マンモスハンターがベーリング地峡から追って入って来たという長い間の定説が崩れ、北米大陸の北太平洋沿岸から入って来たという新説で、地域の遺跡に新たな光が当てられています。
①は北部千島人で、明治時代に調査に行った東京帝大助手の鳥居龍蔵を驚かせた石器・骨器も使い竪穴住居に住んでいる「遊動」海民の暮らしぶりです。無論、鳥居には、現生人類がアフリカで誕生し北上してきたことや縄文時代すら想像もできない事でしたが、その島の暮らしの状況を明らかにした功績は大きいです。彼は、ユーカラもなくアイヌではないそこの人が答えた「ルートン」人を使うべきでしたし、北千島開拓の郡司成忠元大尉・海軍大学卒が直感で坪井正五郎教授に調査を依頼した事のとおり、「コロボックルらしい」と言うべきでした。この北部千島ルートン(カムチャッカ南端部も)の起居の住まいがアイヌと異なり、造形はアリューシャン列島のアレウト族、極北のエスキモー・イヌイット、そして北米内陸のナバホ族に類似であり、鹿児島・上野原の縄文遺跡とも似ているのです。
②はカムチャッカ人で、冬の家と夏の家を有し、前者は北部千島ルートン人の物と類似ですが、あの北のカムチャッカ半島での夏の家は、正に南方系高床式で6本脚柱という青森・三内丸山縄文遺跡、富山・北代縄文遺跡に通ずる興味深いものであり、3万年前の北陸~道東の石器の類似性や出雲大社とも関わりあるものと言えるでしょう。そして、③日本列島~カムチャッカ~北米を通じ、共通性を感じるものとして、出雲大社の千木のように、長く残して切らずに張りだしている造形の共通性が興味深く、これは東南アジアなどでも見られる南方系のものです。こんな事からもBeringiaの「一時的列島」 (米伊3ケ大学 チームの最新研究)の小島伝いに北太平洋沿岸から入って来た「最初のアメリカ人・先住民」には、やはり 北海道祖人Proto-Japanese Hokkaido・北部千島ルートンが関わっていると考えます。子供に教え、世界に発信を。