オレゴン州立大チームが、コロンビア川のCooper’s Ferry 遺跡で16,000年前頃の石器などを発掘し、 「最初のアメリカ人」に関して、北太平洋沿岸の「昆布ハイウェイ」から舟で南下して来た説を裏付 け、 ハイウェイ・ジャンクションから分岐して 川を遡行した ものと発表しています。地域では、これまでに古糞石(15,800BP)や人骨(ケネウィック・マン、9千年前)などが既に発見されてよく知られています。

注目は、発見された素朴な石器で、それまでのクロービス尖頭器(14,000年前頃、下部に樋状削り)とはっきり異なる米最古型です。そしてチームには、日本の物と似ているとの意見も出ています。この古さで現生人類が此処まで来ているなら、それでなくとも舟で「昆布ハイウェイ」を来たというなら、約4万年前に南方から曙海を舟で九州北部に渡って来て、 3万年前には北海道に適応していた「日本祖人」Nihon Sojin (縄文人の先代)の自然な進入が注目されます。海民の「日本祖人」が雪と寒気に適応していた、食料豊かな千島列島の次の島が見えていた事などが日本でも教えられていないので、まだまだ縄文Jomon人かも、アイヌAinuかもという誤解した話が世界中で出ます。有力な候補ですから、日本学会が世界に発信し、議論に参加する事が求められています。

世界人類史の最後の「謎」とも言われる南北アメリカ新大陸への現生人類の移住問題は、「太平洋沿岸を舟で」が主流となっています。 コロンブスよりずっと早かったということで注目される大西洋方向からのSolutreans説もありますが、普通の学者さんは相手にしていません。さて、 ①北海道から北上か、②シベリアから東進か、③Beringiaで混合かなどであり、図の無氷回廊の開通問題やどんどん明らかになってきた遺跡の状況、特に北米16,000年前頃(最近ではアイダホ州、オレゴン州などでも)、南米チリ14,800年前頃の発見が大きいことです。

遂にネットでは、有力候補として北海道が登場していますが、日本では学校で何も本件を教えられず、世界でも縄文Jomon、アイヌAinu(北海道大学のDNA分析で鎌倉時代以降)かという誤解が根強いです。3万年前からの北海道「日本祖人」の研究と発信は、①「伊豆海峡」を舟で行き来していた、②千島列島は次々に島が見えていたことなどを踏まえて、今や日本学会の世界に対する務めなのです。学校で教えて、若い人の世界での活躍に期待しましょう。

世界人類史の最後の大きな「謎」として、「アメリカ新大陸人」問題があります。以前は第1図、シベリアのトナカイ・マンモスハンター(B)が、最寒期LGM(2万年前頃)を過ぎてからベーリング地峡を、大型動物を追って入って来たというものでしたが、近年の南北アメリカでの遺跡発掘状況と研究により、「入って来た16,000年前頃以前は、北米内陸の無氷回廊は開いていなかった(氷床のまま)ので、ベーリング地峡沿岸/昆布ハイウェイから、舟で入って来た」新説が主流となっており、第1図下図の暮らしぶり図が登場しています(ちょっと寂しい図ですが)。

1.Aの北海道「日本祖人」が北上したのか、2.Bのシベリア狩猟族が海辺の暮らしに適応した(赤矢印)のが、3.A、B両者が地峡沿岸で混じり合ったのか、いろいろ考えられます。現在の南北アメリカにおけるBのDNAの影響は強いようですし、これまでのB説イメージも依然として根強いです。そこで、「伊豆海峡」行き来が、今注目されるのです。舟を造り、海流・気象などを理解して操るのは知的レベルが高いです。しかも、数千年かけて雪と寒さの北海道の暮らしに適応しています。何故、極寒の地へ北上したのか、それは生活にとって、実は大変に豊かな海獣・鳥卵、魚と海藻が無人の地で得られたからでしょう。3万年前、北海道の暮らしに適応した「日本祖人」こそ先住民であり(アイヌは鎌倉時代以降)、もしかしたら最寒期(2.5~1.8万年前)後の暖化期ではなく、以前の暖期に入って行った可能性すら全く否定は出来ない、古い時代のその優れた海民性が、正に新説に合う有力候補なのです。

朝日新聞が、黒燿石を採取するための伊豆半島から東京都伊豆諸島の神津・恩馳島への行き来(最短約50km)(最新の原産地・年代分析に基づく)を、人類史の「謎」が眠るとして報じました(第1図)が、第2図のように黒潮分岐流を考慮し、海水面の約100m低下した当時の諸島が大島以外は陸地続きの部分が多かったことから、A,B,Cという行き来であればムリ無くできたでしょう。

諸島が晴れた日ははっきり見えていた事、行き帰りの太陽(時に御神火)、伊豆の山、北極星などの目標がはっきりしている事が大きな要因です。Aは、城ヶ崎~大島が最短の十数kmですが、漕ぐのが約5km/h、分岐流が約4km/hとすると、流されて大島に着かない場合は、房総の方に持って行かれて太平洋で漂流という悲惨なことになります(近代でも事故有り)から、もっと南の方から出発するのが良いです。Bの地域は、出来るところは海岸沿いに舟を曳いて行くと良いです、そして1泊。帰りは宝物を沢山積んで重い状況で、神子元(島)へ40数kmですが、これも流されますし変な所へ着いたら宝物を奪われるかも知れません。これらを考えると、岩礁の多い伊豆東部では、河津地区から出て帰って来るのがムリのない最良の行き来となります。しかも第3図のように、小学校の丘が目標として目立ち、居住条件も良く、今井浜は最適な発着場です。関東南部から東海地方の人々が物々交換に集まるとしても、かがり火に踊りのお祭り騒ぎにも良いです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 5595cdcede7b543a67c582efcd7d7660.jpg です

そして、伊豆はずっと船材木(枯野)で、付近は3万年も前の痕跡があある陥し穴猟(三島などで発見)で、有名な地ですから丸木や動物の皮利用の舟造りにも申し分有りません。さて、伊豆の歴史ではこの河津地区が実は縄文時代の黒燿石の集散地で、なんと工房まであった事が分かっており(見高段間遺跡)、河津東小学校は、グラウンドの黒燿石を片付けないと危なくて運動も出来ない宝物だらけだった凄い所なのです。ですから、縄文先代の「日本祖代」にもその基礎があったと考えて何もおかしくはないでしょう。問題は、日本中の子供達はもとより、当の元気な「段間っ子」ですら、世界の考古学会が驚き、朝日新聞が謎という日本始まり時代の祖先(「日本祖人」)の偉業をよく教えられていない事なのです。(なお、小学校にある縄文住居の見学などは、河津町への届け出が必要です)

天下のHarvard日本人論が、最新版で「縄文人のルーツは?」を削除しました。そりゃそうです、2代目のルーツは、親である初・先代の「日本祖人」に決まっています。問題は、①成り立ちです。本や博物館が、出アフリカ後の痕跡が定かでないA、B、Cの3方向からの混じり合い図を描いてますが、時代を変えて書き添えたところで、誤りです。下図赤線Jaのように南方から「日本祖人」が「曙海」-北部九州ルートで北上して行った、約2万年に及ぶ旧石器遺跡が示す一方向性、同様性が特色です。

日本祖代、日本祖人、曙海、北東ア平野といった時代の用語なしには理解できません。そして、②「日本祖代」の長い積み重ねが大変重要なのです。2万年前頃に北、西から文化・人が渡来していますが、人は一部の出戻り含む大陸人によるあくまで渡来(アイヌは、ずっと後の鎌倉時代以降)です。この約4万年前からの古い積み重ねの特色が、周辺に同じ種族が見つからない理由なのです。「曙海」から始まった、北海道・大本州・南西諸島の同様性こそ注目すべきであり、今や「最初のアメリカ人」候補でもあるのです。

贅沢美食の殿様が、「こんな美味いものが、この世にあるのか」と言いました。同じ物を食べたとして同じ感想を言う人たちが世界にいないところが、注目すべき点です。生魚を食す日本人には、明治時代にやって来た欧米人はもとより、2千年前のシナ王朝の人たちも、「曙海」沿岸の呉越人や対岸の倭人が、入れ墨して海に潜る、魚や海藻を食すヘンな奴と書いています。森のサルの暮らしから灌木疎林のサバンナに出て肉を食すようになり、海辺で魚介類を食すようになったのは大変化です。どうも新人(アジア)は湖・川に関係深く、南アの海岸遺跡は魚介を食しただけでなく、赤色オーカーを用い、ビーズ装飾品を使う最古級の知的レベルが注目されています。

もしかしたら、環太平洋移住(MPOR)は、海辺の暮らしの南ア発かも知れず、展開移住のルート上のスリランカで、これまで学者が無いと考えて来た「熱帯雨林内での暮らし」が4.5万年前の古さで最近になって驚きとともに発見されました。そして興味深いのは、南米高地の先住民が海藻を好むことです。入手のため下山して2週間程かけて行き来していることで、海辺の民が追い立てられ逃げるように高地暮らしになって行ったのでしょう。南アの海岸からアンデスの高地まで、欧米学者さんには余り注目されませんが、今、「最初のアメリカ人」問題で注目のBeringia沿岸の「昆布ハイウェイ」だけでなく、海辺の人類史は実は世界の歴史認識上、極めて重要なのです。 陛下献上の神饌は、鰒や海藻などが大切にされた歴史です。 目黒のさんまはその痕跡です。

現生人類の出アフリカ後は南方から台湾山地沿岸Bを北上し、「曙海」を越えて北部九州Aに家族で渡海して約4万年前に始まりました。引き続き列島を北上して「日本祖人」は、3万年前には北海道にまで拡がり、今や更にアメリカ新大陸に進入した可能性が世界で注目されています。この拡がりの一方向性と島国での同様性、熟成が特色です。九州・南西諸島と当時の「北東ア平野」沿岸に囲まれた「曙海」の時計回りの移住からの発展であり、2.7万年前の日本祖人・石垣人と似たような南方系の人々が畔に居て北海道にまで拡がった、皆が親族のような始まりが、日本の特色の秘密なのです。1万件を超える旧石器遺跡が示しています。

本や博物館によっては、樺太、朝鮮半島、南西諸島の3方向から渡来して混じり合ったかのような、しかも最も可能性が高い本図のルートの無い、誤解を与える図がありますが、違います。そして、①家族で海を越えた民である事は、造舟・操舟・進取の知的レベルを示し、②曙海の畔、東南アジアに至る交流はその後も稲・鉄の伝播など大きな影響を及ぼしています。人類史の流れ、当時の地形と環境、そして新たな用語によって、4万年からの民族史を科学的に辿れることが、世界驚異の、子供たちに伝えたい日本の特色なのです。お隣さんの4,000年の歴史?ゼロが一つ違います、当方は 4万年はっきり ですよ。

米Harvard 医科大が、南米アマゾン古部族のDNAが北米やユーラシアに無くSundaland周辺地域で見つけましたが、太平洋を直路横断と“冗談”に言って終りにしました。南米は前回の海獣毛皮人も驚かしてくれますが、下図中央、主にアフリカ、日本、ニューギニアやカリブ地域などで見つかる白血病ウィルスの不思議もよく知られています。

上図左のように、日本では中央部でない所で見つかっており、縄文人からと言われています。このアフリカ―日本―南米をどう理解するかが、やはり説明がないのです。これも矢印の環太平洋移住MPOR説(祖代研究会)なら理解できます。さて、縄文人とすると、「最初のアメリカ人」問題で明らかなように、16,000年以前にアメリカ新大陸に渡って行った人たちには間に合わず、「日本祖人」がとなるのです。縄文時代なら勢いのいいシベリア狩猟族がどんどん入って拡がって居ますので消えないのも ヘンでしょう、疑問です。

また、近代になって南米には日本人が移住していますが、下図のようにこれほど広範囲に南米アマゾンなどに拡がっているのは疑問です。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は fe71d90038c56d6ec861598422b20abf.jpg です

問題は今、日本では、何か古い事については縄文人と言いますが、上図右上のように父母の「日本祖人Nihon Sojin」(約4~1.5万年前)が居ますので、おかしいです。アイヌだけでなく、何でも縄文人(実は2代目)と言っているが世界に誤解を与えているのです。先頃成功した3万年前の航海も「日本祖代」の事であり、到着したときから「日本祖人」なのです。

環太平洋の南米南端、流石の侵入欧州人もびっくりしました。裸に海獣の毛皮をまとっただけの人々の暮らしがあったのです。かつては4,000名位いたのが、昭和5年頃には100名にまで激減していました。祖代研究会は、 彼らが太古の先住か、 チリ沿岸~アマゾンの人々が圧迫され逃れて南下したと考えています(太平洋横断説派の人は、ポリネシアから舟で来たと言うかも知れませんが)。

注目は、当時は『仙台以北』で知られている海獣、その毛皮を纏うだけの万年前の暮らしの痕跡です。骨と毛皮で住居や舟も出来ます。つまり、人類史注目(前回報告)の北海道、ベーリング地峡は、栄養ある肉食・卵に植物の昆布、衣服と舟など原始の暮らしがはっきり認識されるのです。そして、Sundalandから北上~南下の南米南端まで、環太平洋移住(MPOR)説、特に、北海道東部「日本祖人」の子孫が、舟による最初のアメリカ人のみならず、南米南端まで関わっていると考えられるのです。

キーワードは、舟と海人ですが、38,000年前!の「日本祖人」は、静岡・伊豆半島(河津町が中心)から、東京都・神津恩馳島まで舟で黒潮分岐流を越えて行き来し黒耀石を交換交易しており、地域では陥し穴で鹿などを捕らえた遺跡から、相当知的な文化レベルを持っていたと考えられます。

問題は、子供たちがこれらの事を何も教わっておらず、また、世界の学問オリンピックに、説を唱えて学者が参加していない事です。

始まりは米Harvard医科大が、南米アマゾンの古部族のDNAを調べたら北米に見つからずびっくりし、結局、豪州・印アンダマン諸島で見つけた事でした。当ホームページは、Sundalandと日本研究から南米南端までの①環太平洋MPOR説を唱えてますので驚きません。更に、無氷回廊が開通する前の遺跡が南米チリで見つかり、「最初のアメリカ人」問題のシベリア定説が揺らぎました。

かねてから米学者の④ソルトレーン説はあり、③太平洋横断説も登場してます。流石にアフリカから直路の大西洋横断説はありません。③の横断説は、イースター島に住んだのが400年前程度ですから万年前の議論には参加できないと思えますし、④も多くの学者さんは相手にしないです。今、人類はベーリング地峡で長い間滞留し温暖化した1万数千年前に最初に北太平洋沿岸を舟で南下したと考えられています。問題は、 3万年前からの 北海道「日本祖人」が1.単独で北米沿岸へ 2.ベーリング地峡でシベリア族と混ざって南下 3.関わらず です。なお、縄文人も、まして鎌倉時代からのアイヌは、問題外です。

我が国ではこの人類史の謎を教えられもせず、答えを求める研究も今の体制では有り得ません。人類史オリンピックへの参加どころか、あることもよく認識されていないのが問題なのです。文科省だけでなく環太平洋TPP唱導の経産省も認識していないことが残念です。

日本始まりの祖先創業の話は、驚きですが教科書に殆ど語られません。今回ニュースに飛び出した下図の地形は正に日本始まり時代に近いのです。出アフリカの現生人類史から、当時の「曙海」「北東ア平野」と日本列島の繋がり性ある当時の姿を知れば、ムリ無く理解できます。

狭かった津軽海峡、長野、恩馳島や遠軽白滝が黒耀石の宝庫であり、対馬暖流が流れ込まない偶然の恵みで、列島南北が同様の上に、早くから関越ルートが開かれ、北海道中央以南で最古の石器(前回報告)が同様である始まり時代の約2万年の文化の基層が築かれ、2万年前頃の北・西からの人と文化の流入を吸収して縄文時代の熟成となりました。この事がその後に色々な人と文物が渡来しても吸収し換骨堕胎して受け入れ、発展して来た秘密の核心でしょう。九州からの「日本祖人」の北上南下拡がりが基本であり、アフリカからの流れが不明な大陸から、時代を異にする北・西・南のよく見る3方向渡来図は世界に及ぶ誤解の元です。そして北海道東部からの北上は続き、海人の特徴(九州渡来・恩馳行き来)が、太平洋岸を16,000年以上前に昆布ハイウェイから舟でやって来たという最新の「最初のアメリカ人」研究の注目なのです。

そして、日本よ歴史始まりの原点に還れと言われているようです。

ハーバード大H教授は「日本文明」と言い、日本でもDNA分析や言語の孤立性から、日本は隣近所と違うという理解です。では、何故なのかという答えははっきり言われて無いようです。人類史を考えれば、そんな違いは千年2千年で生まれる訳でなく、約4万年前からの「日本祖代」に答えはあります。下図の左上の素朴荒削りの石器は、「曙海」の畔の言葉をしゃべって、始まりの九州から北海道まで約1万年で拡がった「日本祖人」とその使用した石器は等質で磨製は世界驚きのモノです。その後の変化は右下のナイフ形で、洗練されており、先生方は僅かな特徴ある違いで形式を分類されますが、青森弁と大阪弁程の違いも無い同様な物で、しかも分化が今に繋がっています。

その後、地球環境の寒冷化で大型動物が消えて中・小となり、北の沿海州の方からと大陸内部の方からの文化の南下の影響もあり、尖頭器・細石器が生まれていきます。日本の始まりをこの3方向からと描いている図が一般的ですが、B,C,Eは根の無い大きな間違いの誤解の元で、南からの北上と定着に、その後の南北からの追加混合が、日本の特色なのです。この歴史を積み重ねた事が独自的なのであり、隣近所の「曙海」沿岸からは消されてしまった、見えにくいものなのです。

パリ大学で民族・社会学を学んだ岡本太郎は日本文化の最深部に迫り、太陽の輝き、荒々しい迫力・生命力、お互いに分かり合い易い、淡泊で諦観を有する日本島嶼文化を把握し、「曙海」の認識は無かったものの、台湾古族に、マレー(東南アジア)性を見ています。万博太陽の塔を制作して「インテリが何だコレはアメリカ、フランス、・・・日本にもないと批判されたが、ピープルが魅かれてやってきて喜んだのは、稲作文化、官僚システムに覆われ閉ざされたモラルでも、何千年か前の思い出が血に潜むもの」と言いました。岡本太郎が当時、「日本祖代」を教えてもらっていれば、「万年前の基層」と言われたでしょう。

そして今や、16,000年以前に舟で入って来たという新仮説の「最初のアメリカ人」かも知れないと世界の注目なのです。

日本列島の現生人類史は、約4万年前に「曙海」畔から九州に渡来し、3万年前には、沖縄~北海道にまで「日本祖人」が拡がっていました。明治人の親は江戸人、遡れば縄文人、日本祖人となります。

ところが、教科書では、図のA、又はBとなっていますが、欧米に合わせようとして日本の実情に合わずにおかしいか、先土器人と縄文人の間に隙間があり名の無い史上人がいるのです。そもそも、始まりの祖先の意義を踏まえず、旧の土器、土器より先、などと称するのは情けない話です。極めつけは、一流と言われる日本史学者が、C.「日本」と呼ぶのは西暦700年頃からであり、それ以前を日本人と言うのはおかしいという珍説です。明治人から最初迄遡れず、神武天皇は日本人でないというものです(尤も、存在を認めていないのでしょうが)。世界の歴史学者に、縄文Jomon人は何人かと訊けば、日本人と答えるでしょう。例えば、本州最古の人骨を「浜北人」と読んでますが、静岡県のそこの現代人も浜北人であり、用語になっていません。「浜北祖人」なのです。2.9万年前頃の姶良大噴火災害でも、氷河期最寒期(LGM)前後のユーラシア人の渡来や弥生時代のコメ持ち人の渡来を含めても、他国に見られるような入れ替わりという現象は起きていません。その特質は「追加と混合」で DNAや太平洋岸系言語が示してい ます。即ち、天皇陛下は万世一系で、人々は「日本祖人」から令和人まで基本的に一系と捉えて良い 繋がりある 歴史なのです。 そして、原点を考える場合、上図左下「北東ア平野」沿岸と「曙海」の用語なしには、実態を把握できないのです。

島国であったために、遺跡で約4万年前に遡れるのは恵まれた素晴らしい歴史です。更に 北海道「日本祖人」が、「昆布ハイウェイ」を北上し続けた 「最初のアメリカ人」の可能性も加わってもいるのです。 先史は、史実がよく分かっていないのではなく、用語を 加えて 正しくし、認識を明らかにする事が求められているのです。子供たちに教えましょう。

因みに、日本列島にも現生人類以前に旧人等が存在した可能性は有りますが、チンパンジーが居た類の話に近く、欧米人が大そうネアンデルタール人好きで、新人と交雑があったので一部その血を受け継いでいると騒ぎますが、そんなに祖先がアフリカ人であることが、嫌なんですかと言いたいくらいの話です。

出アフリカを果たした現生人類が、東南アジアを経て北上し、当時の「曙海」畔から約4万年前に九州に渡来し、3万年前には沖縄から北海道まで「日本祖人」が拡がっていた事は、1万件を超える日本列島の旧石器遺跡で異論ありません。

この始まり時期から「曙海」を重視する私とは少し異なりますが、長浜浩明先生は、図のDNA比較からいわゆる①中国・韓国ルーツ説を遠く離れるとしてはっきり否定し、②沖縄が南九州からの近縁であること、③アイヌは、列島2代目の縄文人の子孫ではなく、(鎌倉時代から)トリカブト毒矢使用で侵入後勢力を拡大したこと、④朝鮮半島のソウル人は、日中の混血であり、新羅人は元々海を渡って来た倭人であること、などでこれまで言われてきた誤解を正しておられます。類似の我が報告とも矛盾齟齬が無く納得できます。日本の始まりから考えましょう。北海道「日本祖人」は、「最初のアメリカ人」かも知れません。

日韓の争いはどうなんでしょう、アイヌを縄文人の子孫で「先住民」などと外国にも誤解させてます、沖縄独立なんてホントに言うのですか。日本史は応仁の乱頃から学べば充分って、思い上がりです。

静岡「沼津」の黒耀石が、 中性子放射化分析 で、38,000年前の物と分かりました。誰が考えても舟で沼津から「神津・恩馳」行きはないでしょう。ムリ無い黒潮分岐流越えと方向維持から、次代の「河津」縄文遺跡が浮かび上がります。舟で島を行き来していたベテランの集まり場であり、石器作りの工房です。一方、「三島」では1mを超える深さの穴数十個で鹿などを陥し穴猟してました。

つまり、舟で20km以上を行き来する河津と遠隔地沼津の交流、知的な三島の狩り猟などは、毛皮のパンツにヤリを持って皆でウロウロ遊動する、住まいも無い人たちだったって、先生、ホントですか? フロリダに見られる暮らしじゃなかったですか?

我らが 祖先である 海の民性豊かな「日本祖人」は、決して野蛮な人たちでは有りませんでした。やがて、3万年前には、狭かった津軽海峡を越えて北海道の雪と寒さに適応し、何でも有った襟裳岬の「昆布ハイウェイ」から北方領土を経てアメリカ新大陸へ、舟で入っていった最新学説の「最初のアメリカ人」ではないかと世界が注目しているのです。

先生、子供たちに教えましょうよ。

次のページ

前のページ

↑トップへ