いろいろなことのあった今年も暮れです。日本始まりの「祖代」痕跡を追って来ましたが、それが今と何の関係があるのかという声も無い訳ではありません。
さて、下第1図は祖代3万年前の栃木佐野市に残された石器群の痕跡で、学者先生が分析すると遊動暮らしの「日本祖人」のキャンプ痕跡ということです。

また、次の代である縄文時代の秋田大湯には、大きなストーンサークルがあり、葬送儀礼などのモノと考えられています。万年前のこれらは、何故か落ち着きの良い「ま~るい」形です。そして右図、栃木の餃子の皮も、人の集まりでも昔から「ま~るい」形が落ち着きが良いのです。考えてみれば、ライオンが車座になって獲物を皆で食べるとか、アタマの良いイルカが円陣で何かするとは見聞きしません。やはり受け継いできた大昔からのヒトならではの伝統だと思います。除夜の鐘がうるさいなどと言わずに煩悩を反省しましょう、 今現在、大変なお取込み中の議員さんなどもおられますが、まあ皆さん、 令和“輪”元年いろいろありましたが「ま~るく」納めてよい年をお迎えください。


下図の類人交雑図を見て分かるように、欧米学者さんは旧人と我々新人祖先との交雑に大変な関心を示しています。そして、2~4%のDNAの痕跡を問題にしていますが、あるやや乱暴な言い方をすれば、チンプと我々の違いは2.3%くらいだそうですから、DNAの違いはそう単純なモノでなく、正直それほど騒ぐことかと思ってしまいます。それよりも、赤枠のように、出アフリカ後に全人類は東西に分かれ、一部はすぐに北上したことでしょう。そして、それぞれが図のような一案の変化をしながら皮膚の色などに違いが出ましたが、大事なことは皆がDNA親族・兄弟姉妹なのであり、チンプはもとより旧人とは全然違うのです。

ところがなぜか赤枠内の研究ははっきりしません。リードする欧米学者もですが、北京原人からの長い歴史だと言いたいかのようにシナ学者も研究には熱心でないようです。まさか皆さん、アフリカ黒人が祖先だということがお気に召さない訳ではないですよね。そこで、日本人の登場です。この間は神社から神輿を担いで出てきたと思ったら、お彼岸には神妙な顔でお寺さんに行って墓参りをする、何と今じゃクリスマスケーキを買っていそいそ家路につき、若者は二人で上気した顔でレストランに行ったりパーティでドンチャン騒ぎする。そんなことを見聞きした外人さんは、雷門からあちこちを巡って、日本人はよく分からん変なヤツと呟いてます。それほど歴史をさかのぼらなくても、日本人はナマ魚を好み海の雑草を食う変なヤツと言われていました。しかし、この自然第一のおおらかさから、出アフリカ後の現生人類の足取りの研究には日本が期待されているのです。学校でも教えて、子供たちに動機づけましょう。そして、この時期ですので控えましたが、イエス・キリスト様はプチアジアド系ですから、当然の黒髪でヒゲを蓄え、褐色お肌のめパッチリであり、その想像復元図がすでに発表されています。


石器に残された(第1図)当時の暮らしぶりの変化から、わずかな発見人骨や遺物(海を越えた黒耀石採取・交換、陥し穴猟、釣り針などを含む)を基に、年表を作成する(第2図)と表題のように思われます。教科書では「旧石器時代後期」という用語ですが、当然に欧州とは違いますので誤解の元です。

始まりの「祖代」(Sodai)は、列島中に拡がって地域に応ずる海・川辺と内陸での同様の生活が確立された①前期、九州はもとより西日本に大きな災害をもたらした姶良大噴火と世界的な最寒期に襲われた自然対応の②後期、そして寒冷から温暖化によって草が減って大型動物が絶滅に向かい、中型以下の動物を獲るに適した細石器の工夫を携えた北方系の人々が北と西から影響を加えた変革の③晩期と区分されるでしょう。この長かった祖代は、現代の我々から見ても激動期と言って良いと思います。この時代を乗り越えた経験は大きな特色であり、縄文時代にも噴火や寒冷化・温暖化はありましたが、総じて定住・弓矢・土器の行き渡った四季に応ずる生活文化の熟成が果たされた「縄文文明」期になります。

「祖代」は原始時代とされ、何かというと縄文から語られることが多いですが、2万年を超える激動のこの経験なしにはとても縄文文明は語れません。何を信じタブーとし、良し悪しとし、旨いと感じ、物作りして交換し・・・、長かった祖代に基礎は築かれたのだろうと考えます。そして、 この祖代・縄文時代が習俗・文化の基層となって、その後の渡来文物や激動を吸収し発展させて来たものと考えます。


人類史は下図の番号をたどり、出アフリカを果たした湾岸②湾岸民・南方人インマレイドの人々がユーラシアを③北上し、降雪寒冷の地に適応して④身体そのものが変化した寒冷人モンゴロイド(吹雪寒風に適応した細い目、低い鼻と張った顎の平たい顔、熱放射少ないずんぐり、乾いた耳垢など)になって北の壁から波が返すように今度は⑤南下して来ました。

欧州正面では、南下したバイキングにこの身体の寒冷人化が無かった点が違います。そして、アメリカ新大陸には、3.2万年前には達していた北海道「日本祖人」が候補であり、北の壁で変化した寒冷人が東進して入っていったと考えられます。さて、日本人は最初の③の波に洗われて1.5万年間くらいの基盤が出来上がった後、寒冷人の波が北から西から及んできたものです。大陸は、寒冷人の波が南方にまで及びましたが、日本などの島嶼への影響はそれほどではなく、アフリカ、豪州アボリジニには殆ど及んでいません。なぜ、近い中国などの大陸人と日本人の言葉や暮らしぶりが大きく違うのかは此処に理由があります。多くの本や博物館が図で示すような、日本人は、西から北から南から人々が入って来て混じり合ったということなら、大陸の人たちとこんなに違うことになりません。

即ち例えば、A.まず味噌汁そしてお刺身、ご飯を食べ、豚しゃぶに箸を伸ばし漬物もという食事を、B.味噌汁・刺身・ご飯・豚しゃぶ・漬物をどんぶりに入れて混ぜて食べるのとの違いを、胃に入ればAもBも一緒だからと言っているような不適当な事です。どの順番、時期、量がとても重要な事なのです。某学者が、日本には古代に100万人レベルで西から大陸人が入ってきたと言いましたが、今では否定されています。西と北の玄関地域には当然に量も多く、荒々しく入って来たこともあったようですが。日本史を見ると、東北大震災の比ではない2度の南九州大噴火が祖代と縄文時代にあり、これを乗り越えた事のほうが大変で、総じて吸収し混じり合ったと考えてよく、大陸のように大殺戮・交代ということはなかったようで、 今や縄文文明とも言われる後に続く日本の島嶼文化の基礎です。 さて後は、「最初のアメリカ人」と北海道「日本祖人」の関連に注目です。


日本文化の基層は南方系であると言われて来ましたが、DNAはもとより下図のスンダランド、北東ア平野、曙海などの始まりの地形認識もなく、習俗の分析からそういう認識に至った明治以来の先人学者は素晴らしいことです。Tanya Smith前ハーバード・豪Griffith大教授が、DNA分析から現生人類がインドネシア・スマトラ島に7.3~6.3万年前には達して居たと発表しました(第1図)。

近年、豪州へは前回報告の壁画のスラウェシから、北廻りでの可能性が高いという発表(上図下部)があり、達したのも6万年前という数字が北部遺跡の発掘から出てきています。現生人類が出アフリカ後に東進し、沈んだ“人類史の補助線”と言われるSundaland から、台湾~九州とムリなく繋がり、「日本祖人」は3.2万年前には沖縄、北海道に達していた(その後アメリカにまで?)ことが理解できます。今、祖人はそのまま北上を続けて、舟で北太平洋ベーリング地峡沿岸から入って来たと言われる「最初のアメリカ人」候補になっています。

時代を付していても日本列島に3方向から入ってきたという図はよく見る博物館などの図は誤解の元で、基本は北上史なのであり、また、国境を無視して広範囲の人々を「ヤポネシア」などと勝手に呼ぶのは隣国とのトラブルの元です。加えて、縄文人はどこから、ルーツはなどという問いを立てて論じているのもありましたが、日本祖人後の2代目の縄文人は日本列島発に決まっている愚問です。当時の地形とともに、「日本祖代」、「日本祖人」という要語を設定認識しないことによる混迷で、祖先に対し失礼なことです。「スンダランド」と共にその重要性を子供たちに教えましょう。


ニューヨーク・タイムズが、インドネシア・スラウェシ島中部の洞窟絵が43,900年前という古さもさることながら、絵が鳥の頭のような人であり狩猟の場面を描いた世界最古の「神話的な」モノであることに注目しています。

約4万年前に曙海のほとりから、舟(筏)で多くの現生人類家族が初めて九州に渡って来て、3.2万年前には沖縄~北海道にまで拡がりました。そんな古い時代のことをと言う子もいますが、既に「神話的な」絵を描く知的能力は素晴らしく、時代は下りますがスラウェシ島南部で見た洞窟の中で舟を描いていたのも同時代の欧州では見られないモノで、驚きです。当時から100m以上の海面上昇で、東南アジア地域の大半島Sundalandは過半が沈んで状況解明は困難ですが、明らかに先人の文化がありました。これら壁画が示す認知力、造舟・操舟の知的レベルから、北上して来て九州に渡り、「日本祖人」が3万数千年前に伊豆の神津・恩馳島に黒耀石採取に10数km以上を舟で行き来して、何の違和感もありません。

毛皮と槍だけのひげもじゃ原始人ではないです、言葉もしっかり話していましたし、日本列島の山川草木、地形に名前も付けていたことでしょう。日本語は弥生時代から、北の土地の名はアイヌ(鎌倉時代頃から)がって、勘弁してください、列島に拡がり基礎を作った祖人・2代目の縄文人(日本史期間の92%)が怒ります。


 出アフリカ後の現生人類が、東進後に北上して「曙海」畔を時計回りに進み、約4万年前に北部九州に渡海して来て北上し拡がりました(第1図)。

そんな大昔の始まり「日本祖代」ですが、1万件を超える旧石器遺跡と周辺地域の状況から、日本人の成り立ちが推察できます(第2図)。3.5万年前頃にはナイフ形石器が本州中に拡がりました。狭くなっていたとはいえ津軽海峡を越えた北海道の環境に適応することと、南のトカラ列島越えを含む沖縄への進出には長期間を要していますが、同様の「日本祖人」が3.2万年前頃には概ね列島中に拡がった事①②③が注目されます。その後、北・西(南も?)から渡来・出戻りがあったのでしょう、ナイフ形石器に地域差を生じています④。

そして注目すべきは第2図、最寒期(LGM)を終えて温暖化した「日本祖代」末期の1.7万年前頃から、⑤の細石刃(北)・尖頭器(西)という小石器を装着した高性能の槍などで環境変化に適応した中・小動物の狩猟能力などを向上させました。それらの石器の違いと④のような影響の波及方向の区分から、地域差を生じました。その後は、この国の人の成り立ちで変化の少なかった1.2万年間くらいの縄文時代の熟成を経て、渡来人数はそれほどでもなかったようですが、2,800年前頃から南方稲作の大きな影響が、再び九州北部から始まって北上することになりました。

その後の時代に、大陸と半島からの渡来人を受け入れましたが、実は呉・越系、百済・半島南岸系という「曙海」沿岸地域人の受け入れであり、これらのことは、日本人とは?ということだけでなく、対外関係を含めた日本史の考慮すべき重要な特質です。「曙海」認識の無い歴史観は、問題です。そして「国のかたち」は、基層となる南方から北上した列島人に 大陸人を加えたものであって、決して巷間に見る北・西・南の3方向からの混じり合いで出来たるつぼ国でもサラダ国でもありません。

それにしても、この細石器文化が始まって直ぐの16,500年前には青森・大平山元の無紋土器が生れ、やがて縄文時代へと途切れなく歴史が繋がっていきます。学界は、この私たちの始まりの祖先の呼称さえ無く放置していますが、名を付けない理由などない極めて不適当なことです。

サルと別れて700万年前頃に人類への歩みを始め、~20万年前頃にアフリカで今に繋がる現生人類に進化し、13~10万年前頃には広く展開してやがて出アフリカを果たし、学者が注目する早い速度で同様緯度のオーストラリアに数十kmの海を越えて6万年前頃には拡がりました。第1図、北上して台湾に5万年前頃、落葉広葉樹もあった「北東アジア平野」の「曙海」沿岸を気温の低下に慣れつつ北上を続けて約4万年前に家族で海を越えて九州に達し、さらに北上して3.2万年前頃には、北海道と一部南下した者たちは沖縄本島に達したと考えられます(北上し一部南下した歴史)。

始まり時代には、先が分からない遠距離の慶良間ギャップ越えは困難で、台湾からの黒潮流越えも家族では容易でなく、先島の2.7万年前の人骨は台湾から来たとは言い切れないでしょう(台湾の学者は、当時の先島に魅力があったとは思えないと言ってます)。この基本から、本や博物館展示で列島に①、②、③の3方向から来たという説明は、方向も、また、ばらばらな時期からも誤り、誤解を招きます。後々に渡来してくる事と3方向から混ざり合うかのような図は全く違います。刺身を食べ、汁物を吸い、次いで焼き魚を食べるのと、3つを混ぜて食べるのは違います。

また、第2図2-1の縄文先代の「日本祖人」に似た人が、当然に第1図曙海のほとりにいたでしょうが、現在の国境外の人も含めて仮に例えば「ジャパカン人」などと国境を無視し勝手に「人」を命名して呼称すれば、隣国との無用のもめごとの元です。現在の国境内の祖先を「日本祖人」と呼べばよく、また、その頃は7世紀じゃないので日本など無かったなどともっともらしいことを言うこともないです。祖人も縄文人も、①中国人 ②朝鮮人 ③日本人のどれかと試験に出せば、国境を尊重している限り世界は③を選びますから。他の問題は第2図2-2、世界でも稀な始まりと拡がりの歴史が1万件を超える遺跡で言い得るのに、無あるいは先土器時代と言って、始まりをはっきりさせない不適切です。現在のところ、約4万年前以前の痕跡ははっきりせず、先の時代は見つかっても直接の祖先と言えないい“旧人”でしょうから全く別の話なのです。仮に4.5万年前の“新人遺物”がはっきり発見されたら、始まりを4.5万年前に修正すれば良いだけのことです。また、「後期旧石器時代」と呼ぶのは国際的なハイカラなようで英語のその呼称の時代は、日本とは異なりますので、結局誤解の元です。縄文人は世界の学者が知っていますから、先代の「日本祖人」Nihon Sojinは、約4万年前から1.5万年前だと言えばいいのです。すると「アンタの所は、始まりが言えるのか、凄いな。境はっきりの島国だからな」とびっくり羨み感心する事でしょう。始まりの約4万年前も第2図2-2、3.8万年前と本などにはありますが、一見厳密そうでむしろはっきり誤りです。確かに現在の日本最古は関東・東海の遺跡で3.8万年前ですが、北海道に拡がるのに数千年、台湾から九州が1万年を、まあ要しています。対馬に来て関東に直ぐに達する筈もなく常識から約4万年前と大数表現するが妥当なのです。

それにしても第2図、日本史の60%を超える期間を等閑に付してる現状は祖先に失礼なだけでなく、学問的に誤りです。まあ、最近はやりの宇宙ダークマターの重要性を思ってください。人間の本質変化は期間を要します、この長い期間に、正しい・誤り、美味い・不味い、好き・嫌い、美・醜感、タブー・・・などの重要な基本が言葉とともに形成されたことでしょう。その後の日本文化に特徴的な外来文化の取捨選択・換骨堕胎の基層が作られたと考えます。縄文時代を含めるにしろです。それに、なんと言っても相変わらず未だ縄文人は何処から、ルーツは?という愚問を立てて独り相撲している書が後を絶ちません。2代目なんですから、どこからも来ない、日本列島発ですし、ルーツは日本祖人に決まっています。明治人は何処から、奈良人は何処から、・・・そんな問いは意味ないことを分からなくさせているのが現下の大きな問題です。問いは、日本祖人は何処から、いつ、どのようになどにならねばなりません。そして、無土器時代人、先土器時代人、後期旧石器時代人など呼ぶ事が適切でないと感じられるように、「人」、祖先の意識を等閑視していることが 現下の時代呼称の大きな問題です。 ジャワ原人や北京原人の方がよほど「人」に注目していいぇ良いくらいです。列島への南北からの人の出入りはずっとあっても、現生人類「「日本祖人」から縄文人、・・・と入れ替えもなく続いているとみられていますので、極めて重要なことです。

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さて当時は、対馬暖流がまだ日本海に流れ込んでませんでしたので、北陸など日本海側に大雪が降らず、また長野に貴重な黒耀石が出たこともあって、本州中央の関東・甲信越が早くから繋がっていたことは特筆すべきことでした。 実は日本の国柄となる地域特色なども既に日本祖代に生まれ、骨格が形作られて来ていたことが旧石器の形式の少しづつの差異で分かります。最後に、DNA分析の専門家が「日本人とは、分かった」と本などで言いますが、おかしいです。仮にA地点、B地点、C地点の人のDNAが分かっても、どちらがどちらにどう移動したのかはDNAでは分かりません。始まり時代の出アフリカ人は、一般的には昼夜夏冬の気温差が厳しくない沿岸から川を遡行し上流奥地に達して残した遺跡もあるでしょう。海越えのオーストラリア行きの速さが示しています。照葉樹林の内陸奥地間を移動するのは、比高差・道なき植生繁茂・猛獣害虫など、赤子連れには大変です。沿岸汽水のマングローブ・落葉広葉樹域の海水面が低下した砂浜を歩き、舟も利用しての方がよいです。
第1図、「伊豆海峡」の神津恩馳島行きが示しています。

また、第2図下のように、DNAでは欧米的な小野田議員、中国・台湾的な金さんが、実際は日本人以上に日本人と言われ、日系4世君が仮にDNAはお二人よりも縄文人に近くても、日本語も話せず好み考え方はアメリカ的という問題があります。DNA分析の解釈は万能ではなく、日本人とはの血だけでないソフトの重要性があります。また、日本史は、そんなに大規模な民族移動渡来があったとは考えられていません。基本的に緩やかな渡来定着と大きめの文化影響です。日本中にマクドナルド店、スタバ店があったことが1,000年後に遺跡で分かっても、アメリカ人が大進出していた、子供たちのDNAが欧米化していたと解釈するのは誤りです。大事なのは実際の暮らしぶりです。

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第1図、北海道の地名を今は何でもアイヌ(鎌倉時代以降)のと言うのもはっきり誤りで訂正を要します。日本祖人、次の縄文人・・・などが舟を造り操作する、多数の陥とし穴を備えて動物を獲る、芸術的な土器を作るなど、あれだけの文化を示しているのに、山、川、動植物、・・・に名前を持たなかったなんてあり得ず、「日本祖語」の名前が有りました。全部アイヌが新しくしたなんてアリエンでしょう。そして、第1図、北海道の日本祖人は、千島列島からにしろ、樺太から北上したにしろ、世界が今注目の「最初のアメリカ人」として入って行った可能性があるのです。

このように大事な祖先、私たちの始まりの歴史が不適切なまま誤解に満ちて放置されているのは良くないです。東京オリンピックを機に、始まり時代の諸問題の認識だけでも子供たちに持たせる必要があります。 

明治時代のコロボックル論争の先達は、DNAなどは全く思いもよりませんでしたが、人類史が「熱帯・南方」地方(坪井)から北上した数万年(清野)の長さ(第1図)のものであることに気づいていました、不思議な凄さです。 日本人は「列島内で生成された」 と考えていたことも驚きです。

が、現生人類がユーラシア旧人が居る所に一旦北上して、寒冷適応を果たした子孫が強い勢力となって南下して来た「go-backで行き来した歴史」であることまでは分からなかったでしょう。尤も、今でも大陸・半島からモンゴロイドが南下して来た一方向しか意識しない人が多く、日本列島人の始まりに、北(沿海州・樺太)から西(ユーラシア内陸)から南西諸島方向ルートからの3方向と描いている 博物館などがあり、 ①次いで②という北上史をしっかり認識しない不思議です。

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南方からと違って北と西ルートは、出アフリカ後の4~3万年前のルート痕跡もなく、そこにどうやって来たのか(寒く大変な内陸移動でなく、沿岸から上流に河川遡行したのではないのか)、また、時期が違うものをミソも何も一緒に描いて歴史考察上の問題はないかと考えない不思議です。刺身を食べ、次いでご飯を食べそして冷やっこを食べるのと、一つの椀に3つを入れ混ぜて食べるのと全然違うものであることが分かっていない事と同じです。この日本列島史始まりの2万年強は、文化形成上非常に重要であり、その後の外来文化の取捨選択・換骨堕胎の元になっているのです。

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さて、アジア人の親子を今も新・旧モンゴロイドと雑に呼んでいる問題があります。第1図の出アフリカ黒人が東進して、親である原アジア人の「インマレイド」(原初Sundaland地域人)になってから緯度の北上には長期を要し、寒冷適応して子の「モンゴロイド」となって再び南下展開して來た(欧アの東西展開も含む)人類史は、基本的に「北上後の南下混合史」(欧州正面も)なのです。親に注目せずに2代目の子供である南下モンゴロイドに「古」を付した雑な命名は、モンゴル・ジンギスカンに心底驚かされ、Chinaを意識する欧州学者の偏見であり、人類史の認識を大きく過つ元です。更に、第1図を見て分かるように図東端の日本~台湾~フィリピン(比)は、欧州学者の目には無視され勝ちで、第2図、 太古を考える上で必須の半分沈んだSundaland大半島、北東ア平野・曙海、花綵(はなづな)列島(沖縄・与那国島~千島、アリューシャン)、「米臨海」などを人類史の重要ファクタ-として意識していないことをも示しています。

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従って、第2図の男性遺伝子Y-「D」グループの痕跡が、アンダマン・チベット・日本列島・カムチャッカ半島南部に何故残っているのか関心もなく説明もできません。出アフリカ後、横方向に展開して世界の学者が驚く速さで第2図のオーストラリア(豪)に数十kmの海を越えて展開しましたが、気温変化の少なかったことと沿岸の移動し易さが大きな理由で、沈んだSundaland大半島が正に「人類史の補助線」として注目されます。その大半島から北上し、大陸沿岸・比~台湾東部沿岸5万年前~北東ア平野沿岸~九州・日本列島北上~カムチャッカに長期間かかって展開して行った訳ですが、確かな人骨・遺跡で線として繋がらないために学説として言えていない学会事情もあります。

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この点で我が日本列島区間は、約4万年前から3万年前までに九州から北海道まで北上展開したことが1万件を超える遺跡で導かれており、世界史上で重要なのです。そして更に今、32,000年前の北海道「日本祖人」が、カムチャッカから米臨海の沿岸を舟でアメリカ入りし得たことも人類史の大問題「最初のアメリカ人」を巡って重要であり、引き続き太平洋東沿岸を南米南端まで展開した事(MPOR説)もムリなく考えられるのです。現在発見されていなくても、諸事象から推測して太平洋西岸の北上、東岸の南下、 そしてMPOR などの「説」を考え 唱える以前に、考えるための コト・モノの新しい適切な名称を新作することに学界は余りにも慎重過ぎます。子供たちはこのような問題意識も、先達からの学説史も、世界の新説動向も何も教わっていないのです。

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従って、最近、「インド太平洋構想」とか、「自由貿易の環太平洋TPP」とか新し気に言ってますが、数万年前から先祖は既に歩んでいた流れが第2図からよく分かりますよね、温故知新。

北海道先住のコロボックル小人を巡る明治時代の論争は、文明開化後の近代日本学術の確立に向けた学問意欲の成果です。坪井教授は、白人、黒人等の人種や日本の土蜘蛛とさげすまれた人などに、人として何の区別もなく、人猿も同祖と言って真理追求に邁進しました。日本列島に人種交替などなく、最古人以来この列島で育まれた、また、人類起源地は熱帯地方、コロボックルはアメリカ先住民と関連ありなどという視野も当時として素晴らしいものです。これらの中には、現代学界が最近達した高みの事すらあります。(学問研究法の成果は略します)

清野教授の日本原人論は、 始まりに光を当てた 「最初の日本人」真理を探求された事もさることながら、実施可能な地道な研究を通じて、始まりの原(*祖)人の均質性や日本人が列島内で生成されたことの実証、また、2~3千年間という学界の歴史認識の中、列島史に数万年までの視野を持たれました。実はこの種の研究が、当時は皇室尊崇にいささかの誤解も持たれぬよう難しい状況で行われ、憎めない「コロボックル」名称は、研究のコードネームであったかのようにも感じられる良い面がありました。現代の学者が、コロボックルと聞いて相手にしないようなら余りに狭量で、今再び当時の論争に現代科学の光を当てて、成果の継承進化を図ってほしいものです。当時の先達が、刺されることも牢に入ることもなく、学者の良心に従い、慎重・地道かつ大胆に論争して真理を探求され、無論、過誤もありますが挙げられた成果の大きさに驚き、 その研究努力と論議に 敬意を表するものです。何しろ現生人類の出アフリカも、DNA分析も、黒曜石原産地特定も、太古の地域や環境の変化すらも全く知り得ず、発掘も極めての制約多い中での研究でしたから、凄いの一言です。こういう「コロボックル研究」のようなものなら、文系理系を問わず、多大な科研費投入に何の文句もありません。

さて、当時の皆さんに、北海道大学のアイヌDNA分析からの結果をお知らせしたらどういうことになるか、口角泡を想像するだに楽しくなります。現代の学者が 我らが 祖先の始まりに熱い議論もなく、さっぱり最古列島人からの先史を総合的に教えてくれず、先達の 研究の曲折や成果すら子供たちに教えないのが不満です。なお、参考にさせて頂いた三上徹也氏の「人猿同祖なり・坪井正五郎の真実」―コロボックル論とは何であったか―は、素晴らしい労作で一読をお勧めします。今、2.7万年前の石垣人遺跡の国指定という良いニュースも飛び込んで來ました。


北海道大学のDNA分析で鎌倉時代からのアイヌ(第1図)の伝承に、女性がアイヌに捕まって辱めを受けたことに怒って千島の方に去った“蕗の下の小人”コロボックル(第2図)の話があり、江戸時代から既に北海道のこの小人話はありました。

明治時代になって考古学が生まれ、札幌の竪穴遺跡などがアイヌの物ではないとして、学界でアイヌよりも先住人のコロボックル論争が起きました。アイヌの伝承を信じるかどうかでも論が分かれましたが、怒ったコロボックルが去り際にアイヌに言った呪いの言葉「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)」が十勝の地名の由来ですから無視は出来ません。 活字だったら間違いなく学界は相手にしているでしょう。明治32年、鳥居龍蔵が「北千島を調査したが、コロボックルは居なかったし話もない」として決着し、大正時代には小説が書かれて「妙な神様が居た」と扱われ、第2図のようなことになっていってます。

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しかし、東京人は知りませんが十勝の蕗の下の人は、第3図のようなものであり、コロボックルはアイヌより少し小柄であったという話もあります。何よりも今、「最初のアメリカ人」が、第4図のように来た太平洋の沿岸を舟で来た小柄な人となってますので、入れ墨し漁労に優れ貝を食したというコロボックルは大いに注目されます。16,000年前を議論しているときに、明治後半に行ったが居なかったというのは何の不在証明にもなりません。北海道先住コロボックルに再び光を!です。

最近、最初のアメリカ人は、第1図の太平洋岸の昆布ハイウェイを舟でやって来たと定説が替わり、分岐点ジャンクションのコロンビア川地域では、アメリカ最古の石器・糞石・人骨などが注目される第2図A地区ですが、別の点でも興味深いです。米大陸は、5~4千万年前には欧州やシベリアと繋がっていて、タイガー、馬、鹿などが入ってきており、やがてはマンモスも来ています。

ところで第3図の古くから居るピューマですが、赤道付近の暑い所では小型 で、寒い所では大型というA,B,C区分のベルクマンの法則どおりです。しかし、万年前でも新しい北米の人間は高緯度のA地区でも小柄であり、言わば入って来たままで法則と違います。もっと新しい極北のイヌイットなどは熱放射を少なくする高い座高・短足という第2図の別のアレンの法則が見られます。
イヌイットよりもずっと古いA地区の人たちは、小柄で舟で入って来てますので、「日本祖人」は有力候補なのです。

上図の南米は基本的にはベルクマン法則ですが、沿岸が不明なのが興味深く、小柄であれば正に「日本祖人」などの南下でしょう。古いシベリア人が、ベルクマン法則に従っていたのか、それともアレンの法則なのかはよく分かりません。因みに、北から入って来たアイヌの伝承では、北海道に古くから居た小人が追い払われたように伝わっていて、明治時代には学会の大論争になりました。データが沢山加わった今、このアイヌの伝承の小人には、最初のアメリカ人問題で、再び光が当てられるべきでしょう。

Human migration to new American Continents might have started from Hokkaido since 30,000 BP . The route ① was along the coast of Beringia and down to south. It’s also known as the “Kelp Highway” now. Original Japanese “Nihon Sojin” families crossed Akebono sea by boat and had started life in Kyusyu, then prevailed to Japanese Archipelago by 30,000 BP from Okinawa south to Hokkaido north. Ancient Akebono sea and Bering sea should be paid attention more as cradles for Japanese and American natives. The environmental situation of those for ancient people aren’t so clear though. One for Bering sea, cold water of North Pole sea had been stopped by Beringia land bridge and connected with warm sea around Hawaii.  

オリンピックのマラソン、競歩が札幌に決定とのニュースです。実は別の話ですが、新人類展開の最後の謎と言っていい「最初のアメリカ新大陸人」問題について、Japanすなわちそれは北海道を意味しますが、8月末にはっきり活字になりました。現生人類の最初のアメリカ新大陸への移住は、大まかに①~④まで説があり、②ルート(無氷回廊)が定説でした。

今は、新大陸西沿岸ルートが有力な新説になっていますが、図の②シベリアが「アジア」となっているように、新説でも欧米はシベリアから西沿岸へという認識だろうと思います。ところが、Scienceが最新の遺跡発掘のレポートにおける 研究者の発言 として、図右のように北海道発①を意味するJapanを活字にした訳です。アフリカ・ボツワナを13~10万年前に動き出した新人類は、出アフリカ後の南方から緯度の北上を重ねて約4万年前頃に渡海し九州に、3万年前には北海道の雪と寒気に適応し、「日本祖人」は北上を続けて舟で米新大陸沿岸から進入した有力候補と考えられるのです。

次代の縄文人は16,000年前の進入に間に合わず、無論、鎌倉時代以降(北海道大学のDNA分析)のアイヌは論外です。欧米の縄文人やアイヌという誤解を解くのはもとより、子供たちに学校が何も教えない、この世界注目の問題を教える必要があります。

豪シドニー大学チームが、我々現生人類の始まりを第2図アフリカ南部のボツワナ、約20万年前と発表しました。そして、そこから拡がり出したのは13~10万年前とのことです。驚きは、今住んでいるIkuntaさんは、父祖の地に累代が住み続けたかのようなDNAであることです。さて私たちは、大方の学者が同意する約4万年前に、第1図曙海を渡って北部九州にやって来たことが始まりです。

すなわち、シドニー大チームのように1,200人のDNAを九州沿岸から、まあ歴史ある出雲までの離島を重視して主に九州内で探せば、もしかしたら“日本のIkuntaさん”が見つかるかも知れないのです。肥前国風土記は値賀島・五島列島の白水郎(あま)は隼人・鹿児島に似て、その容貌や言語は周りの人と違っていると書いて、「曙海」ほとりの古い繋がりの痕跡をうかがわせています。無論、”日本のIkuntaさん”は、実際には東京に、あるいは北海道などに居るのかも知れませんが) 参考として、①小柄で、②「日本祖人」に似た男女を選べば効率が良いでしょう。(湊川人は、縄文人には繋がらないと学者先生は言っていますが、南方系ですので参考にはなります) そして、仮に万が一、南九州・高千穂地区で見つかったりしたならば、日本中が腰を抜かすでしょう。口に綿棒を入れて皮膚をこすり取れば、簡単にDNAを採取できますので、子供たちの教育のためにも是非、科研費を有効に使って探してもらいたいものです。

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