「日本国記」は凄いらしい!

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未だ出版もされていない、私たちに中味も分からない日本史の本が、amazonの驚きのトップを走っているらしいです。

アフリカを出た現生人類が、南方から北上して来て、4万年前頃に多くの家族が舟で曙海を渡って九州に来て、その「日本祖人」が3万年前頃には北海道にまで拡がっていました。

今や優れた文化が有った事で何かと話題になる縄文人の先代、私たちの祖先です。

日本祖人は、海水面が低下して陸地が増していた伊豆諸島へ黒耀石を採りに舟で37,000年前頃から行き来していて、世界の考古学会を驚かせています。

今、高校生が、いや大学生が、黒潮分岐流の流れる20~50kmの「伊豆海峡」を手作り舟で、帰りには黒耀石をたっぷり積んで行き来できるでしょうか?鹿の通り道に陥とし穴を何個もちゃんと上手く作って、家族に食べさせられるでしょうか?

始まり祖先の知的・体力的な能力にも目を向けましよう。

当時の赤ん坊を今、東京に連れて来て育てて、林修先生に教えてもらったら、大学に合格しちゃうでしょう。

あ、それとその後のいろいろな混じり合いで、僕は私は「先住民」だぞなんて言える人はまずいませんね、長い歴史ですから。

(了)

日本列島史は、アフリカを出た現生人類が、南方Sundalandを経て北上して台湾山地に至り、下写真の「北東ア平野」沿岸を更に北上して、「曙海」を舟で家族が渡って4万年前頃、九州に来て始まりました。

その「日本祖人」(縄文人の先代)は、当時対馬暖流が未だ無く、日本海側に大雪が降らない状況であったので、太平洋側と日本海側の両方から3万年前頃には北海道にまで拡がっていました。

この間、関東・甲信越は連接され、また、海水面の数十mの低下で陸地が増していた伊豆諸島の神津・恩馳島に、37,000年前頃から貴重な黒耀石を採取するため、舟で黒潮分岐流の「伊豆海峡」を渡り伊豆半島との間を行き来していた事が、世界の考古学会を驚かせています。

列島に拡がった約1万件の旧石器遺跡を元に、4万年前頃の始まりから自国の歴史が描けることは、正に特筆すべき事でしょう。

仮にそれ以前の人類の痕跡が発見されることが出て来ても、旧人や原人であって直接の祖先では有りません。

勿論、こんな永い歴史を有する人々とその子孫の集合体ですから、自分は「先住民」などと言える人はいません。

(了)

Youtube の標題について、2017年11月投稿の中に千島列島からベーリング地峡南岸を経て「昆布ハイウェイ」Kelp highwayを行った線が、初めて紹介されて描かれているのを見つけ、それは「日本祖人」(縄文人の先代)によるものとの下記の自説(MPOR説 2016年)を投稿しました。

A Japanese aged private historian, Nara Akira, has already proposed MPOR(Migration along Pacific Ocean Rim, from Sundaland~Japanese archipelago~Beringia~ seashore of North, South American continents) Theory since 2016, after studying theoretical examining the route of the “Kelp highway” from Hokkaido , Chishima(Kuril) archipelago , seashore of Beringia to Alaska.

The environment around the sea of Bering was much different at that era, because ice cold water of North Pole was stopped to flaw in Bering sea by Beringia.

So It was directly connected with the warm sea of Hawaii. Chishima archipelago could be seen from Hokkaido to Kamcatka, one by one.

Original Japanese, Nihon Sojin, before Jomon had reached Hokkaido by 30,000 BP and got accustomed to the similar life style to that of Queen Charlotte islands.

The history of Homo Sapience Sapience in Japanese Archipelago was originated in 40,000 BP, recognized by 10,000 Paleolithic sites in all over Japan.

It was also proved that Nihon Sojin crossed sea to Izu islands for collecting obsidian back to main land from 37,000 BP.

I think that they probably reached American continent through ”Kelp highway” before Last Glacial Maximum.
ブログ:新風アジアの楽園
Facebook :Nara Akira

最新の無人ドローン対潜水艦船が、下図左下のように初お目見えしましたが、そのデザインの水すましアウトリガーは大昔からあり、今も南方で使用されているもので波を行く安定性抜群の機能です。

上図右上のように日本列島史は4万年前頃、九州に舟に乗って多くの家族が渡って来て、3万年前には北海道にまで拡がりました。

そして上図右下のように、その「日本祖代」に道具となる宝物石器の黒耀石を手に入れるため、伊豆半島から伊豆諸島南部の神津・恩馳島に黒潮分岐流を越えて37,000年前から行き来していたことが、黒耀石原産地の蛍光X線分析によって明らかとなり、世界の考古学会を驚かせています。

それが伊豆半島のみならず、交換によって関東、いや長野でも発見されているのです。

最短でも20kmは漕がねばなりませんので大変なことでした。恐らく距離はもっと長く、潮流と風を利用したでしょうが。

残念ながら、国内最古の物は千葉・市川市の7,500年前の丸木舟で、2代目の縄文人の物です。

全長約7.6メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチで、長さは、今のプレジャ-ボート並です。櫂は、全長約2メートルでした。

低湿地にあり、住んでいた所でない、海の近くで作業を行う番屋のような所で見つかっています。

舟は木・皮・葦製にしろ、「日本祖人」がどういう舟で恩馳島まで行き来していたのかは朽ちて分かりません。

浜辺の海水面は、当時より数十mも上昇していますので痕跡はあっても海中という謎です。しかし正に海で活躍していた前述の縄文舟は、当時の技術が緩やかに進んでいたことを考えれば、大いに参考になるのではと思うのです。

アウトリガーは見つかっていませんが、舟が壊れてもアウトリガーは他で使われた、あるいは他の用途に転用されたことも有り得ることですので、何とも言えません。

九州に渡る際は、男成人だけで渡った訳ではなく、奥さんやノウハウを有し指図する爺さん、お産などに欠かせない婆さんや・子供も乗っていたことでしょう。

なお、津軽海峡はいまよりずっと距離が短かかったので、舟で渡るのが大変だったのではなく、降雪寒冷の地に適応するのが大変だったのです。

最新鋭のドローン対潜船同様に、当時、舟を造ること、天文・海象・気象の外洋を家族で渡ることが大変なノウハウを要し、高い知的レベルにあったことは容易に想像されます。

今、2代目の縄文人に多くの人たちが関心を示していますが、そもそも先代の「日本祖人」が、外洋を操舟し渡った第1級の知識人・技術者であったことにも思いを馳せましょう。

(了)

近年、世界の人類史では新たな発見が伝えられています。

アフリカ北西部で定説を10万年も遡る30万年前の人骨発見、あるいは東南アジアの人たちは定説より古く複雑な成り立ちであったことやアマゾンで全く近代文明と接触していない古部族が発見されたり、豪州の始まりもずっと古いようです。

万年を遥かに超える前の事に関しては、100mを越える海水面の上昇から特に沿岸の地形変化は大きく、消えてしまったモノもあり、また数字も当然にしてaboutな幅があります。

そういう中で、4万年前頃に九州に渡海して来て、「日本祖人」(縄文人の先代)が3万年前頃には北海道にまで拡がっていたことが、1万箇所以上の列島旧石器遺跡の分析から確認されていることは、世界人類史上で尺度と言える大変重要なことです。

また、九州に渡海しただけでなく、37,000年前頃、伊豆半島と伊豆諸島を、黒耀石を採るために黒潮分岐流を越えて舟で行き来していたことは、世界が驚く確定事象として有名です。

他方、最初のアメリカ人についても、かつての定説は見直されてベーリング海の北岸地域の「昆布ハイウェー」を舟で渡って来たと考えられるようになっています。

但し欧米の学者さんは依然として、シベリア種族が来たものと何となく考えているようですが、マンモスハンター狩猟族が、簡単に操舟の海民になったとはとても思えません。

大変なノウハウの継承が必要ですし、海藻を食べると腹を壊す欧米人もいますから。

従って、操舟力ある日本祖人による北海道・千島ルートが注目されてきています。

ところで何故、日本祖人が降雪寒冷の地に入って行ったのか、それは「北の漁場」があったからでした。

「襟裳岬」は、正にリッチな昆布ハイウェー傍(魚介・海獣・鳥など含む)にあるのです。

春夏秋冬、何もない襟裳岬だったら、誰も苦労して住み着きません。

被災の北海道が、今、世界人類史において注目されています。

(了)

南アの海岸の考古学的に有名なブロンボス洞窟で、下写真左のように、赤色“クレヨン”で石に線が描かれているのが発見(ノルウェー・南アの大学による)され、7.3万年前で世界最古のモノだと英BBCが報じました。

最近の発見(北西アフリカ)では、最古の現生人類が31.5万年前と大幅に古く記録を塗り替え(20万年前から)ました。

この線描発見の意義は、現生人類がはっきりと抽象的な認知力を有して意図的に描いた最古のモノと言う事です。芸術とまでは言えないのでしょうが。

更に、この人々が海岸で水産物を食していたことに私は注目します。サルともライオンともはっきり異なる暮らしです。

おそらく浅い海を越えてアラビア半島南端沿いに出アフリカを果たした種族の子孫が、数十kmの海を舟・筏で渡って6.5~5万年前には豪州に進出しています。

緯度が同様の暖かい(当時は氷河期)地域への展開は早いですが、北上して行くのは適応に期間を要します。

そして、4万年前頃に九州に舟・筏で渡って来て、「日本祖人」(注:縄文人の先代)は、3万年前頃には雪と寒さの北海道にまで拡がりました。

注目すべきは、この4~3万年前がおそらくまず動かない歴史的な意義なのです。

仮に万が一、アフリカのようにもっと古い痕跡が発見されたとしても、それは旧人であって直接の祖先ではないですし、新人の物だとしてもせいぜい当時の冒険者のギネス的な意味に留まるものでしょう。

これまで発見された列島の1万件を超える旧石器遺跡の状況からそう考えます。

問題は、上写真右のように世界でも極めて貴重な、異論のないこの4~3万年前という意義ある日本史始まりの内容を、子供たちに教えていない事です。

(了)

4万年前に海を越えて九州に渡り、3万年前頃には北海道にまで拡がった日本列島史始まりの日本祖代は、正に激動でした。

図1

当時の古環境の推定、見つかった旧石器遺跡(約1万箇所)の分布・位置(中小河川・湖沼の傍)・様子や遺跡数の急増減、遺物(石器)の石材や種別(叩く突く切る掻く)・型式・持ち物の組み合わせ、その変化などから大昔の暮らしが推定出来ます。

注目すべきは祖代の中期及び後期の共に初めであり、①鹿児島の姶良大噴火の影響、②北から西からの人と文化が流入という正に激動であって下写真の通りです。

図2

特に、列島に拡がった日本祖人の所に、北から西から、始まりと同様の南からも新しい人と文化が及びました。

残された石器を見ると、違う形式の石器群を使う北と西から入って来た部族には境界が出来ていたようです。(安蒜政雄 日本旧石器時代の起源と系譜 から文責筆者)

それでも宝物の黒耀石が列島中央部にあったためか、関東と甲信越が早くから連接していました。

東京湾が陸地だった広大な関東平野は、北側と西側からの行き着いた接点として混在し、人も多かったのです。

対馬暖流が未だ北上しないこの時代は、日本海側に大雪が降らなかった事が、まだストーブの無かったこの時代には大変ラッキーでした。

出雲と遠く離れた東北の言葉に共通性があったり、関東は混み合い、また、列島中央部を境に東と西で今もお雑煮の餅などや色々な物が違う原型が万年前からでは思わせる類似です。

そして他の点では、ゆっくり拡がった曙海の事です。

温暖化の海水面上昇で、対岸がどんどん遠くなって行きましたが、もとはと言えば畔の遠い親族ですので、その後の五島、対馬を通ずる関係は納得です。

先史必読の「魏」志倭人伝では変なヤツ扱いですが、曙海の畔の人々である呉・越、江南の海の民とは近いです。

広島の呉・呉服・越前カニ・越中褌・越後屋さん、江南市・(平塚)江南高校・・・半島含めてみんな曙海繋がりです。

そして内陸発の「蜀」はもとより、倭人伝の「魏」も日本では見当たりませんね、不思議ですが、内陸狩猟の民との違いなのです。

私たちのDNA分析では、江南と共に山東半島の名前も出ますが、曙海の意義をよく示しています。

遥かに時代を経たその後も遣隋・唐使などの関係が続きました。

行くのは大変だったですが、向こうからはそれほどでもなく、兎も角も対岸の人たちが戦乱を逃れるなどして幾度となく渡来しました。

かつて、縄文人のルーツが探されましたが、結局、何処にも見つかりませんでした。

そりゃそうです、南方Sundaland発の日本祖人にこのような激動の混じり方をした独特な「日本列島ブランド」ですから。

図1再掲

ところで上の図2のように、北の何も無いと言われた襟裳岬の前は豊かな昆布ハイウェイでしたが、これに関しては別の機会に。

(了)

縄文土器は、素晴らしい!これはもう世界に誇るべき芸術です。

しかし、下写真は縄文土器を紹介した最近のある資料ですが、旧石器時代欄は空白です。

それはいいとしても、縄文時代欄に土器が作られると書かれていて、それ以前には無かったかのようです。

無紋であったりして、「縄文」ではないからという事なのかもしれませんが、いずれにしろどんな会社の社史でも、先ず初代・創業を見つめます。

華々しい2代目の縄文土器も先代・創業の「日本祖人」による「祖代土器」の土台があってのことでしょう。

現に、世界最古級の青森の土器のみならず、北海道から種子島まで広く先行土器が作られていました。

問題は、旧石器時代という適切でない呼称にあります。

文化の上で重要な土器が、広く日本列島で作られているにも拘らずです。

それに世界では、旧石器時代・人と言えば、200万年前位から言いますので、我が国の4万年前から2万数千年の間を表現するには全く不適切なまま放置されているのです。

創業のご先祖様を見つめましょう。

外洋を越えて舟で離島を行き来し、鹿を陥とし穴で獲り、釣り針で魚を釣り、環状に家を作って暮らしたり、世界に注目されるような当時の高い文化を有していました。

吾輩は始まりの日本祖人、教科書に名前はまだない、はひど過ぎます!

縄文人をひがんでいる訳じゃないのです。

(了)

(メキシコ・イブに関する事実関係は、mailonlineを参考にしました。文責は、当サイトです。)

問題は、Harvard医科大が、南米アマゾンの古い3つの部族のDNAを分析した際の驚きから始まりました。

それらが、南米はもとより北米先住民、シベリアの民族とも似ておらず、豪・アボリジニ、ニューギニア、印・アンダマン諸島人などのSundaland(東南アジア)周辺地域の古い歴史のある人々と似ていると発表しました。

何処から来たのかと記者に聞かれ、苦笑いするばかり(東南アジアの者が植民地にしてたんじゃないの、www)でした。

というのは、南太平洋絶海のイースター島に人類が達したのが800年前程度のことで、ゼロが2つも違おうかというものですから、歴史的に南米なんて話のほかです。

東南アジアには、直路の太平洋横断説を主張する人もいますが、それも最終氷期の終わった後の寒戻りヤンガードゥリアス期後で完新世11,500年前頃を対象とする時期ですから、話が違います。

その後現生人類のアメリカ新大陸への進入は、定説のベーリング地峡から動物を追ってと言う事ではなく、北太平洋沿岸(ベーリング地峡部を含む)の「昆布ハイウェイ」沿いを舟で来たという認識になっています。

今回、なんと人骨が発掘されて実証されたメキシコのイブ(人骨発掘は80%)は、ユカタン半島の海面下380mくらいの水中洞窟で発見され、数年にわたり分析されていた素晴らしい標本です。

若い女性で20~25歳、身長140cmくらいだそうです。

ブラジル研究所の3D成形技術で顔像が作られました。

そして研究チームが、この13,600年前の人骨は、シベリア系ではなく東南アジア系だと言ったことが大変重要です。

つまり、イブと祖先は、①日本列島経由か、②東南アジアから直路で太平洋横断かとなりますが、此処でも頭を抱えてこの点に触れていません。

そんな時代に直路横断して来たと言えば頭が触れていると言われますし、おそらく日本列島~昆布ハイウェイのルートは、あまり意識に無いのかもしれません。

それともシベリア分類に含まれているのか?

いずれにしろ、これまで累次の当サイト諸報告の通り、これらは日本祖人の初渡米話、環太平洋の人類移動・移住MPOR説の一環であって、頭を抱える問題ではないのになあと思っています。

人類展開史ルートのリレーにおける重要な日本列島~アラスカ区間タイムについて、担任する日本学界の公式見解の早い発表が待たれます。

でないと、これらの重要な発見が否定あるいは無視されてしまいますから。

さて上の写真の3人、どう思われますか?

(了)

初代・日本祖人(4万年前~)が、伊豆諸島の神津・恩馳島に黒耀石を採取するために、黒潮分岐流を越えて37,000年前頃に舟で行き来していたことは、世界の学界の驚きです。

しかし、あまり知られていませんが、2代目の縄文人が、7千年前頃から黒潮本流を越えて八丈島に渡り、家族で住んで生活し遺物も残しています。

オリンピックに古い離島行動種目があれば、金メダルの快挙なのです!

操舟行動・自活力を発揮して、絶海の島に、そんなに古い時代に、家族の住居はもとより土器や装飾品など驚きの文化を遺しています。

人体が男・女・女と実証的に発見され、猪を積んで行ったことも驚きの学問的成果です。近世になってすら、鳥も通わぬ島抜け絶望的と言われた所にです。

世界のライバルでは、モアイ像のイースター島(新し過ぎ)、宮殿のクレタ島(小島伝いに行ける)、旧石器があるアフリカ西部・カナリア諸島(途中も周囲も多くの島々)などが思い浮かびますが、負けないでしょう。むしろ、国内にいるかも知れません。

伊豆大島、神津島など快挙の裾野もしっかりで、一発屋ではありません。

では、何故そこ迄に?

黒耀石や貝などの宝物を求めてと考えがちですが、もしかしたら、遠い海の彼方と思われていた「神の御許に」という事だったかも知れません!

日本祖人・縄文人と言えば、髪ボーボーひげもじゃで毛皮のパンツに槍・弓矢を持ってのイメージは、修正をお願いします。飾っていた女性たちとも合いませんし。

(了)

土器と言えば始まりの祖代土器ではなく、世界的に2代目の縄文Jomonが超有名で、特に火焔土器などは岡本太郎さんも絶賛の逸品です。

しかし、青森・大平山元(おおだいやまもと)遺跡の世界最古級(16,500年前)の祖代Sodai土器の発明(粘土選び、練りねかせ、成形、焼き等複雑)は、特筆すべき物で平らで角張った底の土器です。

紋様こそありませんが。

多数の破片が発掘され、付着物の有機物分析で魚、特にサケが主でしたので、ドングリなどのアク抜きが原因ではとのそれまでの土器登場の説を覆しました。

当時の青森は、今の北海道東北部くらいの寒さで植物採取も乏しかったことが、魚に頼り煮たと言われますが、海水面上昇からは最寒期を脱し温暖化が始まっていました。

多量に来るサケの調理・貯蔵処理などで、しっかり保管したい、それまでと違って「臭くなった」、からなのでと考えています。

問題は、何処かから伝わったのかです。

確かに、シベリア方面から狩猟族など(出て行った子孫含む)が、北海道へ入ってきた後の事でしたが、この時代の北海道の土器はこれより新しい内地発の物です。

また、ここは最古級の祖代土器の一発屋では有りません。最古級石鏃も発見されています。

しかもこの地域は下図の通り、三内丸山は、縄文認識を一変させた遺跡であり、亀ヶ岡は、江戸の昔から有名な洗練された逸品揃いで、県内遺跡が広域に長い間の歴史を刻む裾野があります。

では、何故ここに最古級が?

日本海側、太平洋側、そして北海道の三方向から情報と物と人が来て、活発に混じり合って文化を生み出したからだと考えます。

日本列島そのものが長く多様で、新規受け入れ混じり合い、変容・発明・熟成等の歴史でした。

(了)

歴史における海人(漁撈・採集・交易・海賊・狩猟耕作等)は、書き物を残さず寡黙なため妥当に扱われていないと感じています。

舟ノウハウは体得ですし、一人山に入るキノコ取りのように人に教えず秘密体質で、何より板子一枚下は地獄と言われる厳しい生業なので饒舌にはなれないのでしょう。

曙海も温暖化の時代を経てゆっくり海面が拡がり、採りあげる3~2千年前頃には、今のようになっていました。

問題は縄文時代末期以降、中国長江から、朝鮮半島から稲作や鉄が入ってと学校で教わりますが、入って来た水稲は朝鮮半島には無い米種です。

それはインド南部・タミル海人を、いや北九州の宗像・住吉海人等を忘れてもらっては困るという事で、北九州の海人地域で採用した稲作から始まった事が、象徴的に重要です。

祖代・縄文時代に曙海の畔には、海人のネットワークが出来ていたでしょう。

上図の右下に、貝紫の染めを書きましたが、世界の海人フェニキアが、3,600年前頃に技術を有した貴重な帝王・特権階級紫をアッキガイ科巻貝汁から作りだすもので、吉野ヶ里(交易拠点)で発見され、作家有吉佐和子さんはフェニキア人が来たと言ったそうです。

フェニキアは秘密主義でしたが、北欧、アフリカ喜望峰回り、豪州などまで動き回ったようです。一航海3年というのもあり、現地で農業生産までしていたと言われています。

何しろ彼らのフェニキア文字がアルファベットになった事、また、相手が真に欲しがる貴重品を何処かで手に入れて交易する、と言われた事がよくその活躍を示しています。

さて、アジアのタミル海人(後の日本呼び”マドロス”街あり)は、この頃ベトナム迄はっきり痕跡があり注目です。

言語学泰斗の大野先生は、稲作用語にも日・タミル語の多くの類似性があるのに長江の民とは無い、また、正に来ていた時代に埋葬の甕棺が酷似しているなど諸点を挙げてタミル海人が来て文化を伝えたと主張しています。

船着き場地域―後背地―川上地の繋がりエリアが、曙海畔のみならず縄文時代の他の地域、いや、かなり後の時代まで続く特色あるあり方です。

稲作・金属の拡がりと大幅な人口増を経て、中国を知って採用された碁盤の目のような〇〇京時代とは違う、海人ネット社会という在り方でした。

何故、タミル人が来た?

大野先生は、中東・欧州で珍重された日本真珠を挙げてますが、翡翠、オオツタノハ貝、宝貝なども有りました。

(了)

何と言いましても図1のように、右肩上がりの海水面の上昇(温暖化による極等の氷融け)が原因です。

正に途中で時代の名称が、「日本祖代」から2代目の縄文時代に替わります。

日本祖代の末期の最寒冷期(LGM)から温暖化の時期に、シベリア東部地域の狩猟族が南下しました。

寒過ぎて、その後、温暖化で寒冷草原のマンモスが絶滅していき、ハンターが動きました。

かつて列島から北上して行った子孫が戻って来た事もあったでしょう、特に北と西で遺跡数が激増しています。

土器が定着して縄文となりますが、海水面上昇が土地を減らし、海岸線と暮らしの地形を大きく変え、温暖化の人口増の「水辺の民」の暮らしぶりも変わっていきました。

(海岸線の長さは、アメリカの2倍、中国の25倍です)

図2のように、温暖化ピーク頃に三内丸山が縄文の華を見せ、寒冷が来て関東の遺跡増になります。

既にクリ・ひょうたんなどの植物・犬猪を飼育する知識のあった縄文人の一部が、増えた西部北九州の低湿地に、拡大した曙海の向こうの民から水稲を移入しました。

大陸は周の時代で麦作であり、人も暮らしも違います。

稲作はやがて拡がりましたが、社会へのインパクトは少し遅れの金属器の導入であったようで、渡来人も加わった稲・金属時代になっていきます。

祖代・縄文時代(日本史の92%期間)の世界が注目する「精神性」は、日本祖代から受け継がれ縄文で熟成し確認される様々な物コトであり、現代でも痕跡が窺がわれます。一例は、以下の通りです。

世界の学者が、「日本文明」として区分する重要要因の一つが、この時代にあると考えます。

なお、日本祖人リーダーは、天文・気象・海象・動植物・造舟・外洋操舟等の知見のある、当時の世界の第一級の知識人でした。

(了)

現代では、現生人類のアフリカ発祥が知られていますので、発見されている遺跡・遺物、DNA分析などから、移住の流れが導かれます。

曙海のことや日本列島の旧石器遺跡の状況から下左図のように流れが分かり、近代科学は、2.7万年前の石垣島人骨の顔を復元しますので、まあ大きくは変わらないであろうと列島史が作図されます。

ところが大正末期に、下右図のように、清野博士などが、大森貝塚の人骨情報や北海道の竪穴住居跡の状況、諸人骨の分析などから、アイヌ以前に石器人・日本原人が居た、しかも現代人に繋がっていて日本には「先住民」はいないと、約100年前に正に基本を言い当てています。

残念ながら、同じく立派な鳥居東大助教授が、アイヌ伝承にある北千島に逃げたという小人は現場を確認したが居ないと報告し、その後これら原人・小人話は埋もれ、何と「アイヌ先住民国会決議」(平成20年)という歴史の裏付けの無い誤りの「先住民」決議がなされています(アイヌの人権を尊重する決議に名称を修正すべき)。

見つからなかった事は必ずしも過去に無かった事ではないのに、伝承はなまじの文書より信頼できるのに残念なことでした。

さて、流石の明治先達ですが、時期の視野は3千年前くらいだったようで、今から見ればゼロが一つ違いました。

また、世界にはジャワ原人、北京原人がいますので、日本原人は誤解されないように、現生人類「日本祖人」が良いでしょう。

(了)

下図の通り、列島史始まりの頃のこの地域には、①伊豆の黒潮分岐流を舟で渡って神津・恩馳島の黒耀石の採取に行き来していた、③釣針で魚を獲っていた、④土器で魚特に鮭を調理・貯蔵していたという世界で発見されたうちでは最古のモノ事が知られています。

今回、韓国東北内陸の江原道・旌善の洞窟で見つかっていた漁網の錘の石が、2.9万年前という最古の物であることが分ったとの延世大学博物館の発表を仏AFPが伝えました。

日本の陥し穴による鹿猟(3万年前)に比すべき古さと技術の生業の方法です。

問題は、これらの人々は明らかに海の民あるいは川を遡って行って派生した暮らしぶりの人々です。

漁撈・採集はもとより後々には交易専業であったり広大な太平洋の島々に暮らすこととした人々、家船暮らしをしたり海賊になったり大航海に乗り出した者、そして近代の海運を担った人たちなどの始まりと認識すべきでしょう。

「狩猟採集民」で括る事は妥当でなく、主に海・川・湖沼などの場で、やがて多様に暮らしていくことになる「水辺の民」とでも称すべきでしょう。

特にアジアでは注目すべきであり、我が国においてすら歴史の傍らに扱われがちですが、始まり時代は主流であったことを強調したいです。(脱「欧米か?」)

(了)

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