正月紹介の世界原史の金メダル C「最初のアメリカ人」です。

下図左のように当時は日本~北太平洋、そして南米沿岸にも食料豊かな「昆布ハイウェイ」が有りました。一方で、以前の通説(右端図)は、シベリアから大型動物を追って人々が、陸化したベーリング地峡を通り、無氷回廊が融けて開いてから米本土に進入し、早い速度で南米にまで拡がったというものでした。今もDNA分析をすれば、このルートは主流です。その後(同図)、氷床の関係により一度地峡内で数千年滞留して(赤点線)から、氷河期後の融氷で開通した後、動き出して進入したものと、この説に修正が入りました。

ところが近年になって、米本土の東部・西部や南米チリでも古い遺跡が発見され確定し、無氷回廊の開通前に米本土、南米に現生人類が進出していたこととなって、従来の通説が崩れています。従って図中央、説としては①太平洋岸、学者によっては③大西洋岸や依然として②という状況になっていますが、①昆布(Kelp)ハイウェイから舟でと言うのが最有力で、20,000~15,000年前とBe The Bestが、再新説をYouTubeにアップしています。そこで、東京・神津恩馳島を行き来していた祖先の子孫である北海道先住の「日本祖人」(32,000年前~)が注目されるわけです。

雪と寒冷の北海道での暮らしに日本祖人がすっかり適応すると、引き続き北には①海獣・鳥を含む食料が豊かな千島列島が見え、海水面の約100m低下で島々が近づき、行けば次々に島が見える状況にありました。

また、②北極海の冷水がベーリング地峡で止められて北太平洋に流れ込まなかったため、海域はハワイに繋がる「米臨海」でした、③北海道・道東とベーリング地峡沿岸の真冬の温度差は4度C程度で、行動できただろうと考えられます。因みに東シベリアは、氷河期でない今でも冬には―60度Cになることがあり、死者が出ることがあります。それに槍の狩猟族が、舟を造り北の海で操舟するのは実は大変なことです。アレウト族は、女性陣が夫や恋人のために半年かけて水も漏らさぬいや入らぬ舟を縫い作り、父親は10歳くらいからの息子を叩いて操舟を仕込んでいるのです。凍傷はもとより冷水に30分で死ですから。

更に、道東の遺跡の石器、道内遺跡の状況は、東部シベリア地域とは比較にならない充実の古さと数です。 当時の北陸地方の石器と道東の石器に類似性があるという北上を裏付ける興味深い研究も有ります。一方、世界の一部に未だ根強い誤解がある鎌倉時代頃からのアイヌは、本問題に全く無関係であることを、はっきり知らせる必要もあります。

北海道~ベ~リング地峡沿岸(米臨海域)~北米大陸西部沿岸は、今、 解明努力が続く人類史の焦点なのです。



約4万年前に九州に家族で渡って来て列島に拡がった「日本祖人」 の時代 は、黒耀石は狩猟のための石器などとして使用される宝物でした。東京の神津・恩馳島(国立公園)は良質な黒耀石で知られ、今も海底に見ることが出来ます。

そして、島から持ち出された黒耀石は、南関東から東海地方の広い範囲で見つかっており、特に伊豆半島東海岸の桜の名所である河津町の見高段間遺跡は、縄文時代に黒耀石を加工した工房跡も見つかっています。それらの黒耀石の微量のウラン238は、自発的に放射線を出していて、そのウラン濃度を計測すると生成された時点からの時間経過が分かります。従って、どこかの遺跡で発見された黒耀石と神津・恩馳島の物の放射線を比較することで、同じ場所の物かどうかが蛍光X線分析装置によって分かり、いろいろな遺跡で出る黒耀石の「原産地が特定」できます。

更に、中性子放射化分析で年代が分かり、約38,000年前からの黒耀石が島から採り出されて各地で使用されていることが分かって、舟で行き来したその行動の世界最古の古さに驚かされるとともに、島へは半島南端から約55kmもある海域を黒潮分岐流を横断して行かねばならないことから、新聞が人類史の謎として報じた正に金メダル級の事なのです。

ところが、当時の状況などから仔細に検討すると、十分可能なことが分かって来ます。まず、①「日本祖人」は、そもそも始まりから舟で朝鮮海峡30~40kmを九州対馬(又は五島)に渡って来た海民です。②当時は氷河期で海水面が約100m低下してましたので、石廊崎沖9kmの神子元島は陸続きで、何よりも東京諸島は大島を除き島と島がかなり陸続きでした。③海域は従って半島と諸島に挟まれた「伊豆海峡」ともいうべきで、最狭部(城ケ崎~大島)は10数kmでしたから、日本祖人には十分可能です。④以前の 報告 の訂正ですが、どうも当時は黒潮は四国くらいまでしか北上しておらず、「伊豆海峡」に流れがあればむしろ北からの親潮分岐流でした。さて、行き来検討の一番のポイントは、東京諸島側は漕ぐことなく綱で舟を曳いて海岸を歩くことです。舟を 漕ぎ 続けるよりもずっと楽 に移動 きます。

例えば 下図 、行きには城ケ崎から太陽方向に漕ぎ出していけば、北からの流れに流されても諸島側に着き、恩馳島に歩きを多くして行けます。帰りは歩いて利島まで行き少し漕いで大島から城ケ崎に向かえば、流れに押されても河津あたりにムリなく着きます。そして実は、河津の見高段間縄文遺跡が注目されます。行きに太陽に向かって河津を漕ぎ出すと、流されてムリなく新島あたりに着きます。

そして、宝物を積んだ大事な帰りですが、利島まで海岸を歩き大島を漕ぎ出せば河津の浜に着きますが、それは有名な縄文遺跡の見高段間丘陵 (東小学校の丘) と今井浜なのです。

即ち、見高段間遺跡は縄文時代からでなく、父祖が開拓した「日本祖代」からの、 目立つ 最適な、宝舟の発着する賑わいの交易地域であったものと考えます。今井浜のかがり火で、みんなが踊る姿が目に浮かびます。

この 祖先の 偉業を、学校で全く教えていないことが誠に残念です。

(写真説明)

A.出アフリカ・・・人類が、現在、77.5億人にまで膨らむ本格的な端緒となった人々  B.「伊豆海峡」を舟で行き来・・・貴重なモノを求めた遠距離“冒険航海”始まりの証拠(委細次回) C.「最初のアメリカ人」・・・小舟で沿岸(昆布ハイウェイ)から入っ て行っ た極めつけの新大陸アメリカ 「 移民」の始まり、北海道先住「日本祖人」は有力候補


最初のアメリカ人 は、北海道からか、シベリアからか?

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