道庁赤れんがの歴史サイトは、オリンピックを前に「周回遅れ」です。上段記述の左住み始めは掲示資料では約3万年前、また、シベリアのマンモス・ハンターが来たように書かれてますが、石器は青森・本州と同じと言ってA.自ら否定し、また、そんな記述ができるB.人と物の痕跡も無いです。

当時は海水面上昇で朝鮮半島ではなく、また、南の島々とあるは沖縄・南西諸島を意味するなら誤りで、今の東シナ海に広がっていた北東ア平野の沿岸を北上して北部九州に来たルートが、考古遺跡上も有力でムリなく渡来です。従って石器説明も、青森から北上した人々(磨製石器など)と1万年遅れて及んだ大陸の細石刃の影響とすべきです。この世界考古学史上の”金メダル“の重要石器が、北海道で も3~6千円でネット売買されているのは世界に大恥であり、政府・道知事は早急に対策を講じましょう。

次に下段写真では、①北上ルートであり(考古遺跡、環太平洋言語松本博士説等から)、②道東で止まった理由もなく、食豊かな昆布ハイウェイの 北上を継続したでしょう。現在「最初のアメリカ人」問題で、初期は内陸の無氷回廊は未開通であり、沿岸ルートの③いつ、誰が、何処からが世界の注目ですから、②北上の可能性による”日本祖人”の関りも注目であり、出発点の北海道史は重要なのです。青森~道南~道東旧石器遺跡は、十分にルートを支持しています。世界にキャッチアップし、子供に教え、しっかりオリンピックを迎えましょう。

自分たちのご先祖が、①アフリカ発であり、全世界の人々がともかく親戚であることを書いていません。有力な1例が太平洋西岸域であることは、前回説明の通りです。

しかもはっきり直接の祖先は、約4万年前、北部九州にフネで家族がやって来たという現在の科学が示す内容を教えていない驚きの不思議です(北京原人は全く関係ありません)。そして、②肝心の始まりの“日本祖人”が、沖縄に南下し北海道に北上したという1万件を超える旧石器遺跡が示す内容も説明していません。教科書によっては、さして意味ないナウマン象が居て大陸から来た、従って人も来たという印象操作の嘘が誤解の元になっている不思議です。沿岸北上が有力なのです。③教科書の最初から北海道が色違いの写真を出している誤解の元の教科書もあります。日本列島史は北上史であり、祖代~縄文~続縄文~擦文~・・・、万年の大昔から、青森から北上して定着した人々が基本で、モヨロやアイヌという紀元後に加わった人々もいますが、人がすっかり入れ替わってしまったことは有りませんので、色違いは誤解の元です。

実は始まりの北部九州に、家族が30~40kmをフネで海を越えて来るのは、造舟、操舟を考えれば専門家がいたにしろ高い知的レベルであり、教科書が原始時代と記述しているのも問題です。世界の旧石器時代を比較すれば、日本祖人は”金メダル“を幾つも取っているのです。④伊豆の海で黒耀石を求めて少なくとも十数kmをフネで行き来し、静岡・関東・長野にまで交易で神津恩馳島産が行っていますし、⑤「陥し穴」猟は1m以上の深さの穴を何十も企画し鉄器もなく掘って作っている知能と集団の社会性を北海道から九州まで示しており、アメリカ先住民インディアンのような「環状のキャンプ」跡を残しています。また、⑥磨製石器は欧州・近東よりなんと驚きの2万年も早くから出現しており、伐採・木工などに使っていたようですし、釣り針も発見としては世界最古ですが、教科書はこれらを全く書いていない異常な不思議です。このためか、磨製石器が3~6千円でオークション売買されているのは世界に大恥です。膨大なウポポイ予算から真の文化財保護に充てるべきです。

今や仕方がないので、副読本でこれらの内容を子供に教え、世界にも発信しましょう。そして世界人類移住史の最後の謎である「最初のアメリカ人」問題を、国際協力研究で解明しましょう。その重要な基礎となる北海道始り史の研究と遺跡・遺物の保護を、アイヌ予算から充当しましょう。

1図出アフリカからの我々現生人類の歩みは、正に先人が東亜島弧の花綵(かさい・花づな)と称えた”海道”の歩みが今、注目です。 きっと、先人も関連を直感されたのでしょう。

「最初のアメリカ人」関連で2図菊池俊彦元北大教授が視野におさめられたオホーツク海、ベーリング海の古代史が痕跡を窺わせ、特に教授が点線不明とされた北・中千島史は遊動暮らしの祖代、石器土器竪穴住居の縄文的で興味深く、この北部千島と北海道を中心に視点を据えると南方からの歴史と接合し、 「最初のアメリカ人」関連とも接合し ます。東亜島弧の花綵列島という人類史の歩みの幹が浮かび上がり、特に太平洋東側の南北アメリカ新大陸沿岸へと幹は伸びて行っていることで、欧米最新の「昆布ハイウェイ(Kelp Highway)」沿いの人類移住史とも接合します。それはまた、環太平洋の言語の類似性に着目された元日本語言語学会長の松本克己説とも合致しています。

日本祖代研究会では、ハーヴァード医科大がアマゾン古部族のDNAが、スンダランド地域(アンダマン諸島~パプア)のほか、他に類似が無いことから現生人類の環太平洋移住(MPOR:Migration along Pacific Ocean Rim)説として研究を進めてきており、少なくとも研究意義は疑いないと考えていますが、巷間では誤解を招く誤りの「日本の始まり3方向渡来図(サハリン、朝鮮半島、沖縄)」や北海道大学の 樺太からの種族の進入を過度 (花綵“海道”の幹でなく枝葉) に強調することで、花綵 史の子供への教育や世界発信が不十分となっています。オリンピックの機会にしっかり改善しましょう。先住でない進入アイヌへの膨大な予算を、世界人類史研究の幹である本研究の国際的な推進に向けましょう。

1図北海道大学の大のDNA分析による歴史ついての推定は、修正が必要です。

①カムチャッカ半島の集団は、AとBの2種があり、かつ②南下した痕跡は見られず、むしろ近代まで北千島人が半島南端に存在していたように北上を考えるべきです。オホーツク人は東西南北で多様であり、確かに北部と西部に古代史上の類似性がありますが、③北海道史の対象はオホ-ツク西部人系であり樺太種族と言っていいでしょう。モヨロ貝塚人もアイヌもそうで、④アイヌは鎌倉時代頃の進入者です。北海道史は3万年前から始まり、⑤祖人、縄文人、…と歴史を重ね、擦文人となりこれらの間に内地から、北から細石器文化人などが加わり北海道人となっていますが、その大きな器にモヨロもアイヌも入って来て既に居た人と部分的に折り合いをつけ、あるいは追い出し追い出され、融合しながら北海道人となって来たものです。

2図菊池元北大教授が、紀元後のオホーツク古代史を探っていますが、興味深いのは北・中千島人については、点線の不明扱いになっています。実はこの点こそ今日的な重要課題で、北部千島の解明が一つの鍵なのです。さて、世界人類移住史は、3図テキサス大学がミトコンドリアDNAをたどることで、「最初のアメリカ人」に関して発表し、初登場の日本列島通過ルートとシベリア内陸ルートで、氷床線で移住を制限したことも考慮しており、何れが先かも分かる今日的に興味深い内容となっています。それは、シベリアの狩猟族がマンモスを追ってベーリング地峡を越え「無氷回廊」を通って米本土に入って来たという長い間の定説が新遺跡の発見等で崩れ、1.7万年以前に北太平洋の食豊かな昆布ハイウェイ沿いにフネで入って来たという考古学上の新説に合っているのです(前回紹介)。

つまり菊池教授が視野におさめていた 4図、「最初のアメリカ人」候補は、海獣・漁撈系の甲(太平洋系Aとオホーツク海系B)とシベリア・マンモスハンター子孫のトナカイ・ハンター系の乙となり(中間的諸種族も)、移住史の甲は、島々が弓なりに配列していて、花を編んで作った綱=花綵(かさい・はなづな)のような弧状をしている花綵海道ルートに、南の日本列島人から北の海の民アレウトまで連なっています。その花の一つが、菊池元北大教授が点線で残した北部(北・中)千島という訳です。小柄、褐色、石器や土器も使う未開で、明治時代に調査した鳥居龍蔵が、縄文時代のような竪穴住居を作るも定住せずに島々を移動して暮らす遊道海民としての人々の様子を伝えています。旧石器時代・祖代、縄文時代の暮らし を留めたような驚きの ものですが、アイヌ語系の言葉を話しロシア正教を信仰していました。

カムチャッカ半島南端にも居住していたことは、半島中部太平洋側のウシュキ遺跡の墓が道南の知内町遺跡に類似している状況を考えれば、大昔はもっと北に拡がっていたのだろうと思われます。日露の千島樺太交換条約の歴史の大波に襲われ、色丹島や欧州のベラルーシなどに移住させられてよく分からなくなっています。残された関係の人々を見つけ出してDNA調査ができれば、最も古き痕跡である遊道海民千島について、また、アメリカ先住民との比較で貴重な何かが分かるかもしれません。膨大なアイヌ予算をこの貴重な研究調査に振り向けましょう。子供に教え、世界に発信しましょう。

考古人類学の雄である米国のテキサス大学が、アフリカ発の現生人類の女性で伝わるミトコンドリアDNAの移住図に、興味深い最終氷期最寒期(LGM、2.5~1.9万年前)の氷床線を入れて公表しています(http:2007現在確認できず)。この線以前の時代となると違う状況も考えられるものの、歴史理解の有力な状況が分かります。

そこからは、左図の東南アジアのスンダランド原郷が、日本列島への北上が示され、また、沿岸と内陸の2つのルートが分かり、重要なことは氷床線と併せて考えれば、沿岸ルートが先で、 内陸ルートは、 氷床が融けてからの後発で入って来たことが分かります。即ち、2ルートと新旧の 2層性です。テキサス大の資料時期では、はっきり言えないと考えたためか沿岸ルートは米本土に入った所で止まっていますが、その後、内陸の氷床が融けた「無氷回廊」開通頃の南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡や未だ開通していない時代の北米1.6万年頃の遺跡が続々と発見され、左図太平洋東側赤点線の沿岸ルートで拡がったものと考えられます。

このようなことは、前回まで考察した痕跡を追える、青森~アンカレジ沿岸ルートの実在性や人々の新旧2層性とも合っており、新たな視点で双方を観ればそれぞれが実に納得の内容と理解できます。氷床線以前の古い時代状況は有り得るものの、ともかく世界人類史の観点で、祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoと北海道始り史、「最初のアメリカ人」との関りなどが、極めて重要です。東京・札幌オリンピックがこの状況を全く知らせずに、鎌倉時代に入って来たアイヌを過剰に持ち上げ、他方、学術辞典がこれらの内容を全く採り挙げないという、両者の世界からの「周回遅れ」は酷過ぎます。ともかく子供に教え世界に発信し、関係諸国の協同研究で更に明らかにすべきです。

イエズス会アンゼリス神父は江戸初期 にその使命から、流石に驚くべき左図地図報告をにしています。

ベーリングの120年前に海峡を、間宮林蔵の200年前にやはり海峡を把握し、北極海に至る陸地もまずまずで、青森とアンカレジを正しく認識しています。それにも拘わらず、興味深いのは①北海道を大きく理解し、「米臨海」西沿いは、カムチャッカ・千島・道東が陸続きです。即ち②千島は、島間の 最大 距離約80kmという、漕いで1日で行くのは大変な所があり、20を超える島々を舟で行き来せねばなりませんが、す~っとアラスカに行けそうです。そして、中・北千島人は、③ヒゲ無く未開でアイヌとはっきり違う理解をしている点も興味深いです。アイヌと中北千島人は、④顔を合わせて交渉しない物を置き合って交易するやり方(沈黙交易)でした。また、別の神父の情報では、⑤エゾ人は、彼らの言葉を理解できない(孤立的な古さ)としていますので、中・北千島人は、アイヌとも一味違う言葉でもあったのでしょう。

「最初のアメリカ人」沿岸ルートである青森~アンカレジは、地形的には思ったより一通性がある認識を持たれる状況にあり、人的には右図新旧の2層という状況で古Ⅰ層の一通性が窺がわれ、はっきりと祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、「沿岸ルート」のやはり有力候補であることが分かります。更なる研究を進めるとともに、子供に教え世界に発信です。

右図沿岸ルートの青森~アンカレジについて、明治先達が地域の歴史と人に関し、2層構造観に至っていたことは正に驚きの先進性です。

日本考古学始まりの大森貝塚発見の米学者モースと人類学の祖である坪井正五郎は、北海道にはアイヌと違う先住の人々がいたと口碑や遺物などからはっきり新旧2層を認識し、フィールドワーカーで有名な鳥居龍蔵は、千島列島を訪れ北海道アイヌと北部千島の人や暮らしぶりの違い、特にシベリア東部・カムチャッカ半島にはシベリアで見られるマンモス骨で家を創る系の鯨骨利用のエスキモー(イヌイット)以前に、竪穴住居に住み石器や骨器を使い、ゴミ溜めに熊・トナカイ・セイウチ・トドの骨を残したオンキロン(人)がいて、海岸にはアンカリ(人)がいたことを把握し、オンキロンとアンカリはその名前の言葉(発音)から同じ種族ではという新旧2層の認識を示している。

そして北部千島人と海岸のアンカリ人の中間のカムチャッカ半島「米臨海」側には、13,000年前の遺跡で道南知内町遺跡と墓の副葬品の状況が似ている同種と考えられる人々がいたことを考えると、繋がって図中の旧新1・2層の区分となります。「最初のアメリカ人」については、舟の民「北部千島人」と海岸の民アンカリが移住沿岸ルート系の古い痕跡を残しているモノとして、実に納得の新旧2層の種族構造の仮説に導かれます。 更にコレが、近年の米先住民Ntivesの広範なDNA分析から得られる見方とも矛盾がないのです。因みに、アリュウシャン列島アレウト族は、DNAは新しいとしても暮らしぶりは離島に海民性の暮らしぶりの痕跡が残ったモノとも考えられ興味深いです。 膨大なアイヌ予算を充当して古文書や遺跡等について関係諸国との協同研究を推進しましょう。子供に教え世界に発信しましょう。

今、世界人類史の重要な問題である「最初のアメリカ人」(1万数万年以前から)について、右図①日本最新の旧石器辞典が全く扱っていない周回遅れです。従って、子供は学校で全く教わっていません。

旧石器時代は約1万年前以前、中国では1.4万年以前になろうかという状況でアフリカ、ユーラシアを扱いながら、世界注目のアメリカ新大陸の重要な旧石器時代を全く扱っていない異常です。問題は長く左図②シベリアのマンモス狩猟族Bが、当時の海水面低下で生じていたベーリング地峡からマンモスを追って入って来て、氷床が融けた「無氷回廊」を通り米本土に、南米にまで拡がったというものでした。ところが近年になって、③その回廊が開いた頃の南米チリ遺跡が歴史界に衝撃を与え、北米では開通以前の遺跡が諸所で発見され、北太平洋沿岸の昆布ハイウェイ(Kelp Highway)をフネで入って来た”沿岸ルート説”が主流になってきました。DNA分析によってアジアからであるとなり、一部に根強かった大西洋ルートなどは否定されています。そして、④食が豊かな昆布ハイウェイルートと石器の類似性に着目したアメリカ学者の中に、A日本から来たのではと言う者が現れました。

日本からとなれば北海道であり、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoが注目されますが、日本では根拠もなく沿海州・樺太の方からマンモスを追って(現生人類が)南下し入って来たというイメージが今も書籍や博物館の展示で与えられ、南方九州から北上して拡がったという1万件を超える旧石器遺跡が示す事実が示されない異常から、外に出るイメージが生まれず、今やアメリカ学者が言い出した事に対応できていません。さて、左図A④3万数千年前の青森から狭くなっていた津軽海峡を越え、3万年前(石器分析)には北海道に拡がっていた祖人が注目され、図のように一旦はいろいろ別れても合流する種々のルートが考えられます。当時の地峡により、北極海の冷水の流入はSTOPしていた米臨海は正にハワイに繋がる海でした。外国の学者にはアリューシャン列島ルートを指摘する者もいますが、図中央のロシア・コマンドル諸島(かつて侵入した露人が生活難で全滅)から列島側へは400kmを超える漕舟が必要で、1日10時間で約1週間、万年前には困難だったろうと考えます(仮に、祖人が渡っていたなら言葉もない驚き!)。

更に、考古学的には“米臨海”地域は、せいぜい1.5万年前までの遺跡発見の状況ですが、⑤DNA分析ではもっと早くに現生人類はベーリング地峡に達し、そこで滞留してDNAが変化したCと考えないと理解できない状況にあるとの分子生物学分野の意見が出ています。という状況で世界は移住史の最後の謎に取り組んでいます。日本も積極参加し、北海道の当時の状況、考えられるルートに係る状況についての解明努力が必要で、膨大なアイヌ予算から充当して協同研究などにより世界学界に貢献しましょう。子供に教えて研究進展に期待し、世界に旧石器時代・日本祖代の北海道関連を発信しましょう。

青森で最古級の土器(縄文でない)が出た16,500年以前を旧石器時代・日本祖代とするので、アメリカ大陸分は扱っていません、がいい訳なんでしょう。

しかし、そもそもかつては、縄文時代とは概ね日本列島に縄文土器がいきわたり、定住生活や弓矢の使用や明らかに先代と暮らしぶりがはっきり変わった13,000年前頃からで、約1万年間と言われていました。今では15,000年頃説、そして最近増えて来た16,500年説ですが、青森にしかない縄文もない土器が登場した時をもって縄文時代の始まりには違和感がありましたが、仮にアメリカ新大陸との関りを排除するためであれば、世界を観ないその姑息さは許されません。世界移住史最後の謎の「最初のアメリカ人」問題は、無氷回廊定説が覆って17,000年以前に「米臨海」沿岸ルートから進入説が主流となってます(関係米学者7割)。

青森~アンカレジ沿岸ルートも浮上、3万年前からの祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、注目です。学界は、縄文時代の始まり、世界の「最初のアメリカ人」問題を議論しよう、子供に教え世界に発信しよう。

世界人類移住史の最後の謎、「最初のアメリカ人」については、右図の「米臨海」沿岸からフネで1.7万年以前にという事で、青森~アンカレジの「昆布ハイウェイ」沿いが注目されてきており、特に図中央、北部千島の海の民”祖・縄文人”系の痕跡に、その探求課題が浮上して来ています。

ところがなんと、100年以上も前の考古人類学の始まり時代に、日本人類学の祖、東大の坪井正五郎教授が、図左千島列島人に注目すべし、①アイヌとの関連、②石器時代人(祖代、縄文時代は分かってはいなかった)との関係、そしてアジアとともに、③北米の人々の由来を考え究めるうえで必要と指摘し、正に現代を驚きの先取りしている先進性です。では、千島列島の調査研究はその後もなされてはいるのに何故、今日まで教授の先進の認識が生かされていないのかは、A.折角、当時も現地研究がなされたが、当時のレベルの判断で坪井教授の認識を否定してしまい、また、教授が亡くなられて反論の機会もなく立ち消えてしまった。B.特に、世界的にも③アメリカとの関係では、シベリア・マンモス狩猟族がベーリング地峡を越えて入ったとする移住の旧定説が根強く、注目されなかった。C.学界が千島アイヌ、あるいは北千島アイヌと呼んでしまい、鎌倉時代から北海道に入って来たアイヌと同一視する矮小化の問題を生じてしまった。ことなどにより休眠してしまいました。

坪井教授は、当時得られた聞き取りや現地研究、文献諸資料から、「アイヌとは違う」人々という今では重要な問題意識を有して注目しましたが、結局その後の研究においては、(北)千島アイヌとして矮小化され、アメリカとの関連に着目する研究は無い状況になってしまっています。実は明治の千島・樺太交換条約で、日本政府は国境の外国密猟者による襲撃の危険もある”北部千島人”を説得し、明治17年(1884年)に南の色丹に移住させ生活基盤を与えましたが、結果として病人が発生したり大きな生活変化に適応できず、97人の過半が亡くなり、生まれた子供を加えて62人に減少、その後混血もあり道民の中などに融け、昭和16年には今から思えば学術的に重要な北からの移住者がいなくなってしまいました(千島列島を巡る日本とロシア:秋月俊幸)。

色丹で生まれた子も年月が経ち、今では亡くなっていることでしょう(DNA調査を追ってほしい!)。残念ですが、この新たな光が当たる千島列島人、特に海の民「祖・縄文人」系の「北部千島人」は、これまで行われた種々の研究をそういう目で見直し、隣国史と比較検討することが求められています。世界が求める課題の重要研究に、近頃の膨大なアイヌ予算から世界課題の国際協同研究 に充当しましよう。子供に教え世界に発信し、誤解も正しましょう。

図右上17,000年以前に”米臨海”沿岸から昆布ハイウェイをアラスカ・アンカレジの方へフネで入って行きました。この沿岸ルートで浮上している青森~アンカレジのルートを検討します。

左下青森から3万数千年前に海峡を越えて北海道に渡り拡がった祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、千島列島方向と樺太方向に北上を続けた事でしょう。A-1千島列島ルートとA-2オホーツク沿岸ルートは、やがてカムチャッカ半島南端か根元の肩口沿岸で合流します。図中央コマンドル諸島からアリュウシャン西端までは約420kmで、当時渡るのはムリ(列島最古遺跡も8,400年前で新しく、東方から)でしたでしょう。地域で注目の①カムチャッカ半島Ushki遺跡は、13,000年前頃、“米臨海”側の湖畔で、墓が道南の津軽海峡に面する知内町遺跡(2万年前)との類似が言われ興味深く、石器はアラスカと共通性が言われています。

次に②高度の海の民のアレウト族で、その遠洋操舟行動力は沿岸行動に留まるイヌイット・エスキモー族と違って技量は群を抜き、近世にやって来たロシア人を驚かせ、猟に活用するために北千島・カムチャッカに連れて来られたりしました。そして、それらと北海道の間で注目されるのが③北部千島の海の民“祖・縄文人”系の人々で、「北千島アイヌ」と称しているのは誤解の元であり、ユーラシア内陸を原郷とし鎌倉時代頃に登場するアイヌは有ったとしてもずっと遅れて来た上書きです。礼文島縄文女性(約4,000年前)同様に島に残された大昔の痕跡です。千島列島は、難所もある北の海、島間80km漕舟することも必要な「数百里の千島列島を昔から自由に行き来して来た」と豪語する海の民はアレウト族並みで、祖・縄文人の残された痕跡を感じさせるものです。堅穴住居に住み、土器石器・骨鏃矢を使い、北海道の人々と言葉を交わすことなくモノを置いてやり取りする「沈黙交易」をすることなどもアイヌとは別種の大昔からの祖・縄文人系を思わせ、言葉も人も今はもう融け消えて追えませんが「北千島アイヌ」と呼ぶのは誤解と考えます。

残念なのは明治時代に鳥居龍蔵が、せっかく北千島に調査に行きましたが「そういう種族の話もない」と否定したのが全く逆でした。現に、元島民で調査の助手を努めた者は、アイヌから「小人」と悪口を言われているのは気付いていて怒っていますし、島にいた人が 自分たちへの悪口噂を 知る訳も無くて不思議ありません。石器時代そのままともいえる品々も見ています。まして、21世紀のこれまでに分かった考古学の知見は当時は想像もできませんでした。そのまま今も 放置されているのが問題です。江戸の昔から幾つか関連資料もある 「北部千島の祖・縄文人系」の解明こそ、日本が世界の学界に果たすべき研究発掘の重点でしょう。膨大なアイヌ予算の充当を。子供に教え世界に発信を。

日本列島と米新大陸太平洋岸の先史の関連は、始まり時代から数十mの海面上昇により発見は困難ですが、学者が注目する「類似性」が興味深いです。

近年DNA分析が注目されますが、例えば日系○世がDNAも見た目も日本人的だとしても、寿司よりハンバーガーの方が、演歌は分からずジャズが好きで、何より日本語が出来なければもはや日本人とは言えず、伝統文化、言葉が重要です。図右下①松本博士は、言語の基本的な要素でユーラシア内陸部の人々と異なる、環太平洋の人々にRとLの違いが苦手などの共通性があることを見出し、更に、米大陸西沿岸から入り南下して行った太平洋側の人々と内陸の氷床が融けた後に、無氷回廊を南下して大西洋側に拡がった人々の違いにも着目されました。②近年、最初のアメリカ人は沿岸からという事で、北部九州に渡海して日本祖人 Proto-Japanese が、 始まった、伊豆の海を黒耀石を求めて行き来していた、沖縄へ、狭いが津軽海峡を越えて北海道に拡がった、という「海の民性」は注目され、仙台くらいにまでオットセイなどが居た海辺の暮らしでした。

向こうではアリューシャン列島アレウト族の小舟を操作する技量、造る技術の高度なことはロシア人をびっくりさせていますし、カナダの沿岸の部族には海辺の漁撈と採集だけで生活し、裏の森の動物の狩猟には関心を示さない正に「海辺の民」もいます。例えば、③北海道函館西方の2万年前の知内遺跡とカムチャッカ半島ウシュキ遺跡(縄文草創)の墓の副葬品などに類似性があることが指摘されています。そして、④台形石器が北海道南部から鹿児島まで類似性があり、帯広と北陸、ウシュキ~チュコト~アラスカ、遠軽白滝とクーパーズ・フェリーの遺跡の石器の類似性を言う学者がいます。改めて、日米露加の先史の各種分野を総合的に共同研究するプロジェクトが期待されます。こんな事を子供に教え世界に発信しましょう。

米オレゴン州立大が、左図北米に、内陸の氷床に開いた赤い線の「無氷回廊」を
シベリア狩猟族が 入って行く頃、いやその前の時代の遺跡が南北アメリカ新大陸で発見されてきたことなどから、それまでの定説はNO、青い線の沿岸ルート説をYESとしました。

そして、では具体的に誰が、何処からを考察し、右図の青い細線ようにKamishirataki上白滝・日本一の黒耀石原産地~オホーツク海沿岸~カムチャッカ半島沿岸~ベーリング地峡沿岸~太平洋西岸(南北米)のルートを挙げ、
“ コロンビア分岐点 ” から左折して川を遡行した北米最古級のクーパーズ・フェリー遺跡を例示(石器が遠軽白滝出土品と類似性ありと認識)しています。

そして、そうなると最初にやって来た人々は海の民かと問いを発し、暗にシベリア人観に疑問を呈しています。 是非、日本祖人Proto-Japanese は①北部九州へ約4万年前に家族で3~40kmの海を越えた民、②黒耀石を求めて十数Km以上の伊豆の海を行き来した民、③狭くなっていたが津軽海峡を越えた民である事などを分かってほしいです。これらの事は、 日本祖代研究会が、更に東南アジア・スンダランドSundaland~太平洋西岸地域を北上~北部九州から日本列島~千島列島を加えた環太平洋移住MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説と軌を一にするものです。

問題は、世界にこのような議論があること自体を生徒・学生が教えられていないことで、「日本人はどこから」を右下第3図の北・西・南の3方向渡来の内籠りで説明しているために列島から出て行く発想が全く無い欠陥なのです。

世界のオリンピック年です、子供に教え、世界に発信を、そして始まり「北海道の祖代史」を、正に”先住”の祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoを世界の議論に参加させましょう。

前回の出アフリカと南方原郷から、左第1図南方から台湾山地東岸、そして北部九州の北まで小島の多い生物多様な当時の北東ア平野の東沿岸の緯度変化を北上して慣らし、約4万年前に多くの家族が渡海して来ました。http://www.sunda-wind.net/news/9262 

その後、曙海を 時計回りに南下して沖縄へ、太平洋・日本海の両側、瀬戸内から拡がり、関東甲信越の賑わいを経て、狭かった津軽海峡を越え、3万年前には北海道の寒気と雪に適応した始まり時代の日本列島北上史です。右上第2図は、関連する米国の「最初のアメリカ人」議論で、オホーツク沿岸からベーリング地峡で足止めの滞留しDNA変化を生起させた後、北極愛の冷水が流れ込まなくなっていた米臨海の昆布ハイウェイ沿岸から、これまで発掘された南北アメリカの遺跡の年代から1.7万年以前に入って来たというものです。実は、以前はマンモスを追ってシベリアBから内陸を歩いてと言われてましたが、東シベリア内陸は冬季―60度で現代も死者が出ています。で、オホーツク沿岸となれば北海道発のA系でA’ であり(B’でも)、シベリア・アムール川沿いからと北海道・樺太からの2方向からとなって、北海道が重要ルートに急浮上しています。

ところが右下第3図、博物館や巷間本等では、日本の始まりは北・西・南の3方向からとされ北海道から出ない図が認識されており、北上して「最初のアメリカ人」議論に参加することがないという大問題があるのです。3方向図は、始まり時代はそこへ至る足跡が無い、あるいは足跡は沿岸から河川を遡行して上流地域につけた可能性があるのです。いずれにしろ、プーチンもいないのに、北上しなかった事由は有りませんから、特に、米国で北太平洋の昆布ハイウェイの沿岸ルートが主流になった今、議論に参加せねばなりませんし、鎌倉時代からのアイヌが“先住民族”という大誤解も正さねばなりません。それにしても北海道のアメリカ関連を含めた先史の研究と遺跡の保護状況は、抜本的に改善せねばなりません。子供に教え、世界に発信を。

明治時代に人類学が確立してから、先人は標題について、おそらく南方が原郷で、遠い3~4千年前のこと、大森貝塚人はアイヌと違う古い人たちだとか、北海道に背の小さいコロボックルが居てアイヌにいじめられて千島の方に逃げたとか、研究と活発な論議をしていました。さすがに、現在の世界の全ての人がアフリカ発の親戚にはびっくりでしょう。しかも日本に来たのはゼロ一つ古い遠い昔でした。しかしモンゴルの方や東南アジアまでを実際に回った研究者たちの知見を合わせてまずまずの認識であったと言えますし、実は、アイヌに追われて逃げたというコロボックルも、 今は 始まり史に十分に意味が出て来ていると考えています。

その南方について、第1図は、朋友のDhaniが、スンダランド地域で近年明らかになった旧石器遺跡を、数字年代を添えて地域の基本となる21,000年前頃の地形に整理したもので納得です。右側に日本での祖人の拡がりを付記しました。出アフリカ後に同緯度地域を東進したスンダランド、そしてさらに東進後に渡海して南下した豪州入りの早かったことは、世界の学者の等しく認めるところです。海辺のマングローブや海浜、熱帯雨林と草地の暮らしで黒褐色に変異したでしょう。縄文人よりはっきり古い骨格の沖縄港川人は、近い中国大陸の古い現生人類と思われる人骨よりもインドネシア・ワジャック人に似ていることも南方原郷を支持します。さて、太古からの東アジアの人を認識するのに、1775年、(独)ヨハン・ブルーメンバッハの区分である黄色系モンゴリアを今も使用しているのが誤解の元です。時間的に新・旧、空間的に北・南モンゴロイドと言っているのが問題です(欧州学者にはそれだけジンギスカン・マルコポーロ東方見聞録のインパクトが強かった)。

第2図 ①~④のこの見にくさが、正に原郷の分かり難さを象徴しています。始まりの①黒褐色の祖先“インマレイド“(当時のアンダマン諸島~ニューギニア地域の人の仮称)が、第2図北上して①’内陸インマレイドと日本列島の①”沿岸インマレイドの大きく2変異が生じたでしょう。①’内陸人については、ヒマラヤ山脈があり、その南山脚を東進し内陸を北上するルートのように遺跡が残っていますが、ヒマラヤ東方高地の険しい地形・気候や猛獣・蛇・害虫などの厳しさを考えれば、それぞれ沿岸から河川を遡行して川上地域に残した遺跡とも考えられます。さて、出アフリカの後、北上し中央アジア、シベリアを東進した②シベリア人も西方から加わります。そして、2万年前~数千年前に厳しい寒気と降雪の環境に身体そのものが適応して変異した3Mの正に「モンゴロイド」が登場します。此処で、大陸内部で①‘、②、3Mの3者が多様に混じり合いますが、④とします。この④が時代を異にし、南下東進して特に内陸に大きな影響を及ぼしたのがアジア人類史の概観なのです。

つまり、始まりの北上①系の上に複雑混合した④が時代と規模を異に各地で各様に“上書きされている”ので、分かり難いのです。但し、①‘、②、3Mが個々に入って来たのではなく、その既に混合した④が東南アジアや日本などに来たのです。それでも日本は島国でしたし、東南アジア特にその陸地部とは上書きの程度が違い、また、大きな民族の流入といったこともなかったようです。マンモスハンターの、稲作渡来民族の、騎馬民族の流入はなかったとみられます。日本各地に中華、韓国焼肉、スタバ、マクドなどが溢れていますが隣国、欧米人の流入数は多くなく、五月雨渡来です。そして、北海道・遠軽白滝や九州・ 腰岳 の黒耀石が、周辺の大陸のかなり入った所で発見されていることは、彼らが来るだけでなく、祖人が、北海道や九州から外に出て行った可能性も示しています。

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今までの日本学界はこのことを意識していませんでしたが、上図左シベリアB(②+④)だけでなく日本列島A(①“+④)の祖人が、もしかしたら④が加わる以前にもベーリング地峡沿岸を越えて入って行った「最初のアメリカ人先住民」の候補という訳です。

次回は、何故分かり難くなっているかの原因でもある原郷の激動を紹介します。

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