学校で教えてもらえなかった日本列島・現生人類の始まり時代、遥かな大昔の私たちの祖先の事。

これまでの諸報告を考え方を含めて要約いたしました。

日本列島人は、どこから、いつ、どのように始まって、そして、どのように進んで行ったのか。渡米まで含めての要約です。

その独特の歩みと文化の熟成は、近年、「日本文明」と言われていますが、その訳の一端もご理解されるでしょう。日本史は、○○時代を知ればとは何とも傲慢です。

流せば50秒ですが、適宜スライドを止めて、ゆっくりマイペースでご覧ください。

東京湾岸・市ヶ谷の縄文人が魚介好きだったはいいとして、福井の鳥浜遺跡人もそうだった、そして今回、内陸である福島・喜多方の1500年前の豪族もそうだった、DNAは縄文人と大きく異なるのにと学者先生を驚かせています。

そもそも、先祖の「日本祖人」である原始人は、ひげもじゃで槍を持った裸に毛皮のパンツ的な格好で獣を獲るのイメージのようですが、実は我が国の発見された人骨は意外に魚介類好きです。

日本史に詳しい欧米人は、アジアで急速に近代化した日本の不思議を感じ、言語・慣習・信仰などがどうも大陸・半島と違うそのFar Eastの外辺・孤立に原因があるようだと考えています。

そこには、4万年前から熟成されたモノがあることがよく理解されていないようです。

舟を造り九州へ家族で千を超える数が渡海した始まりと3万年前には列島に拡がり、西からはその後も舟で来れる人が来ていたのです。

歴史は海で暮らす人が陸の暮らしになって行くが、逆は攻撃でもされないと殆どないです。

DNAは兎も角、魚介好きは私たちの大事な特色で、魏志倭人伝の昔は入れ墨して海に潜る、少し前までは生魚・海の雑草を喰う変な奴と言われていました。

因みに南米の太平洋岸の高山に海藻を大事にし、好む不思議な人たちがいます。

誰だ、他所者にトロ、刺身の旨さを、海藻サラダのヘルシーを教えちまったのは!

(了)

 

日本人は何処から?という質問をする人が日本人と言われています。

世界が納得する話を繋げると自然に見えてきます。

DNAから、石器から、そして歪曲の排除です。

猿や旧人と認知・思考力が格段に違う現生人類・日本祖人が、我々の祖先です(旧人が僅か入ってますが)。

基軸は、アフリカ発、豪州への渡海到達です。

人類の広がりは、①渡海と②緯度の北上という問題があります。

これらを認識し、標題となります。列島史が4万年前は学界共通認識で、3万年前以前の石器は、北海道北部や樺太、で発見されていません。

北の樺太から北海道に入ったのは、2万年前頃以降と考えられています。

3.7万年前に、伊豆諸島に先祖の日本祖人は舟で行き来して黒耀石を採集し、世界を驚かせていますが、列島史の流れを考える上でも重要な実証史実です。

そして、古い石器の分布が日本祖人の北上を示しています。

(了)

 

4万年前頃、曙海を越えて家族で九州に3万年前には北海道にまで拡がった日本祖人は、3.7万年前に神津・恩馳島の黒耀石を採取しに「伊豆海峡」を舟で渡って行き来していたことが、ホントかと言われる世界の驚きです。

当時は海水面が数十m低く、伊豆諸島は今より陸地が拡がっていましたので、この海を「伊豆海峡」と私は呼んでいますが、それにより世界の驚きはそれほど不思議ではないです。

そもそもが渡海の民で、海峡行き来も北極星と太陽を目印に舟を進めれば迷子にならずに出来ます。

特に、宝物黒耀石を積んだ帰りの重い舟を北極星に向けて進めれば帰れ、しかも縄文早期から確認される、黒耀石の集散根拠地(縄文中期)で目立つ丘陵の見高段間遺跡が、恩馳~北極星の正に線上にある事が重要です。

半島側から流れのある海峡を太陽を目印に対岸に渡り、今の諸島海岸の歩けるところは舟を曳き、要すれば海岸で一泊、目的地で日中に採集して、暗くなって北極星を目指して仲間の所に帰れば、変な所に上陸して襲われて宝物を奪われる事もありません。

世界の皆さん、日本祖人の海峡行き来は、ホントです。

蛍光X線分析装置などで、科学的にも実証されています。

(了)

前回、4万年前に九州に渡海して来た日本祖人の早い段階における日本の中央部の連接、即ち新潟・北陸と大関東の結びつきを、当時は前者に大雪が降らなかったことや中央山地の黒耀石を挙げるなどしてお伝えしました。

下図左で分かります様に1,500万年前(!)に観音開きが閉じるように日本列島が出来ました。

日本祖人の時代から今も中央部が特異な意味を有していることが関連付けられるのです。

次に、旧人のデニソワ人は、アジアのネアンデルタール人とも言え、古いSundaland地域系の人のDNAに4%くらい含まれる交雑が知られています。

そして現生人類が結局生き残ったのは、運動能力、何よりも記憶・言語を司る「小脳」による思考力の差だと言われていますが、それと共に「犬」のせい(パットシップマン本)とも言われています。

日本の発見最古の飼い犬は「夏島貝塚」で見つかっています。

現生人類が列島に来る前の大陸と陸続きであった昔に、デニソワ人が来ていた可能性は無いわけでは有りません。

そして前回は北海道に拡がるまで、降雪寒冷地に適応していくために1万年も要したとお伝えしましたが、もしかしたらデニソワ人と日本祖人が、いや祖人・犬のペアが、争って拡がるのに1万年を要したかもしれないというロマンを付け加えます。

いずれにしても、日本史は○○時代からで十分なんて傲慢です。観音開きが閉じる遥かな大昔から今に繫がる歩みが有ります。

子供たちに伝えていきましょう。

(了)

4万年前頃の九州から、緯度を北上して北海道にまで拡がるのに1万年も要した南方発のご先祖は、①列島に来た時から既に知力・言語による食料獲得・操舟等の生活力はかなりのレベルでした。

注目は、②早い段階からの関東と新潟・北陸の連接です。対馬暖流が無く③日本海側に大雪が降らなかった、④中央山地の八ヶ岳地域で宝物の黒耀石が豊富に採れた、⑤東京湾は無く大関東陸地・河川が在り、⑥操舟行動力があったことなどによるものです。

因みにその後の「西部・近畿史観」で、此の列島中央部が軽視されていますが、東北と共に日本文化の厚みを担っており、江戸・東京も地勢とこの万年の連綿たる歴史があってこそです。

最後に北は、⑦降雪寒冷地に適応するために長期間を要しましたが、食料が得られたのが幸いでした。

この適応が、幸いにも昆布ハイウェイがあったことから、人類初の米大陸進入となったものでしょう。

日本祖人は、⑧2.9万年前の鹿児島姶良噴火の「広域大大」災害を乗り越え、⑨2万年前頃の大陸からの狩猟族(出て行った子孫含む)の北及び西からの進入・帰来を加えて混じり合ってはっきり地域差が生まれていき、土器と弓矢などでステップアップした縄文時代へとバトンが継がれて行きます。

4万年日本史の約6割の期間を占める「日本祖代」の大半は、⑩列島中の言葉の違いが少なく、かつ重要なことは、⑪何が、正しい・好ましい・許されない・信ずる・大切、といったことに共通性のある文化・心情の厚みが出来たことでしょう。

その後の激動を乗り切り、世界で「日本文明」と言われ出していますが、大花綏国の長かった始まり祖代の意義は大きく、子供たちに伝えねばと思うのです。

(了)

 

世界に伍して存在していく時代は、列島史の始まりを先ず見つめる、子供たちに伝える事からでしょう。

例えば縄紋土器は、世界の注目・高い評価を得ていますし、更にずっと前の日本祖人の石器は匠の技の原点と言ってもいいでしょう。

祖先は、明らかに4万年前という大昔に曙海のほとりから舟で九州に渡海して来てます。

3万年前には沖縄から北海道まで列島中に拡がっていますが、途中の3.7万年前頃、伊豆の神津・恩馳島に舟で黒耀石を採取に行き来していて、世界をびっくりさせています。

原点を見つめ、子供たちに伝えましょう!

(了)

前回の内容から、下図の渡米Aタイプ論も掲題に関係し、図右の4つの「無い」が我が結論です。

先ず第1は、降雪寒冷地問題です。米Harvard医科大は、アマゾン古部族のDNAがSundaland・豪州地域の先住民に近いという驚きの発表をしました。

此の意義は重要で、降雪寒冷地適応をしていない古い人がアマゾン流域に今も居るという事です。

万年の昔に人類が太平洋を直路横断したと考えている学者はいません。

そして、Aタイプ渡米論を知ってない人はいても否定する学者はいません。

最後に、一部に縄文人が直路アメリカ大陸に渡ったと言う人が居ますが、渡った大陸で成立するだけの多数の家族が直路渡ったとは思えません。

これらから、実は日本人は何処から?は、海の昆布ハイウェイをボーリング調査しなくても、降雪寒冷地適応のDNA変化とは何か、いつ頃からか、また、アマゾンの古部族とはどういう人たちか、ということによっても人類史の流れの中で考えられます。

この4つの「無い」でなく、Aタイプが「有り得た」ことをサイトでは既に報告しています。

千島列島は、行くての次が見えていた食料豊かな処女地でした。

実はベーリング海沿岸は、真冬の気温に想いのほか差が有りません。また当時は、北極海の冷水が地峡で止められてベーリング海に流れ込まない、今と違って温かくもありました。

複数の考古学的な事象から人類史の課題に迫る「理論考古先史学」の仮説であるところのMPOR(Migration along Pacific Ocean Rim)説と日本祖人渡米説を、相互に関連するものとして提示している訳です。

(了)

 

今回、カリフォルニア大学(Berkeley)研究者が、米先住民のシャベル型門歯は、2万年前の最寒冷期にベーリング地峡を越えて渡米するのに、お母さんの乳から脂肪やビタミンDを摂取するための突然変異だったとサイエンス誌に発表しました。

現在、人類の最初の渡米は、ベーリング地峡南岸の昆布ハイウェイだったろうと言われています。

他方、欧米学者は、シベリアから来た下図のBタイプのイメージを持っています。

しかし、今でもシベリア内陸の真冬はー60℃で人の死亡がニュースになっており、ムリです。

2万年前の渡米となれば、3万年前の北海道からのAタイプを、そして言語を含めた環太平洋の近似性に注目して欲しいものです。

さて、日本人は何処からについてはよく縄紋時代から論じられてますが、Sundalandを考え、日本列島史の大半を占める上図の日本祖代・祖人を注目する必要があります。

末期には既に大陸から狩猟族が入って来ていますし、縄紋末期にも大きな移動がありました。

基本と言って良い形としては、①南西諸島・九州一部の「南部」、②東北過半・北海道の「北部」、そして③「本州」という3区分が、認識されると考えます。

そして、日本祖人は九州に渡海して来て北上し、北海道にまで拡がった一方向性の認識が重要です。

その期間の長さ、その後の推移を考えても、「日本祖代」は少なくとも文化的には列島史の基層ですからご注目を。

(了)

この度、石垣島で発見されていた27,000年前頃の人骨のデータから復元され、3次元プリンターを使って出力された、発見された「国内最古の顔」として、縄文前の「日本祖人」の一例が公開されました。

祖人は、4万年前頃に九州に渡海して来て、3万年前頃には北海道にまで拡がっていましたので、此の公開された顔のようなSundaland・南方から来た人々が、曙海の畔、日本列島中に既に拡がっていたものと考えます。

前回報告のように、伊豆ではそのはるか昔に黒耀石を採取に伊豆海峡を行き来していました。

当サイトでは、最初の日本祖人は北部九州へ渡って来たものと考えています。

さて、此の石垣人は、台湾山地から数十kmの黒潮を渡海して八重山地域に来たのか、それとも九州から南下して奄美、沖縄本島経由で石垣島にたどり着いたものか、2通り考えられます。

27,000年前なので、その頃には台湾山地から直路来ていたかも知れません、全く何とも言えませんが。

春から縁起の良い事です!

(了)

ナショナルジオグラフィック誌が、アフリカでの30万年前の現生人類・新人に係る発見を含む最新状況を4月号で特集しています。

日本列島史もしっかり世界史に位置付けられています。

問題は、①日本の始まりは南の九州から北海道への拡がりですが、時期をまぜこぜにして北からも同時期に来たような記述が国内資料にもみられる誤解です。

②千島列島が真っ白なため、普通の渡米有力ルートの認識が無いです。

特に、食料が期待できる手つかずの次の島が見えていましたし、せいぜい80km以下ですので、これまでの人類史から渡っていかなかったと考えるのは不自然です。(あのプーチンはいませんでしたし)

③Sundalandは過半が沈んだため、アジア・オセアニア史の重要地域でありながら、そこからの北上という普通の重要ルートの認識が不十分です。

④「昆布ハイウェイ」を通ってもっと早く渡米していたと考えないと、あんなに早く南米南端まで行かないでしょう。

当時は、Beringiaによって北極海の冷たい海水がベーリング海に流れ込まない温海で、ハワイに繋がる海の北の「昆布ハイウェイ」を行った事でしょう。

更に、実は今でも北海道とベーリングの例えばナバロン岬などは4℃程度の差しかなく、シベリア内陸の-60℃と全く違うこともよく認識されていません。

いずれにしても、私は世界に対する日本学界の説明アピール不足だと考えています。

(了)

 

前々回、世界史上の驚異として3.7万年前に20kmの黒潮分岐流を越えて、伊豆諸島で黒耀石を採取するため行き来していたことを記しました。

しかし、始まりを考えますと4万年前に40km以上を越えて北部九州に来ていますので、日本人にとっては不思議でも何でもありません。

始まりは、五島列島であったも知れず、また、南西諸島・与那国島であったかも知れませんが、移動・移住の容易性から対馬の可能性が高いと考えています。

そして、3万年前にはほぼ列島中に拡がっていましたから男女で来ており、また、距離と水深が10m以上ありましたので舟(筏含む)で渡って来ています。

いずれにしろこの古さでこのように始まった日本祖人は、やはり世界史上の特色ある、特筆すべき人たちです。

海を越えて来たこの人たちが、北海道で留まっていて北上しなかったと考えるのは不自然です。

無人の島・沿岸をアメリカまで行ったことでしょう。

他方、史実の裏付けのないアイヌ「先住民」国会決議(平成20年)は、訂正です。アイヌ「人権尊重」決議へと。

対馬いや九州の人たちですら「先住民」などと、誰も主張していませんので。

なお近年になって、始まりの対馬の地、地域の文化の防衛対策が求められているように感じています。

(了)

 

(石田雅彦2018.4.4記事から作成)

スイス・チューリヒ大学と東京大学などの研究グループが、世界から集めた内耳(蝸牛含む)サンプル221から、3D立体データとして今回その分布特性を発表しました(発表図から筆者が作成したデータに人類足跡を加図したものが下図)。

チームは、人類がアフリカ起源であり、そこからの離隔がよく内耳の違いに合致して示されていると本研究の意義を評価しています。

また、インドネシア人は、先史時代は黄色の豪州やパプアニューギニアに近似しているが、現在の人たちはマレー諸島からの移民としています。

ここで注目すべきは、黄色の豪州と北米大陸北部地域の近似性です。

此の近似性の説明は、当サイトの先史時代におけるスンダランドから日本列島経由のベリンジア、南米まで、という日本祖人・子孫がしっかり含まれる環太平洋移動・移住MPOR説を裏付けるものであると考えます。

これまで報告してきました、Harvard医科大のSundaland地域と古いアマゾン部族のDNAの近似性やミトコンドリアからの人類史などとも併せてよく理解しうるものです。

(了)

日本祖人、日本祖代?聖徳太子も龍馬も松陰も信玄も・・・で、もうムリという人、何がゆとり教育だ、亡命しなさい!

世界史から見た日本史の1番の特色は、 37,000年前に黒潮分岐流を越えて伊豆大島へ渡り神津島の黒耀石を取りに舟で行き来し、かなりの日本語を話し、広域の物々交換をしていた痕跡が見つかる驚異的なことです。

そして、ミトコンドリアでなく、最初の日本列島「人男」(偵察)がいたことです。

しかし、祖先(現生人類・新人)である日本祖人は、4万年前頃に北部九州へ曙海を渡海して来て歴史が始まっていますので、この大業も理解できます。

次の特色は、そういう早い段階で、関東に最も人が多く、かつ関東・甲信越が連接していた事、即ち太平洋側と日本海側が併行し、南西諸島へも発展していました。

時間は1万年かかりましたが、北海道にまで生活圏を拡げて「この国のかたち」が出来上がり、更に北上して行ったことです(おそらく、昆布ハイウェイを通ってアメリカ大陸一番乗り)。

そして、その歴史の痕跡である旧石器の進化と分布を考えると、北海道、東北、中日本、西日本、南西諸島といった違いのある今の特徴が、万年の昔に原型が概ね出来上がっていたのです。

その理由は、万年前の人々の列島への進入の時期、暮らしぶりの違いによるもので、最初の南方海の民系の所に大陸の狩猟族の人たちが、その後水稲を作る人たちが入って来た混じり合いの織りなした模様なのです。

列島中に拡がった最初の1万年間から、縄文時代の前の日本祖代という2万数千年の間に東北大震災など比較にならない西日本の大災害を乗り越え、東は太平洋という行き止まりの地で今や「日本文明」と世界で呼ばれる熟成がなされました。

日本祖代の基礎の上に、土器が生まれお米が仏教が律令制が鉄砲が入り、黒船が来て、海外進出し、進駐軍が、旅行者等が来て、今があります。

何故、大陸・半島の人たちとちょっと違うと世界で評されるのでしょうか、忘れられがちな始まりの日本祖代の物心の暮らし振りにもっと注目すべきと考えます。

日本史は○○時代から知れば十分という人、傲慢ですよ、来年の入試には落ちますよ。

(了)

祖先の日本祖人(Nihon Sojin)は、4万年前頃に九州に渡海し3万年前頃には北海道にまで拡がっていました。

当サイトでは、ベーリング海が、地峡Bringiaによって北極海からの冷水が流れ込まない温海であった事を一つの理由に、日本祖人が、食料豊かなKelp昆布ハイウェイを経て初めて渡米したと考えています。

千島列島は次々に島が見えていましたし、Kelp昆布ハイウェイは、食料が豊かでした。帯広沿岸とベリンジア沿岸の真冬の気温は、思いのほか差が少なくてシベリア内陸の—60度Cとは比較にならないです。

今回、カナダ西海岸のCalvert島で、ハカイ研究所・ヴィクトリア大学McLaren教授によって、13,000年前の日本祖人と思われる足跡が29個発見されました。

縄文人を、その生活が全国に定着したことをもって13,000年前頃からとすれば、この足跡は日本祖人となり、土器発見の16,500年前からとするなら、祖人の子孫の縄文人の可能性がとなります。

今回の足跡は、Kelp昆布ハイウェイからですので、海の民系の日本祖人の方が、シベリア内陸狩猟族系よりも可能性が高いと考えます。

万年の昔に、シベリア内陸狩猟族のマンモスハンターが、舟を操る沿岸の海辺の暮らしをするのは、思いのほか難しいものなのだと考えていますので。

(了)

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