側に日本での祖人の拡がりを付記しました。出アフリカ後に同緯度地域を東進したスンダランド、そしてさらに東進後に渡海して南下した豪州入りの早かったことは、世界の学者の等しく認めるところです。海辺のマングローブや海浜、熱帯雨林と草地の暮らしで黒褐色に変異したでしょう。縄文人よりはっきり古い骨格の沖縄港川人は、近い中国大陸の古い現生人類と思われる人骨よりもインドネシア・ワジャック人に似ていることも南方原郷を支持します。さて、太古からの東アジアの人を認識するのに、1775年、(独)ヨハン・ブルーメンバッハの区分である黄色系モンゴリアを今も使用しているのが誤解の元です。時間的に新・旧、空間的に北・南モンゴロイドと言っているのが問題です(欧州学者にはそれだけジンギスカン・マルコポーロ東方見聞録のインパクトが強かった)。

第2図 ①~④のこの見にくさが、正に原郷の分かり難さを象徴しています。始まりの①黒褐色の祖先“インマレイド“(当時のアンダマン諸島~ニューギニア地域の人の仮称)が、第2図北上して①’内陸インマレイドと日本列島の①”沿岸インマレイドの大きく2変異が生じたでしょう。①’内陸人については、ヒマラヤ山脈があり、その南山脚を東進し内陸を北上するルートのように遺跡が残っていますが、ヒマラヤ東方高地の険しい地形・気候や猛獣・蛇・害虫などの厳しさを考えれば、それぞれ沿岸から河川を遡行して川上地域に残した遺跡とも考えられます。さて、出アフリカの後、北上し中央アジア、シベリアを東進した②シベリア人も西方から加わります。そして、2万年前~数千年前に厳しい寒気と降雪の環境に身体そのものが適応して変異した3Mの正に「モンゴロイド」が登場します。此処で、大陸内部で①‘、②、3Mの3者が多様に混じり合いますが、④とします。この④が時代を異にし、南下東進して特に内陸に大きな影響を及ぼしたのがアジア人類史の概観なのです。

つまり、始まりの北上①系の上に複雑混合した④が時代と規模を異に各地で各様に“上書きされている”ので、分かり難いのです。但し、①‘、②、3Mが個々に入って来たのではなく、その既に混合した④が東南アジアや日本などに来たのです。それでも日本は島国でしたし、東南アジア特にその陸地部とは上書きの程度が違い、また、大きな民族の流入といったこともなかったようです。マンモスハンターの、稲作渡来民族の、騎馬民族の流入はなかったとみられます。日本各地に中華、韓国焼肉、スタバ、マクドなどが溢れていますが隣国、欧米人の流入数は多くなく、五月雨渡来です。そして、北海道・遠軽白滝や九州・ 腰岳 の黒耀石が、周辺の大陸のかなり入った所で発見されていることは、彼らが来るだけでなく、祖人が、北海道や九州から外に出て行った可能性も示しています。

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今までの日本学界はこのことを意識していませんでしたが、上図左シベリアB(②+④)だけでなく日本列島A(①“+④)の祖人が、もしかしたら④が加わる以前にもベーリング地峡沿岸を越えて入って行った「最初のアメリカ人先住民」の候補という訳です。

次回は、何故分かり難くなっているかの原因でもある原郷の激動を紹介します。

花を編んで作った綱=花綵(はなづな)のような弧状をしている列島に、私達の直接の祖先である世界現生人類の移住の歴史の歩みが拡がって行きました。南方から海水面が低下して出来ていた「北東ア平野」沿岸を北上して来た、①海辺の民が約4万年前に北部九州に多くの家族がフネで渡海して、列島に拡がりました。

②列島の中央部は広大な関東平野が広がって、象や大鹿、馬、野牛ほか種々の動物がおり、海辺には魚介類もありました。当時は対馬暖流が日本海に流れ込んでいなかったので大雪が降ることのない日本海側も同様の環境で、太平洋側と移住の歩みに差がなく北上していたことでしょう。更に、当時の狩猟・採集生活上の道具となる宝物の黒耀石が、長野八ヶ岳地域に豊富にあり、箱根山麓や伊豆の海を渡った神津島にも良質な物があり世界史に残る海を行き来した最古の航海活動(3.8万年前~:神津島の黒耀石の蛍光X線による原産地同定)をしており、アメリカ先住民のような環状のキャンプ痕跡(栃木)、1mを超える大きさ深さの多数の陥し穴遺跡(静岡・神奈川)など、今の賑わいを感じさせる暮らし振りがありました。

③伊豆の海を行き来した祖人Proto-Japaneseには、狭くなっていた津軽海峡は問題ではなく、また、仙台くらいまでオットセイなどの海獣が南下していましたので、青森までの経験の基盤で一段違う寒気と雪の北海道の暮らしですが、3万年前には適応して(北海道立民族博物館)いました。一方、南西諸島方面では、「曙海」東岸沿いを沖縄の方に南下しましたが、石垣島で2.8万年前の人骨が、そして何よりも宮古島で1万年前の土器のある暮らしが発見されましたが、台湾やフィリッピンの土器はずっと新しく、せいぜい6.5~5千年前ですから、200kmを超える慶良間ギャップをフネで家族が渡って行ったと考えられる驚きです。むしろこちらの土器が向こうに渡って行って伝えられたのではないかとも思われるくらいなのです。

このように列島に拡がった祖人は、⑤千島列島が次々に島が見えていましたし、「昆布ハイウェイ」の同様の豊富な食の環境でしたからプーチンもいませんでしたし、北上を続けて「米臨海」沿岸から「最初のアメリカ人」Nativesに関わっただろうと考えられます。

当時のベーリング地峡が、北極海の冷水の流れ込みをStopしていましたので、正にハワイに繋がる海辺でした。⑥さて現在の北海道史は全て、当時は陸続きだった沿海州・樺太の方からマンモスを追って北海道に人が入って来たことを最初のことのように書いていますが、出アフリカの現生人類の歩みルートの遺跡を考えれば、これは正すべき誤りで、遺跡が示す最初は3万数千年前には暮らしがあった青森からの北上です。

更によく見れば、北方の沿海州・樺太地域に2万年前という遺跡は見つからず、最初の北方からの痕跡は氷河期が終わっていった1.8万年前頃、消えたマンモスではなく中・小型動物の狩猟用の細石器文化が始まりなのです。無論、シベリアやアメリカ新大陸のように、狩りで傷ついたマンモスの骨やマンモスの骨と使っていた石器などが共伴して見つかるということも全くありません。北方からの痕跡は、かつて大昔に北海道にマンモスはいたが、沿海州の方からマンモスハンターは来なかったというのが現在の現生人類の遺跡・遺物の示すところです。このように、誤りを推測で記述する一方で、南方から拡がった歩みははっきりしないとして、世界史上の金メダリストを原始人扱いの僅かの記述で済ませているのが現在の教科書の大問題で、子供に世界に誤解を与えています。オリンピックの機会に、正してはっきり発信しましょう。世界現生人類移住史における環太平洋ルートの比較的よく分かっている基準(約4万年~3万年前)とすべき重要な区間ですから。なお、少しくどいくらいに「現生人類」を強調していますが、欧米学者は、旧人のネアンデルタール・デニソワ人に関心が高く、特に現生人類も数%以下のDNAに残る交合痕跡の発見で、全く無関係ではありません。

デニソワ人: うるめしま

日本列島で旧人の、いやその前の原人の痕跡すら見つかるかも知れませんが、そもそも旧人はサルと我々の中間に位置する思いのほか離れた違う生物ですので、仮に見つかっても異常な騒ぎは無用と釘を刺したい事情が あります。それほど今回の直接祖先を探る検討は 、実は 重いのです。

始まりの日本列島の生活文化は、学者先生がことさらに違いを強調しますが、南北に長い緯度差の大きい列島であるにも拘わらず、地域色は有るものの一体性あることが特徴で、世界を見れば驚くほど解明されています。

一体性の大きな理由は、そもそも北部九州に渡って来た人々の南下、北上による繋がりのためですが、① 中央部の広い関東平野、日本海側に大雪が降っていなかった事、そして当時の宝物である黒耀石が豊富であったなどのラッキーにより、現代と同様に中央部の関東・甲信越が連接された賑わいを見せていたことでしょう。この事によって、北海道の帯広・遠軽白滝の方から沖縄の宮古・石垣島の方まで神経が行き届いていたような比較的一体性ある暮らしぶりです。長く北海道に土器が見つからず本州との歴史の歩みの違いが言われていましたが、②帯広1.4万年前の縄文期土器、しかも道南型が見つかったこと (秋道智彌) により、青森の世界最古級土器文化が津軽海峡を越えてはっきり「北上」して伝わっており、また、肉・魚食と特に植物食を煮炊きしていたことが注目されます。

他方、南方では、③種子島で は、煮て肉蛋白とドングリのアク抜きで渋味苦味を軽減すべく調理していたとみられ(工藤雄一郎)、④遂に宮古島で1万年前の土器が発見され(琉球大学)、列島文化の一体性が窺がわれます。しかも、台湾・フィリピンの土器はせいぜい6500~5000年前程度の全く新しいものですから、九州から沖縄本島に南下して更に200kmを超える慶良間ギャップをフネで越えて文化が伝わっています。この事は、2.8万年前からの石垣島人もおそらく約4万年前の北部九州から沖縄本島を南下し慶良間ギャップをフネで越えて先島に渡って行き、アルカリ土壌で幸いにも残ったものという可能性が高まりました。更に、活発だった縄文人が、これまでの仮説と真逆に台湾などに土器を伝えた可能性すら考えられる(琉球大学)のです。それは、これほど早くから土器が広まったことが、動植物(海産物を含む)を共に食した生活文化の祖人・縄文人の特徴と考えられるからです。

さて最後に、⑤このように繋がりがあった列島の祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoの帯広~遠軽白滝の基盤と食が豊かな昆布ハイウェイ、千島列島の島々が次々に見えていたことから、ベーリング地峡・米臨海沿岸を登山して、向こうに下山したように入って行った「最初のアメリカ人」Natives関りの可能性が出てきます。当時は、北極海の冷水が地峡で止められ、米臨海はハワイに繋がる海でした。

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なぜか学校はこれらのことを全く教えませんが、子供に、オリンピックを観る世界の人に知らせましょう。無論、鎌倉時代からのアイヌが先住民族などの誤解も正しましょう。

北海道の始まり史は、周辺地域での石器等の状況から、青森を基礎として海水面数10m低下で狭くなっていた津軽海峡越えの北上です。昆布ハイウェイが十勝に導き、北方領土を廻って日本一の黒耀石産地の遠軽白滝へと拡がりました。

樺太や沿海州アムール川沿いに2万年以前の氷河期最寒期LGM時代の 現生人類の 痕跡発見は有りませんので、まず青森北上の始まり時代を認識です。北からの北海道への確認されている第1波は、1.8万年前頃からの細石器文化を有した人たち(出戻り含む)です。その頃は氷河期が終わり、温暖化でマンモスの餌の草地が変わり、マンモスは消えて鹿などの中型・小型動物を狩猟する小さな細石器使用の時代となっています。そして時を経て世界最古級の土器を有する青森から帯広にも土器が伝わりました。祖代、縄文時代と本州からの流れ(3~1.3万年前)の一方で、1.8万年前頃、北から細石器文化が伝わった訳です。これまで北海道の始まりは、マンモスハンターがマンモスを追って南下し、アムール河口~樺太と陸続きの道北から入って来たと言う説明でしたが、

①青森からの北上が始まりである、②他国の例にみられる、マンモス骨等に石器傷痕がない、マンモス骨と人が扱う石器が同じ場所から出ていない、③北からの人か文化が来た痕跡は、温暖化でマンモスが消えた1.8万年前頃、しかもマンモス用でない細石器文化である、ことなどから北海道史始まりのこれまでの根本に疑問を呈するマンモスについての標題となります。まずこの始まり時代を認識し、右図表の第2の波オホーツク、第4の波アイヌなどを理解する必要があります。大陸の狩猟族や出戻り人、棲み分け、混血、追いやり、争い、いろいろあったでしょうが、民族の入れ替わりやゲルマン民族大移動のようなことはなかったというのが現在の認識です。因みに時代は下りますが九州の方に騎馬民族は来なかったと言われています。
そして、祖人北海道Proto-Japanese Hokkaidoが、次々に島が見えていた千島列島から北上を続けてベーリング地峡へ登山し下山したかのような沿岸の行動で、「最初のアメリカ人」Nativesに関わったのかが、今世界の注目なのです。

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誤解の多い北海道史、子供に世界に最新認識を発信しましょう。

約4万年前からの日本列島史は、1万件を超える旧石器遺跡の分析などにより、実は世界がうらやむ驚きの解明度合いですが、学校は殆ど教えてくれません。北部九州に家族がフネで渡海して来て、南下し沖縄へ、北上して図左の中央部の賑わいを見せました。

注目は当時の宝物の黒耀石です。なんと世界が驚く伊豆の海の行き来を3.8万年前から行っており、 良質豊富な八ヶ岳地区や箱根山麓の物などがあり、祖人小グループが遊動狩猟する、米国先住民インディアンのように環状でキャンプしたり、1mを超える陥し穴を数十も作って動物猟をする社会性を示すなど、関東甲信越は正に現代を思わせる当時の賑わいでした。野尻湖の動物キルサイトのような遺跡など、まだまだ今後の発掘による解明が期待されます。 そして図右、 狭くなっていた津軽海峡を越えて道央・道東、北方領土、道北へと沿岸を主に拡がりました。

雪と寒気の北海道に住み着いたのも昆布ハイウェイの海獣・魚介の食の豊かさとやはり遠軽白滝の日本一の黒耀石の魅力があった事も影響していた事でしょう。北海道は、少なくとも3万年前以後(道立民族博物館)青森から海峡を越えて適応を果たし、最古の石器も土器も道東の十勝地区で発見されているように、本土同様の歴史が広い地域で始まっていました。道民博は、北から1.8万年前以降、細石器の第1初の文化の波を把握していますので、3~1.8万年前頃のそれまでの1万年強の間は、本州から北上した祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoの歴史が刻まれ、その間に、千島列島は食豊かで次々に島が見えたし、「米臨海」沿岸からアメリカ新大陸に入って行った、あるいはそれに関わったかと今、世界の注目です。それは、「最初のアメリカ人」Nativesは、それまでのマンモスを追ってシベリアから内陸の無氷回廊ルートBb1を通って説ではなく、北太平洋西岸ルートACからフネで1.7万年以前に入って来たということが、近年の主流説になっているからです。そして、北海道の細石器以前の素朴な第1世代石器と第2世代細石器、北米も最古の素朴な第1世代石器と洗練された第2世代クロービス石器(1.4万年前~)と言う石器歴史の歩みの類似性があるのです。

北海道史の更なる深化と北米関連の解明が、期待されているのです。子供に教え世界に発信し、世界現生人類史の最後の謎の解明に、日・米・加・露の平和共同研究を提唱しましょう。

第1図、日本列島史の始まり祖代(約4万年前、北部九州~)の世界考古学史上の金メダル、古さで日本特有の磨製石器が、なんと3千円足らずでネットオークションに売りに出されている大恥です、年表を見てください。しかも今、その時代の祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、沿岸からフネでやって来たという「最初のアメリカ人」Nativesとの関りが注目なのです。

つまり、3万年前からの北海道人が、下図のように食豊かなKelp昆布 Highwayを千島列島、ベーリング海 へ北上を続けて、 沿岸からの現生人類の初渡米 問題 への関り(ベーリングに向かい ”登山”し、カナダ・アメリカ沿岸を”下山”) の可能性 で、注目されているのです。

それでは貴重な石器が軽々しく売られているのはなぜかと言うと、 下第2図、「北海道の旧石器(祖代)からオホーツク文化まで」と銘打たれた権威ある展示会が、パンフの中心はオホーツク文化遺物であり、「北からの文化の波」と言う紹介が、南方から北部九州に家族がフネで渡海し、その後の長い間の北上列島史と異なっていて誤解を生む羊頭狗肉のものなのです。

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パンフも3万年前からとする道史で、北海道中部以南から関連する北部東北・青森の遺跡紹介はたった1ケ所という異常さですし、3万年前から1.8万年前の第1の北の文化の波とする時代までの1万年間以上の歴史は無いようですから、祖代の金メダルも気にならないのでしょうか、驚きです。第1図年表の一部に過ぎない「北からのオホーツク 文化の波」を過剰に強調するのも誤解を生む印象操作です。下図のように、祖先の日本列島史は、南方から北部九州に渡海し、北上して関東甲信越で賑わいを見せ、狭くなった津軽海峡を越えて3万年前には雪と寒気の北海道暮らしに適応していたのです。そして、プーチンもいませんから食豊かな昆布ハイウェイの北上を続け、最初のアメリカ人に関っただろうと言う事です。

因みに 下図年表のように 、オホ-ツク文化同様にアイヌも鎌倉時代から和人と共存しているのを”先住民族”とドサクサの決議で誤解を与えてますので、父祖の地の歴史は全く問題だらけです。

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正しく子供に教え世界に発信し、アイヌ・ウポポイの膨大な予算を、真実の北海道史の研究及び遺跡と遺物の保護に充てましょう。

(参考)  

Mituaki Matoba

4月発売予定の『現代語で読む〝蝦夷島奇観〟』の最終校正も終わり、表紙も決定しました。今回は〝蝦夷島奇観〟から50項目を選んで紹介しました。江戸の古文献からもアイヌが先住民族ではない証拠がたくさん出てきます。 現在『続・現代語で読む〝蝦夷島奇観〟』を書いています。こちらは残り53項目を現代語で紹介します。解説や考察のために新たに読んだ文献からの発見も多く紹介したいと思います。

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