渡米が数千年遡り、最寒期LGMの発見は極寒の東部シベリア~ベリンジア行動に疑念が。1.4万年頃からの無氷回廊は未だ開いていないので沿岸進入に、そして北米から南米へ急行1,000年南下の定説が崩れ、8,000年を要したのならば、それ以前からの普通のペースだった。

するとアジア出発は3万年前と言う数字に(寒さもやや緩和期)。米2学者が発表していた北海道出発ルート仮説は「マンモスを追った」定説ではないが注目され、「昆布ハイウェイ」やベリンジア南岸は小島が連なる「ベルトコンベア」の様な「一時的な列島」状態だったと沿岸進入説を補強する研究も登場。さて、シベリアの狩猟族はまあ分かっていますが、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoはどうだったのか? 縄文前の初代、約4万年前からの始まりの(日本)祖代は、夜に灯りをともしたとすると結構今と似ていました(近畿・東海は少)。何よりも「曙海」沿岸から多くの家族が渡海して来た民であり、造舟・海洋漕舟能力等を有する祖先は、原始人と言うべきではないでしょう。従って、3.8万年前には伊豆の海を当時の宝物の黒耀石を求めて島へ行き来し(世界考古学史上の金メダル)広域で交易していたのも驚きではなく、オットセイが仙台で見られたように(北海道には慣れ易かった)、渡来から渡米(「昆布ハイウェイ」)までまあ食に恵まれていたルートと言えます。いずれにしても、これまでの定説は大きく揺らぎ、日本の祖代の様子は知られておらず(要発信・研究)、足跡衝撃にコメント出来ずに新たな定説の構築へ向かう「行く年来る年」です。ともかく現状の沈黙しているのはダメで、世界に発信、子供・学生に教えて将来に期待、国際共同研究の主導を、です。

ニューメキシコにおける驚きの2.3万年前の足跡発見後、とりあえずの解説コメントを期待して注目して来ましたが、9月の発見から今に至るまで、出ていないのが異常です。


結論的にA、1つは北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoの登場であり、2つ目は足跡時代の最寒期(LGM)に東部シベリアでの行動は難しく、その前とすると3万年前という数字が出ますが、シベリアのしっかり遺跡はバイカル湖地域の2万数千年前ですから、軽々に解説コメントをできないのでしょう。 そして更に厄介なのは、実はDNA問題です。Aを考えると東部シベリア族、北海道祖人共に、B現在のアメリカ先住民のDNAとは合いません。普通に考えれば現代の米先住民祖先は、沿岸からではなく遅れた2波目②、3波目の内陸無氷回廊から進入した影響力の強い狩猟族と考えられ、2波目は厳密にはFirstアメリカンかの嫌味が、それでなくとも根強い「先住民アメリカ発生」神話主張があるので、学者に遠慮があるのかもしれません。しかし事は北海道祖史・日本史に関わるものでもあり、日本は科学研究を主導すべきです。

世界の賑やかな議論が聞こえて来ています。

「沿岸ルートの昆布ハイウェイは、ホントに食に恵まれていたわね」、「ニューメキシコの23000年前の足跡は本物だな、驚きの7千年の遡りだぜ、沿岸から内陸へ入って行ったんだな」、「そんな厳寒の時代にシベリアなんか行動できたのか、最寒期だぜ。その前となると3万越えかあ。アフリカから東部シベリアまで来れてたのかね、無論、アラスカも含めその辺の遺跡1.5万前越えは何もないしな。まあ、バイカル湖2.4万ってとこだし(RHS3.2万は一時的―東大 海部教授)なあ。最近、急に古くなってるヘンな話も出て来てるがどうもね」、「そんな大昔の事となると、今手に入ってるDNAじゃ、もう、探るのはムリかもな。パラダイムの転換だね」、「氷の見える景色の所を入って行ったのね」、「伊豆の海を3.8万年前に行き来してたんで、北海道北上のルートを提唱するよ。シベリアから行けたんだったら、北海道から北上して行ったのを否定する要因は無いしな。旧石器遺跡はダントツ(701件)だし、何しろ、厳寒期でもハワイに繋がる海沿いだからね」、「実は温暖化でも昆布ハイウェイは凄く痛められているのよ、何とかしてほしいわ」。「お~い、その頃の日本の方はどうなってた?」。日本の子供・学生は、ポカンとしてるだけでなく、重要な日本の始まりも北海道祖史も実は何故かよく教わっておらず、答えられないのです。2022、いい初夢を見たいものです。

Shocking discovery 2021 of 23,000 BP-LGM Footprints in New Mexico changed paradigm on the migration theory. And the ancient migration from North to South America wasn’t “Express”, but normal. So, it may indicate that the duration was comparatively long period from Asia to America.

厳寒期のニューメキシコにおける アメリカ史が数千年遡る 足跡発見で、①欧米学者がなんとなくイメージを持っているシベリア狩猟族が、そんな時代に東部シベリアを移住できたのか? それより以前の寒冷緩和期ならば、現生人類がアフリカからそこへ来れて(無論、遺跡は発見されていない)居たのか ? 

②無氷回廊は、この時代は全く開いてないので沿岸進入の近年定説を補強したが、仮に無氷回廊が開いていたずっと前があったとしていつ頃か? 実は大きな問題は、③定説では1000年くらいで北米から南米に急行で拡がったとされているが、白紙的にニューメキシコ~モンテ・ヴェルデは今回の発見で8,500年ということで、急行ではなく人類はゆっくり常識的に時間をかけて拡がったとなります。この事は、この年月を北に戻すと2.3+0.85、即ちまあ、3.2万年以前にアメリカに向けて出発したことになり、特に問題のない 遺跡 充実(旧石器遺跡701件で近隣に対し、圧倒的)の北海道が俄然注目され、今年は「日本祖代研究会-SGPJ」がかねて提唱していた北海道を北上する (ベリンジア) ルートを、はっきりアメリカの2学者がyoutubeで発表(アリューシャンも含め)しています。いずれにしても現生人類はアメリカ新大陸に、「3万年以前に向かい、2.3万年以前に沿岸から小舟でアメリカ新大陸に進入してきた。誰で・いつ?」という事でいろいろ模索となり、現代のDNA分析は万能ではないです。

それは大きくとらえれば、第1波は沿岸(2.3万年以前から)ルート、そして第2波が無氷回廊から(1.4万年頃以降)で、現代は第2波の影響が強いと思われますので。はっきり言って、この問題を教えない、発信しない、研究助成していない、日本学界は周回遅れです。日本史・北海道史を解明する重要問題です、国際共同研究の主導で挽回を。

米ニューメキシコの①23,000年前の子供などの足跡の発見は衝撃で、世界のディアが報じ、45を越えるyou-tube動画が出ましたが、不思議なことに何れも発見事実の内容を伝えただけで、その歴史的な意味に関する学者のコメントが付されていません。

それはそうです、そんな時代は最終氷期の最寒期(LGM)で、シベリア東部などは、現代でも2名が凍死することがある厳しい所で、人がマンモスを追って移住して来れたのか、ですから。実は、大きな衝撃は、それまでの定説である人類は北米から南米へ「1000年程度で駆け抜け、南端のフェゴ島に達した」が、あっさり崩れました。即ち、②”急行”ではなく8,500年かけて普通のペースで拡がった、スーパーマンではなかったという事です。その事は、ニューメキシコにやって来た方に逆に ユーラシア東部 にペースを戻せば、まあ、 32,000年前に移住し始めて来た事になります。という事は、そんな前だと、③未だ、内陸の寒冷・降雪・強風に適応して顔が平面化し、体形がずんぐりむっくりし目元に変化が、などと言われるような種々の身体変化を生じたモンゴロイド化(せいぜい1万数千年前との理解)を、していなかっただろうとなります。

コレが重要なんですが、欧米学者は出アフリカから東進し、インド洋の沿岸・熱帯雨林・草原の暮らしで変化した図下AインマレイドInmalaidを古モンゴロイドと呼んでいるので、事態が分からないのです。つまり、モンゴロイド化の起きていない時代という事は、出アフリカのネグロイドが寒さの北に向かったb人、一方、好スピードで東進のA人、これらが共に北上して行きましたが、両者とも多少の身体変化は生じたものの、「モンゴロイド」ではなかったという事なのです。そうすると、北に向かったインマレイドA人は、沿岸系A‘人と内陸系A“人、それに直路北ルートのb人が、ベリンジアに向かったことになり、今年初めて下図➃米国2学者が、北海道出発の仮説を発表し登場しました。

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日本列島史では、約4万年前に北東ア平野沿岸を南方から北上し、曙海を家族がフネで北部九州に渡海し、38,000年前には東京諸島へ黒耀石を求めて「伊豆海峡」を越えて採集して広域の交易を行い、3.5-3万年前には北海道に適応して701件の旧石器遺跡を残して、大陸と比較すると桁違いの暮らしの基盤が有りましたので、これまで説が出なかったことが異常でした。

そして、

下図⑤A’・A”・bが入って行ったのは、生じていただろうと発表された新説である米臨海の「一時的列島Temporary Archipelago」状況から、Kelp(昆布)Highway沿いであり(沿岸進入越)、人類史の普通のペースで南米に向かったという訳です。

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さて以前から、⑥アマゾンの古部族の万年前からのDNAが、何と何処でもない東南アジア地域のインマレイドに近いという、ハーバード医科大・院の発見で悩まされてきた史界(同様は他にもブラジルのラゴア・サンタで 1万年越えがあり)ですが、A’・A”・bの南下という事であればモンゴロイドは含まれておらず、有り得ることで少しほっとしていることでしょう。以上、こんな解説を誰もしない事由はあるのですが、全く異常な事です。はっきりしないことは言わないと散々言って仮説発表をためらう無謬主義の学界ですが、あっさり「急行南下」が否定された衝撃と北海道発の仮説まで外国から言われた年でした。そして、その後の万年の時を経て、⑦1.4万年前頃から開通した無氷回廊を、シベリア発の「モンゴロイド」が南下して来て、アメリカ史の大きな第2幕が開き、強い影響力でアメリカ大陸に拡がり、今に至っているという訳です。この第2幕以降をDNAだの何だのと得々と語っている人は、周回遅れなのです。

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なお、図下インマレイド環太平洋移住Inmalaid Migration along Pacific Ocean Rim仮説と、より鮮明にするためにインマレイドI(赤字)を先頭に追加します。そして正にこの事に符合する元日本言語学会長であった松本克己博士の「環太平洋語族論」に光りを、なのです。2021年、「最初のアメリカ人は、モンゴロイドではなかった」の意味が、世界史界に衝撃・悩み軽減の年という訳でした。子供・学生に教え、世界に列島史と北海道史を発信し、国際共同研究を推進し遺跡の保護等に努めましょう。

図右①米2学者発表の北海道発のアメリカ大平洋沿岸へから、②千島列島と北千島ルートン(第1アイヌから改称)と説明して来ましたが、図左、北千島ルートンが、カムチャッカ南端部に居た事は重要で、かつては更に北方の奥まで居たものの、強いイテリメン・カムチャダールに押されて南下して来たとも考えられるからです。

カムチャッカ半島では河川流域と沿岸部で竪穴住居に住み、肥えた頬が形質としてルートンに似ていると記述され、重要な信仰は、シベリア内陸系の全能の「神」ではなく、木に石に海に岬そのものに信仰の供物と「八百の神」であることは、日本列島民との共通性を感じさせます。また、神話のヤタガラスは、アメリカ北西部沿岸の先住民が大切にしており共通です。良く知られた中部のウシュキ遺跡も水辺の湖岸で、石器がアラスカの物と類似であり、一方、墓の副葬品が北海道の函館知内町の旧石器遺跡(2万年前)の物と類似と言われています。これらは、正に北海道とアラスカの中間に相応しい繋ぐ痕跡です。北海道発から千島列島、カムチャッカ、海岸チュクチ(入れ墨など)そしてアメリカ新大陸へと沿岸民のムリない移住ルートが想定されます。

世界史界の課題「最初のアメリカ人」First Americansに関し、従来の北米内陸の通路「無氷回廊」Ice Free Corridor からではなく、近年では北太平洋の昆布ハイウェイKelp Highwayの沿岸から進入したCoastal Migrationとする新たな説を踏まえ、米2学者が北海道発の千島列島ルート仮説(右図②)を発表(①から可能)しています。

この事は、青森から北上し3.5-3万年前に北海道の暮らしに適応して拡がった(北海道地域の旧石器遺跡状況が示す)北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが注目され、鳥居が北千島で調査した”遊動“海民である第1アイヌ(北千島から得撫までに”遊動“居住する人々を鳥居が命名)が、系統の子孫である(前回の海民性の入れ墨など)と考えられます。①彼らは、住む地名の基礎ルートンを種族名の自称に使用していたこと、②かつて北千島のみならず、カムチャッカ半島南端ロパートカ岬にもいましたし、さらには以北にも同系種族が居た事は歴史上重要であり、それらの人々を彼らの自称を尊重し、総括的に「ルートン」(英語表記は、このカタカナ発音からRouton)と呼称して千島ルートrouteの意も込め、また今日の史界の状況を踏まえて日本のみならず世界にある誤解も正すべく、日本祖代研究会は提案し使用しています。現下の状況で北海道史とベリンジア周辺地域の状況の解明は、近年のDNA分析や水中調査などを含めて重要であり、その状況を子供に教え世界に発信し国際共同研究や遺跡の保護に、積極主導的に取り組むことが必要です。

米臨海周辺の種族①の海民性の入れ墨は要注目です。

②最も近く先住の海岸チュクチ・オンキロンは入れてますが、内陸の蒙古系の同名チュクチは入れていません。渡って行った先のアメリカ北西海岸部のトリンギットやハイダ族などが入れているだけでなく、胸の入れ墨は北九州の海民である宗像ムナカタ族と同様です。③そこに向かう日本側の北千島ルートンは、祖先の頃からの入れ墨だと鳥居の調査に答えていますが、アイヌと戦い追われて北海道から逃げて行ったという伝承のコロボックルからアイヌは学んだと、違いがはっきりです。東北の縄文土偶にも見られ、その後の埴輪には写真のように広範囲に、文様は若干異なりますが風習があり、かつては列島中にあったのです。南島のハジチも痕跡を窺わせてますので。また、④ベーリング海峡の島のイヌイット・エスキモー、米臨海の南のアレウト族もはっきりです。

このように日本列島から米国北西海岸に至るまで、海民性の入れ墨の風習が、その進入を裏付けていると思われます。因みに、人類が着色を施した痕跡は、⑤海産物を食して頭がよくなったと言われる海岸地域の石器に残っています。流石に万年の昔の入れ墨は普通には残りませんが、アルプスの氷のお陰で残ったアイスマンの入れ墨は、他に見せるモノでなく体のツボに施した治療用とみられ南方の海民とは違いを見せています。最初のアメリカ人は「誰が何処から」で、沿岸から進入したと言われる新定説の海民の痕跡は、今は数十mの海面下ですが、入れ墨風習は、内陸民との違いを見せる痕跡と考えられます。

②最初のアメリカ人に関し北海道発という仮説が出ている時代に、現日本学界は、明治人の鳥居龍蔵の研究(南シナからシベリア、アリューシャンを視野)を越えていないだけでなく、子供に教えず世界に有益な発信していません。

明治32年に北千島を現地研究した鳥居は研究を続け、図左下よほど古い石器時代的な「第1アイヌ」(アイヌと称するべきではないですが)、北(樺太)から入って来てコロボックルに入れ墨を学んだ新しい「第2アイヌ」と区分して命名し、南方発の入れ墨の違いとカムチャッカにも出て行っていることにも注目しています。その先の北、図上チュクチでは、これも古い先住の海岸チュクチの石器時代的な暮らしの痕跡と入れ墨に着目し、名称は同じでも蒙古族的な内陸民との違いをしっかり説明しています。また、図下遠く離れたアレウト族についてもその石器時代的な暮らしと入れ墨の他、ロシア教会員によるエスキモー・イヌイットの支派観、カムチャッカ・千島・日本人との類似性の話は、坪井博士存命ならコロボックルに比定されるものと紹介(同意・否を示さず)しています。

アレウト族は遺跡からはアラスカの方から西進したものと思われます。図の333kmは、祖人の時代に家族ではとっても越えられなかったでしょう。なお、前回報告の春日部陸軍通訳官は、混血でない原民アレウトを日本人に酷似と報告を記述しています。鳥居龍蔵にとって、アフリカから全ての現生人類が発し、日本へは約4万年前頃に北部九州に渡海して来て北海道に北上し、その後に縄文時代になった内容などを聞けば腰を抜かす時代に、今に役立つ有益な研究成果を残していますが、戦後の日本学界の方は、人類史の課題である「最初のアメリカ人」に関する論説が、全く見られない周回遅れの状況です。鳥居研究の存在を子供に教え世界に発信し、第2アイヌ子孫に使われている膨大な予算を、国際共同研究に振り向けましょう。

図右①②で最初のアメリカ人に関し、米学者が北海道発ルートを挙げ、また千島ルートは有り得ないとする要因は確かに なく、北上し得たことを前回伝えました。米ハルドリチカ博士(ニューヨーク医科大)は、野外調査を主とする人類学者としてチベットからアラスカに至る人々の各種の骨格を研究し、最初のアメリカ人について、アジアからベーリング海峡を経由してアメリカ大陸に移住したことを唱えました。

1903年に国立博物館(現スミソニアン)の初代学芸員になり、人類学専門誌を発刊して1942年まで続け、スミソニアン博物館の初代館長に就任しています。そして、昭和8~13年頃、アジアに戦雲が見えだしていた時代に日本側が北千島調査(馬場脩、岡正雄など)に当たっていたことから、「渡米の経路として千島群島(ルート)が最も可能」の旨、人類学第1人者の金関丈夫博士に伝え関心を表明していますが、日米の学者の交流はその時代でもあった訳です。残念ながら、環境的にシベリアルートは厳しいと思われたのか、人骨の面から想定されたのか、博士が何故、千島ルートが最も可能と判断していたのか、練達の士の直感なのかは分かりません。当然、容易ではない発掘による実証です。発見された人骨が特に下アゴ形状など明らかにアイヌではないとして騒ぎにはなりましたが今後の研究とされ、最初のアメリカ人を実証する資料発見にはとても至りませんでした。明治9年の開拓官吏長谷部辰連、時任為基、明治11年御雇教師地震学者ジョン・ミルン、明治32年有名な鳥居龍蔵の調査、よく33年北海道庁の調査があり、戦前昭和の調査となっていますが、ハルドリチカ博士は状況を承知されていたのでしょう。

因みに鳥居龍蔵は、昭和14年、①北千島アイヌは、コロボックルの伝承はないが、土器・石器・竪穴住居について話を聞かせると、「我らの風俗と同じである」と答えたと言っています。②北千島人は「昔の先祖から入れ墨をしていた」と言うが、アイヌはコロボックルに教えてもらったといたるところに書いていて注意(目)をすべきと言っています。幅広く伝わるアイヌ伝承コロボックルは、ある意味で悪口なため当人たちが知らなくて当然と考えるべきで、そんな話は無いと言うのをコロボックルは存在しないとしたのは誤りだったかと修正していることが窺がえます。北のカムチャダール、南の蝦夷アイヌと戦った剽悍さを有する島から島へ行動する民としていて、まあ結論的に、南方北海道から北上した、熊祭りをせずユーカラ伝承も無い、昔の祖先から入れ墨(海民風習)していたよほど古い時代からのコロボックル的な北千島人(自称ルートン)を第1アイヌ、そして一方、アムール河人、ギリヤークの風習である熊祭りをし、北海道に北(樺太)の方からやって来た(現)第2アイヌと命名しています。

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また、先の大戦でアリユーシャン列島に通訳として赴き、撤収後にアレウト族に関し書き記した日系2世で日本の高校に通い、名古屋で飛行機工場に勤務経験があり、英語、露語の通訳資格を有する春日部薫一級通訳官は、アレウト人が黒い双眸に黒髪で皮膚は黄褐色、日本人に酷似しており、目付き鋭く自尊心の強い精悍な民として、鳥居龍蔵の北千島人と共通しているのが大変、興味深いです。混血でない原民が日本人と似ているではなく「酷似」と表現した「日本人」を、春日部2世がどう認識していたのかですが、新鮮な目で見た所見は興味深いモノです。これらの成果を子供に教え世界に伝え、更に共同研究により理解を深めていくことが必要です。

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