1図「最初のアメリカ人・先住民」の移住史が、新大陸の発見遺跡から理論的に1.7万年以前、フネで北太平洋沿岸・昆布ハイウェイ沿いに入って来て始まったという新説で、”米臨海“・北太平洋地域の海の民は注目です。
シベリア狩猟族がベーリング地峡を通り内陸「無氷回廊」から入って来て、アメリカ新大陸先住民への第2新波のDNAの影響は大きいかも知れませんが、北の海のフネは濡れれば凍傷や死を覚悟せねばならない厳しいモノですから、最初は沿岸のアメリカ先住民がとなれば、地域の海の民は注目です。残念ながら、海水面が当時より約120m上昇しているため、沿岸はもとより主に海浜であった暮らしの遺跡の発見は困難ですが痕跡はうかがえます。千島列島から”米臨海”地域で、縄文時代の遺跡は発見されており、うかがわせる暮らしぶりは近代まで続いています。北千島(6千年前遺跡)、2万年前の道南の知内町遺跡の墳墓の副葬品と類似品があるカムチャッカ(1.3万年前遺跡)、シベリア東端のチュコト(1.5万年前遺跡と海岸民アンカリ)、アリューシャン列島(8.4千年前遺跡)は、共通なのは竪穴住居で、新たな視点での掘り起こしが期待されます。
2図占守島人が島を「ルートン」と呼んでカムチャッカ南端から幌筵島に、歴史から取り残されたように暮らしていたことは注目です。樺太千島交換条約で、カムチャッカ南端の人々は欧州ベラルーシなどに、占守島などの人々は南部の色丹島に移住させられ、残念ながら、今は歴史の渦に消えたと理解されています。カムチャッカ南端の人々は、北の遺跡が道南知内遺跡と墓の副葬品に類似性があるので、大昔はその方にまで居たのがカムチャダールに追われて南端にとどまったのではとも考えられます。
いずれにしても右図、ルートン地域人はその広域を遊動する 暮らし (鳥居龍蔵はもちろん旧石器時代の概念は無し)で明治人を驚かせ、良かれと準備された色丹でなく、厳しい自然ながら海獣などが多くいる祖先から暮らしてきたルートンへ帰りたがりました。他方、アレウト人はその高い操舟・ラッコ狩猟等の技量でやって来たロシア人を驚かせ、コマンドル諸島を侵略したものの暮らせずに全滅した露人に真似のできない適応力の広域活動でした。つまり両者とも地域に適応した“高度な” 海の民の暮らしぶりに痕跡が残されており、新たな光で歴史の解釈と更なる発掘研究が求められています。そして両中間地域では、ベーリング地峡沿岸の海岸人アンカリもいました。これらの事を子供に教え世界に発進し、更なる解明に国際共同研究がなされるべきです。