4万年前に海を越えて九州に渡り、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本列島史始まりの日本祖代は、正に激動でした。
図1
当時の古環境の推定、見つかった旧石器遺跡(約1万箇所)の分布・位置(中小河川・湖沼の傍)・様子や遺跡数の急増減、遺物(石器)の石材や種別(叩く突く切る掻く)・型式・持ち物の組み合わせ、その変化などから大昔の暮らしが推定出来ます。
注目すべきは祖代の中期及び後期の共に初めであり、①鹿児島の姶良大噴火の影響、②北から西からの人と文化が流入という正に激動であって下写真の通りです。
図2
特に、列島に拡がった日本祖人の所に、北から西から、始まりと同様の南からも新しい人と文化が及びました。
残された石器を見ると、違う形式の石器群を使う北と西から入って来た部族には境界が出来ていたようです。(安蒜政雄 日本旧石器時代の起源と系譜 から文責筆者)
それでも宝物の黒耀石が列島中央部にあったためか、関東と甲信越が早くから連接していました。
東京湾が陸地だった広大な関東平野は、北側と西側からの行き着いた接点として混在し、人も多かったのです。
対馬暖流が未だ北上しないこの時代は、日本海側に大雪が降らなかった事が、まだストーブの無かったこの時代には大変ラッキーでした。
出雲と遠く離れた東北の言葉に共通性があったり、関東は混み合い、また、列島中央部を境に東と西で今もお雑煮の餅などや色々な物が違う原型が万年前からでは思わせる類似です。
そして他の点では、ゆっくり拡がった曙海の事です。
温暖化の海水面上昇で、対岸がどんどん遠くなって行きましたが、もとはと言えば畔の遠い親族ですので、その後の五島、対馬を通ずる関係は納得です。
先史必読の「魏」志倭人伝では変なヤツ扱いですが、曙海の畔の人々である呉・越、江南の海の民とは近いです。
広島の呉・呉服・越前カニ・越中褌・越後屋さん、江南市・(平塚)江南高校・・・半島含めてみんな曙海繋がりです。
そして内陸発の「蜀」はもとより、倭人伝の「魏」も日本では見当たりませんね、不思議ですが、内陸狩猟の民との違いなのです。
私たちのDNA分析では、江南と共に山東半島の名前も出ますが、曙海の意義をよく示しています。
遥かに時代を経たその後も遣隋・唐使などの関係が続きました。
行くのは大変だったですが、向こうからはそれほどでもなく、兎も角も対岸の人たちが戦乱を逃れるなどして幾度となく渡来しました。
かつて、縄文人のルーツが探されましたが、結局、何処にも見つかりませんでした。
そりゃそうです、南方Sundaland発の日本祖人にこのような激動の混じり方をした独特な「日本列島ブランド」ですから。
図1再掲
ところで上の図2のように、北の何も無いと言われた襟裳岬の前は豊かな昆布ハイウェイでしたが、これに関しては別の機会に。
(了)