多くの書籍や博物館等の展示に赤B3方向図が描かれていますが、前回までの説明のとおり青Aであり赤B混ざり合い図は誤解の元です。日本人は、南方から北上した一方向性の 長かった 万年の基層の上に、新たに3方向から多くはない人たちが寒さに追われ獲物を求め戦乱を逃れて、出戻りを含めて加わった歴史です。

当時は、対馬暖流がなく日本海側に大雪は降りませんでしたので太平洋側との両方から北上し、列島中央で連接も果たされていました。これらのことは、列島の1万件を超える旧石器遺跡の状況等から導かれます。赤B図が問題なのは、①約4万年前からの九州人より新しい大陸内陸の現生人類遺跡から、日本人のルーツでは有り得ません。入って来たのは2万年前頃以降でしょう。②沖縄人は、当時の「北東ア平野」沿岸地域を北上し「曙海」のほとりを九州から南下して行った人たちでしょう。台湾山地沿岸から黒潮流を与那国島に渡って更に宮古島から慶良間ギャップを多くの家族が越えるのは、始まり時代にはムリだったでしょう。

③「最初のアメリカ人」問題が、世界の現生人類史学界の最後に残された大テーマですが、赤3方向渡来図では欧米の議論に参加する発信が出ないことが問題です。ここでも入った人たちはAかBかとなりますが、ベーリング地峡で混ざり合った混合Cも考えられます。いずれにしても、「最初の、舟で来た」となれば、既に一部の米研究者からは注目されている北海道「日本祖人」は、参加すべき有力な候補なのです。尤も、(鎌倉時代からの)「アイヌ」という問題外の語が依然として出る誤解が放置されているのは問題です。

そのルートで 東京オリンピックを機に、青A図をしっかり知ってもらい、正しく「最初のアメリカ人」問題に参加すべきです。将来、北海道「日本祖人」が、金メダルを獲得するかもしれませんので。また、近年、「インド太平洋戦略・構想」というご大層な語が登場していますが、ご先祖様は笑っていることでしょう、「戦略なんてなかった、暮らせる所で懸命に暮らして そのルートで 拡がっただけの結果だ」と。


第2図、HB抗原ウィルスの分布から、南方型の痕跡が東北北部に色濃く残り、また、水稲耕作の北九州からの北上、途中での”足踏み”後の東北北部に至る拡がりとHB抗原の南方型分布との興味深い符合などが分かりましたが、更に、第1図、入れ墨の歴史があります。

大陸の内陸種族である「魏」人は、倭人や沿海の越人に対し、入れ墨をして海に潜り魚を獲って食すヘンなヤツらとの認識を魏志「倭人の条」に書いています。この倭人の特徴の入れ墨は、習俗として沖縄の女性に残るのみならず、鎌倉時代に北の方から北海道に入って来て混血が進んだアイヌの女性にも見られ、その伝承では(先住の)コロボックルのものを真似たとあります。このコロボックルについては、我が国人類学の祖とされる明治時代の坪井教授が、北海道での現地研究から、アイヌの伝承は信頼しうるとして唱えたものです。その後、鳥居龍蔵が北千島(伝承でコロボックルが逃げて行ったと言われる)の現地調査を行ったものの、コロボックルはおらずそういう話も無いとして説は立ち消えました。

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今になれば、鎌倉時代頃からの話が明治になって無いからといって存在が無かったとはいえず、来日学者のモース博士(大森貝塚を発見)は、「プレアイヌ説」で、アイヌの前に先住者が居たと指摘していました。当時は全く想像すらできなかった日本祖人、次の縄文人以来の北海道の万年前の先住者に具体的な想いを致すことは容易でなく、他の来日学者がアイヌは白人系であると言った誤解すら、今も根強く尾を引いています。さて、出アフリカ後の現生人類が、南方から北上して来て北海道にまで拡がった日本祖人が、そこで停止する理由もなく北上を続け、千島列島や樺太の方から、「最初のアメリカ人」についての最新説「北太平洋沿岸を舟で“昆布ハイウェイ“に沿ってアメリカ新大陸に入って」行った可能性が注目されています。

従って、博物館等で日本列島に北・西・南の3方向から人々が入って来て混ざり合って「日本人」になったという図が見られますが誤解の元です。南方から北上した始まり万年の一方向性の基層を誤解させるものであり、そのルーツは「西太平洋沿海原族」で、「曙海」を渡って北部九州にやって来て始まった南方型です。その上に時代が下ってから北・西・南ルートで、大陸からの出戻りを含めて人々が渡来し混血し、地域の文化を育み現在に至っているものです。

 

秋田・青森県人が、列島史始まりのHB抗原ウィルス南方型(第2図)ということは、第1図、海水面が約100m低下していた約4万年前の「曙海」・「北東ア平野」の時代に、出アフリカの現生人類がスンダランドから北上(ラオス、ベトナム、台湾痕跡)して大陸から対馬~五島に舟(筏)で渡って来て北海道にまで拡がりましたので納得できます。

さて、人種が近かった曙海のほとりの人々も、2万年前頃には更に近づいたものの、その後の海岸線の後退で離れて行きましたが、はるかに時を経た日本史の大きな画期である水稲の耕作を見ますと、人類史の痕跡ははっきり残っています。戦後の始まりに安藤広太郎・農業博士が、インド、タイ、中国広州などに広く稲の原生が見られ、日本の稲作は(呉越地域の)ジャポニカが過半の苗族・オーストロアジア系民族の稲作に(起源として)注目されたのは、正に卓見です。

現代学者は、稲作がいつ、どのルートから(第1図①②で、南西諸島ルートは稲種が該当せず)に関心を持っていますが、安藤博士はそれもさることながら、苗族・オーストロアジア系民族(現代中国の少数民族など)や南船北馬の違いに注目され、ユーラシア大陸内陸種族と西太平洋沿海地域の種族の違いという現代の東アジア理解を、インドにまで及ぶ稲作研究からも認識されていて、その後の学界のタイ・越関係研究にも繋がっています。更に、水稲耕作の伝わり方も戦乱など該地の人々が身の危険に迫られ逃げ出したもの(難民)との見方をはっきり示されました。この点は、むしろ交易の倭人の船乗りが、曙海のほとりの地から持ち帰ったものという見方もあります。安藤博士説を後進の樋口博士が斜線で示した中国南部~我が国の東北にまで繋がる水稲耕作論の図化は、共通性ある古く長い歴史を示すものとなっており、また、最近の研究で図の日本陸稲線で(品種改良のため)稲作北上の足踏み”休止”があったと言われていますが、これがウィルス南方型の東西線ともなっていることが、誠に興味深いことです。

稲作の時代にあっても、曙海ほとり認識の重要性は変わらず、実は各種の古来各種の中国史書は、「倭」を広い範囲の曙海ほとりの人々として様々な地の人々を「倭」と表現して書いていますので、学者さんに混乱を与えています(倭寇以外にも多く)が、読み解きには「曙海」認識が必須なのです。因みに、元寇の襲来においてさえ、長崎の人々は内陸種族と曙海ほとりの沿海種族を分けて(捕らえた侵攻の沿海種族は殺害せず)扱いました。このように、始まり時代から歴史時代にまで長く地域空間と歴史時間の流れがムリなく繋がり、西太平洋沿海地域と河川遡行の諸族(現在は内陸高地にも)の祖先(沿海原族)が、人類移住史と水稲耕作史からも「日本祖人」との共通性が大きい(曙海史観)と考えられます。このように大きく2区分に認識しうる東アジアの諸族の特色から、大陸、中国、朝鮮半島・韓国といったおおまかな語で東アジアの歴史を語ることは、とてもできないのです。


第1図、青森・津軽(青円)は、①世界最古級の大平山元土器(縄目なし)、②縄文イメージ一新の三内丸山居住跡、③江戸人も驚き求めた名品である亀ヶ岡土偶と、万年の縄文時代の前・中・後の全期を通じて先進性がありましたが、それは太平洋、日本海、津軽海峡越えの異文化の接触が大きな要因であった事でしょう。

ところが、第2図、秋田と共に「日本祖代」(始まりの九州から列島中に拡がり定着)を感じさせるHB抗原ウィルスの南方型が多いという特徴があり、南A北Bから列島に影響を及ぼした大陸内陸型が最も少なかったという歴史で、次いで図のように高知や東日本が少ないことからも納得です。大昔からの人が維持された「奥の院」のようですが、この事も縄文先進であった事と共に注目されます。他方、北からの影響は南ほどではなかった事も分かり、鎌倉時代に北から北海道に入って来た事が始まりのアイヌもかなり南方型が入っているとみられ、純粋に北の大陸内陸型であればあの入れ墨も考えられず、後発の日本人です。いずれにしても、東北北部人は、私たちの日本史の最古を維持して来ています。

春節移動期の新型コロナウィルスが大問題ですが、かつて厚生省の研究チームが、日本から約1万、世界各国から約2万の血液検体を集めて分析し、分類してHB抗原の分布図を作成しました(1975年)。第1図のように、一見して列島の南部に北方型が多く、北部に南方型が多いという不思議な結果になりました。

実は赤A,Bは、北方型というよりも大陸内陸型と認識すべきものなのですが。それでは何故、秋田・青森に南方型が多い(〇点線)のかです。この事は第2図の人類展開史から理解できるのです。始まりはアフリカで、出アフリカを果たした現生人類①ネグロイドは、東西に拡がりました。歴史学者も驚くスピードと海を渡って豪・オーストラリアに至りましたが痕跡が①として残っています。当然、現在は過半が沈んでいるスンダランド(茶色)経由したもので、その後②インマレイドに変化し北上した現生人類の南方型(スンダランド・大陸沿岸型)は、九州に渡って来て「日本祖人」は北海道にまで至り、内陸ではシベリアの雪と寒気に適応して体を変化させた③モンゴロイドとなり、今度は南下して遂には東南アジアにまで至った歴史の流れなのです。こういうスンダランドを認識せずに「東南アジア」の語を使用すると、全く状況が分からなくなります。

つまり、②インマレイドが北上して(青太矢印)渡来し北上を続けた「日本祖人」、次の縄文人の痕跡が、南北からの大陸内陸型の流入の強い影響を受けずに秋田・青森の歴史に残っているという訳なのです。即ち現生人類史の流れ、スンダランドと東南アジア、③モンゴロイドの形成と南下、大陸内陸と大陸沿岸の違い、日本列島史といった種々のことが認識されなければ理解できない事なのです。欧州方面も同様で、西進したネグロイドが②ラテニドに変化し、北上して③ユーロパイド(白人種)に変化して再び南下しています。この間に大ユーラシアの東西交流もありましたが、基本は上述のとおりです。


日本史は「約4万年前、九州からの始まり」でほぼ学界に異論がありません。縄文人の先代は、①旧石器時代人、②(後期)旧石器時代(後期)人、③先土器時代人、④無土器時代人、⑤(無名人)、などとなります。いずれも世界の歴史学者には笑われます。⑤は日本史の高名な学者が言っていて、「日本」は7世紀に出来たのでそれ以前に日本人などいないという屁理屈には、小学生も首をかしげる説です。①は世界的には約250万年前からで問題外、②は一見よさそうですが、世界の後期は3~1万年前ですので、約4万年前~縄文の日本と当然に合わないため、説明しないと誤解の元で煩わしく、③、④、は始まりに限りがないため全く不適切です。上記の事情から、問題は、「縄文人はどこから?」といった呆れる問い(2代目縄文人は列島生まれに決まっています)を学者が発し、北海道や東北北部、更には福岡や高知や各地の一部の地名は、アイヌが付けたのではという逆立ちした誤解などが生じています。

なお、始まりを38,000年前と尤もらしく言う説は、伊豆で見つかった現在最古の痕跡の年代を言っており、九州からの拡がりに要する当時の年月を考えれば、むしろはっきり誤りで、約4万年前の方が適切(時間がかかった北海道への拡がりは、32,000年前)です。

また、日本列島にはもっと前に人類が居たことが石器で分かるという説は、そうとしても旧人の可能性が高く、見つかれば騒ぎにはなりますが直系でない別の話です。欧米学界が、ネアンデルタールやデニソワ旧人に異様に関心が高いので影響されるでしょうが、現代70数億人の私たちの祖先は、あくまでアフリカ発の黒人なのであり、皆が親族なのです。欧米学者さん、アフリカを出てから今のEUに至った道筋の方こそ研究の重点にし、はっきり示してくださいな。さて、「吾輩は人である、名前はまだ無い」、と初代祖先が言っているのを放置しているのが学界です。縄文人の先代、私たちの始まりが分かっている祖先を「日本祖人」ときちんと認識するとその後がもっと良く見えて来ます。実は、始まりが分かっていて歴史が書けるなんて、世界を見渡してとても恵まれたスゴイことです。九州降臨の天皇陛下を戴く私たちの国のかたちと何の矛盾も無い、静かに誇るべき世界でも恵まれた民族なのです。


東京の 慈恵医大チームが、東部シベリア・コテルニー島(当時は陸続き)で、21,000年前に人によって屠殺されたマンモス痕跡(切り傷、投げ矢片など)を確認したと、露シベリアタイムズ紙が1月15日報じました。

これに関連し、露科学アカデミーのAlbert Protopopovは、「最初のアメリカ人」に関して、最近のDNA分析で シベリアから 25,000年前にベーリング地峡に進入したと考えられると語ったと報じています。これまでも、進入後に滞留して、“LGMが温暖化した後”の1万数千年前頃 にアメリカ進入 と考えられていますので、その線 に沿って 彼が語っています。なお、アラスカはともかく、アメリカ本土へは北太平洋西海岸の「昆布ハイウェイ」を舟で進入して来たと考えられています。「最初のアメリカ人」問題、アラスカと米本土への進入が いつ、 どうであったのか、シベリアからか北海道・千島からか、研究は続きますが、日本チームの名が登場しています。 そして、3.2万年前からの北海道先住「日本祖人」は、有力な金メダル候補です。





標題は、我が国の始まりや北海道史に対する歪曲・無理解が原因です。

sunda-wind.net

明治時代のお雇い学者の頃から、 北から南下して入って来た アイヌには白人の血が入っているという欧米の説があり、国連にも影響を与えて同情と関心を集めて話を歪める一つの原因となっています。これは、アメリカ先住民・インディアンの祖先についてさえ、欧州人が万年の大昔に大西洋岸から最初に来たという信じがたい説が根強くあるのと同じです。さて、日本祖人は、3万年前頃には沖縄から北海道にまで拡がり、そこに数千年後には沿海州・樺太から南下して入って来た人々がいたとみられますが、アイヌの話は、下年表のとおり鎌倉時代以降のことですから、「最初のアメリカ人」話にはアイヌは全く無縁です。因みに、アイヌは縄文人の子孫と言うのも、後から入って来ての混血ですから、まあちょっと誤解を与えやすいもので、縄文人が時を経てアイヌになって行った訳ではありません。

北海道には、途切れることなく日本祖人から縄文人とずっと子孫がおり、アイヌの伝承には、アイヌに悪さされて千島の方に逃げて行ったという小さな先住民の話があるくらいです。世界いや我が国の北海道史年表に対する政治も絡んだ歪曲・無理解は、東京・札幌オリンピックを控え大きな問題です。


当ブログで累次報告していますとおり、出アフリカ後の現生人類が、南方から家族が舟で九州に約4万年前に渡って来て、3万年前には沖縄から北海道にまで「日本祖人」(縄文人の先代)が拡がりました。世界の先住民仲間としては、この日本祖人ということになりますが、世界には今も「アイヌ」と言う誤解が根強いです。北海道大学のDNA分析で、アイヌは北から鎌倉時代に入って来た新しい人々ですから、「最初のアメリカ人」問題が注目されている折から、東京五輪の機会に私たちが約4万年の歴史を有する民であることを世界の人々に知らせ、誤解を解く機会にしましょう。

その世界人類史の重要課題である「最初のアメリカ人」の解明努力が続けられている中では、伊豆海峡を38,000年前から黒耀石を求めて行き来していた祖先の子孫である北海道「日本祖人」は、北太平洋沿岸の昆布ハイウェイを舟でアメリカ新大陸に入って来た人々として有力な候補なのです。

しかし、この研究でも外国資料には、日本関係でアイヌが登場しますが全くの誤解ですので、世界の人々が集まる東京五輪の機会に正しましょう。

正月紹介の世界原史の金メダル C「最初のアメリカ人」です。

下図左のように当時は日本~北太平洋、そして南米沿岸にも食料豊かな「昆布ハイウェイ」が有りました。一方で、以前の通説(右端図)は、シベリアから大型動物を追って人々が、陸化したベーリング地峡を通り、無氷回廊が融けて開いてから米本土に進入し、早い速度で南米にまで拡がったというものでした。今もDNA分析をすれば、このルートは主流です。その後(同図)、氷床の関係により一度地峡内で数千年滞留して(赤点線)から、氷河期後の融氷で開通した後、動き出して進入したものと、この説に修正が入りました。

ところが近年になって、米本土の東部・西部や南米チリでも古い遺跡が発見され確定し、無氷回廊の開通前に米本土、南米に現生人類が進出していたこととなって、従来の通説が崩れています。従って図中央、説としては①太平洋岸、学者によっては③大西洋岸や依然として②という状況になっていますが、①昆布(Kelp)ハイウェイから舟でと言うのが最有力で、20,000~15,000年前とBe The Bestが、再新説をYouTubeにアップしています。そこで、東京・神津恩馳島を行き来していた祖先の子孫である北海道先住の「日本祖人」(32,000年前~)が注目されるわけです。

雪と寒冷の北海道での暮らしに日本祖人がすっかり適応すると、引き続き北には①海獣・鳥を含む食料が豊かな千島列島が見え、海水面の約100m低下で島々が近づき、行けば次々に島が見える状況にありました。

また、②北極海の冷水がベーリング地峡で止められて北太平洋に流れ込まなかったため、海域はハワイに繋がる「米臨海」でした、③北海道・道東とベーリング地峡沿岸の真冬の温度差は4度C程度で、行動できただろうと考えられます。因みに東シベリアは、氷河期でない今でも冬には―60度Cになることがあり、死者が出ることがあります。それに槍の狩猟族が、舟を造り北の海で操舟するのは実は大変なことです。アレウト族は、女性陣が夫や恋人のために半年かけて水も漏らさぬいや入らぬ舟を縫い作り、父親は10歳くらいからの息子を叩いて操舟を仕込んでいるのです。凍傷はもとより冷水に30分で死ですから。

更に、道東の遺跡の石器、道内遺跡の状況は、東部シベリア地域とは比較にならない充実の古さと数です。 当時の北陸地方の石器と道東の石器に類似性があるという北上を裏付ける興味深い研究も有ります。一方、世界の一部に未だ根強い誤解がある鎌倉時代頃からのアイヌは、本問題に全く無関係であることを、はっきり知らせる必要もあります。

北海道~ベ~リング地峡沿岸(米臨海域)~北米大陸西部沿岸は、今、 解明努力が続く人類史の焦点なのです。



約4万年前に九州に家族で渡って来て列島に拡がった「日本祖人」 の時代 は、黒耀石は狩猟のための石器などとして使用される宝物でした。東京の神津・恩馳島(国立公園)は良質な黒耀石で知られ、今も海底に見ることが出来ます。

そして、島から持ち出された黒耀石は、南関東から東海地方の広い範囲で見つかっており、特に伊豆半島東海岸の桜の名所である河津町の見高段間遺跡は、縄文時代に黒耀石を加工した工房跡も見つかっています。それらの黒耀石の微量のウラン238は、自発的に放射線を出していて、そのウラン濃度を計測すると生成された時点からの時間経過が分かります。従って、どこかの遺跡で発見された黒耀石と神津・恩馳島の物の放射線を比較することで、同じ場所の物かどうかが蛍光X線分析装置によって分かり、いろいろな遺跡で出る黒耀石の「原産地が特定」できます。

更に、中性子放射化分析で年代が分かり、約38,000年前からの黒耀石が島から採り出されて各地で使用されていることが分かって、舟で行き来したその行動の世界最古の古さに驚かされるとともに、島へは半島南端から約55kmもある海域を黒潮分岐流を横断して行かねばならないことから、新聞が人類史の謎として報じた正に金メダル級の事なのです。

ところが、当時の状況などから仔細に検討すると、十分可能なことが分かって来ます。まず、①「日本祖人」は、そもそも始まりから舟で朝鮮海峡30~40kmを九州対馬(又は五島)に渡って来た海民です。②当時は氷河期で海水面が約100m低下してましたので、石廊崎沖9kmの神子元島は陸続きで、何よりも東京諸島は大島を除き島と島がかなり陸続きでした。③海域は従って半島と諸島に挟まれた「伊豆海峡」ともいうべきで、最狭部(城ケ崎~大島)は10数kmでしたから、日本祖人には十分可能です。④以前の 報告 の訂正ですが、どうも当時は黒潮は四国くらいまでしか北上しておらず、「伊豆海峡」に流れがあればむしろ北からの親潮分岐流でした。さて、行き来検討の一番のポイントは、東京諸島側は漕ぐことなく綱で舟を曳いて海岸を歩くことです。舟を 漕ぎ 続けるよりもずっと楽 に移動 きます。

例えば 下図 、行きには城ケ崎から太陽方向に漕ぎ出していけば、北からの流れに流されても諸島側に着き、恩馳島に歩きを多くして行けます。帰りは歩いて利島まで行き少し漕いで大島から城ケ崎に向かえば、流れに押されても河津あたりにムリなく着きます。そして実は、河津の見高段間縄文遺跡が注目されます。行きに太陽に向かって河津を漕ぎ出すと、流されてムリなく新島あたりに着きます。

そして、宝物を積んだ大事な帰りですが、利島まで海岸を歩き大島を漕ぎ出せば河津の浜に着きますが、それは有名な縄文遺跡の見高段間丘陵 (東小学校の丘) と今井浜なのです。

即ち、見高段間遺跡は縄文時代からでなく、父祖が開拓した「日本祖代」からの、 目立つ 最適な、宝舟の発着する賑わいの交易地域であったものと考えます。今井浜のかがり火で、みんなが踊る姿が目に浮かびます。

この 祖先の 偉業を、学校で全く教えていないことが誠に残念です。

(写真説明)

A.出アフリカ・・・人類が、現在、77.5億人にまで膨らむ本格的な端緒となった人々  B.「伊豆海峡」を舟で行き来・・・貴重なモノを求めた遠距離“冒険航海”始まりの証拠(委細次回) C.「最初のアメリカ人」・・・小舟で沿岸(昆布ハイウェイ)から入っ て行っ た極めつけの新大陸アメリカ 「 移民」の始まり、北海道先住「日本祖人」は有力候補


最初のアメリカ人 は、北海道からか、シベリアからか?

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