現生人類による日本列島史の始まりが4万年前頃であることは、学界異論のない認識です。

にも拘らず、最近の大新聞の説明図でも北、西、南の3方向から人々が列島に入って来て日本が形成されて行ったというような世界に誤解を招くモノになっています。

これは例えば、明治、江戸、平安時代に起こった事を一つの図にして説明しているようなものです。

始まりはあくまで南から北への一方向性で、南方系の先人が緯度を北上して適応して行った容易ではなかった1万年を要した拡がりなのです。

そして、最寒期の2万年前頃に北から西から大陸の狩猟族とかつて北へ向かった者達の子孫が入って来るまでに定着していた日本列島文化が、先ずは基層である事が重要です。

さて、4万年前当時は、対馬暖流(8千年前から)が日本海に流れ込んでいませんでしたので、大雪は降りませんでしたから東西併行して北上して行ったことでしょう。

長野に豊富な黒耀石があり、関東と甲信越が早い段階で結ばれていることも注目されます。

津軽海峡越えは、日本祖人にとっては大きな問題では無かったですから北海道の降雪寒冷地の生活に適応するのに期間を要したものと考えられます。

更に、始まりの南を子細に見ますと、4万年前頃に多くの家族が慶良間ギャップを越えるのは困難だったろうと思われます。

当時の海水面低下で現れていた北東ア平野の沿岸を行く方が容易で、かつ、潮の流れ風の向きと距離から対馬や五島から北部九州に渡海する曙海時計回りルートが自然だったろうと考えられます。

つまり、大新聞が堂々と描いている3方向がいずれも間違って世界に発信されていると、歴しニアは歯ぎしりしているのです。(入れ歯かどうかは、聞かないで下さい)

いずれにしても、日本祖代、日本祖人をしっかり認識していないことが問題なのでしょう。

(了)

 

金沢大などの国際研究チームが、愛知県の伊川津(いかわづ)貝塚から発掘された約2500年前の縄文?人は、東南アジアの狩猟採集民族にルーツを持つ可能性があることがわかったと発表し、論文は米科学誌「サイエンス」に掲載されたそうです。

此の縄文?人骨が、ラオスの遺跡(約8000年前)から発掘された狩猟採集民族やマレーシアの遺跡(約4000年前)から見つかった人骨のゲノムとよく似ていたということです。

先ず、縄文人は2代目で日本祖人の子孫です。

下図のように、日本祖人は南方系と考えられ、今回、ラオスやマレーシアと似てるからと言って何の驚きもありません。

問題は縄文時代に、ラオスやマレーシアから日本列島に人がやって来たと受け取られるように世界の一流科学誌に書かれているのかどうかです。

そうではなく、4万年前の日本祖代にそれらの南方遺伝子を持った人々が曙海を渡って来て初代・日本祖人として北上し、その子孫の在愛知の縄文?人に受け継がれていた。

即ち2500年前頃にラオスやマレーシアから人が来た訳ではないという可能性が、しっかりと世界に伝わっているかどうかです。

世界の誤解を生む全ての問題は、2代目の縄文時代、縄文人からしか語れない学界の用語の現状にあります。

(了)

よく日本列島には、北から、西から、南から人がやって来て「日本」が出来たというような記述がありますが、誤解の元です。

石器が示すのは、4万年前頃に曙海を越えて家族で渡って来た南方系の人たちが北上し列島中に拡がった、海・川辺の生活が始まりの歴史です。

2.9万年前頃の鹿児島・姶良カルデラ大噴火は、九州と西日本そして東北にまで火山灰(AT)を降らせる影響を及ぼしたと考えられる画期です。

その後の祖代中期の特色は、既に使われていた切れ味鋭いナイフ型石器の分布に今に通ずるような地域差が生じていることです。

北海道には余り見つかりませんので、引き続きそれまでの暮らしぶりをしていたのでしょう。

このことから、西から影響が及んでいると考えられ、人も入って来て大噴火の傷跡も修復されたのでしょう。

最後の祖代後期(2万年前頃の最寒期~縄文)は、大陸のバイカル湖地域発と考えられる細石刃の異なる技法が北から、西から、入って来ています。

よく縄文人は何処からという質問を立てる人が居ますが、2代目ですので当然、日本列島からですが、この日本祖代における北と西からの人の影響変化を受けているのは特色でしょう。

入って来た人の数や影響の度合いは更なる分析が必要です。なお、北海道から出て行った親族が戻って来たことも考慮が必要でしょう。

そして、図のような概ね東西2分性は、現代にまで繋がる日本の一つの特色です。

ともかく日本史は、祖代から見て縄文時代を理解し、その後を考えて行かなくては、ホントの理解はできません!

それは、最初の厚い文化の基層の上に新しいモノを取捨選択、変形して積み重ねていった独特の一島一文明だからです。

今もって日本語が環太平洋系ながら隣国と異なり、どのようなものかよく分からない長い時を経た積み重ねですから。

(了)

曙海を九州に渡って来て、北上・南下して列島中に拡がり完成しました。

当時はプーチンが居ませんでしたし北海道で止まることも無く、北上を続けて初のアメリカ新大陸に進入です。

そして、太平洋沿岸を南米にまで南下して行った(環太平洋移動・移住MPOR説)ことでしょう。

九州4万年前、北海道3万年前が豊富な旧石器遺跡等で裏付けられる、世界の人類展開リレーにおける時期ハッキリの重要区間であることがあまり認識されていないようです。

欧米の学者さん、こんな大昔に樺太や沿海州で北海道の黒耀石が見つかって「交易」かなんて驚くことは有りませんよ、曾爺さんの所に素晴らしいガラス石がある事は知ってましたから。

それよりも、最初のアメリカ人は、北海道で降雪寒冷に適応して海獣などを食し、昆布Kelpハイウェイを行った海の民系の「日本祖人」でしたよ、理論的には。

(了)

欧米の学者さんが頭を抱えている始まりは①南米チリ遺跡でした。

それまで標題の件は、シベリア~アラスカ~無氷回廊そして、急行で南米南端までが定説でしたが、覆りました。

②無氷回廊が開く前に南米に人類が来ていたのです。

従って今は、③昆布Kelpハイウェイで来たと考えられていますが、最近、④冒険家が体験から導いたものとして、米国北西岸シアトルからチリ遺跡迄、陸上は猛獣がいますし沿岸を舟で移住すると2千年以上はかかるだろうという見積りです。

シベリアにも⑤古い遺跡がありますが、東部で発見されているのは温暖化以後の15,000年前レベルですので、チリ遺跡と合いません。

そもそも氷河期と言わず、上図のようにシベリアでは現在でも冬の寒さで死者が出ていますので、2万年以前の寒冷期に広大な大陸を西から東に家族が移住できたとは思えません。

これらから、3万年前の北海道の日本祖人が浮かび上がってきます。海獣などを食し、降雪寒冷に適応していました。

丁度、昆布ハイウェイも道南・道東・千島列島を通って北上していました。

千島は次々に見えてしかも遠くなく、米臨海は冷水が流れ込んでませんでしたので、可能性ありです。

実は昆布ハイウェイのルートになったので、北の海における濡れれば死に直結する、大変なことである操舟と造舟に思いを巡らすべきです。

大陸狩猟族には、容易でないでしょう。

DNA分析などから、主たる米国先住民はシベリア系かも知れませんが、温暖化した後から入った人たちであり、最初のアメリカ人は沿岸からの日本祖人であると考えます。

(了)

Beginning of Japanese History

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現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandを経て、4万年前頃、爺さん婆さんと家族が舟で緑の九州に渡って来て、日本史が始まりました。

列島を北上して北海道に、南下して沖縄にまで拡がりました。

その後、特に最寒冷期LGMに新たに入って来た狩猟族を交えて日本祖代に列島文化の基層が出来上がり、次には縄文人と呼ばれる人々にバトンタッチされました。

幸いにして現代科学は当時の人の顔の一例を近い形で復元していますが、初代の日本祖人と2代目の縄文人ではもう既にちょっと違ってきています。

縄文時代の前の2万数千年間の日本祖代は、正に列島文化の基層となっています。

大昔からの長い歴史を、全国の遺跡の旧石器の足取りなどを踏まえてこんな風に記述できるのは、世界に例の無い驚異でしょう。

子供たちは、いや大人も知るべきことです。

そして、日本の大昔と言えばJomonしか知らない世界の人にも、知らせてあげたいものです。

(了)

英国York大学の生物考古学チーム(日・瑞・蘭協力)は、世界最古の日本の土器の始まりは、魚特に鮭の調理・貯蔵のためであったことを3年間の研究の結果として明らかにしました。

800個の土器に残った脂質の分析などからの結論で、それまではドングリのアク抜きなどの諸説がありましたが、始まりは明らかではありませんでした。

氷河期が終わって温暖化し始めた時代に、日本祖人は、魚が臭くなることに耐えられず発明したもの(筆者所見)でしょう。

海の民ならではのものと考えています。

因みに土器の始まりは16,500年前で日本祖人NihonSojinの時代の発明であり、2代目の縄文人(13,000年前頃)に伝えられ、日本全土に拡がって定着した日々の生活の日用品です。

その後は幅広い用途で使われ、縄文期の芸術品と呼ぶべき造形の物も出現しています。

日本祖人は、毛皮パンツに槍を持って狩りする原始人のイメージですが、各地の遺跡・遺物の示すところは水産物依存比率の多さです。

https://www.youtube.com/watch?v=6AjALI9FDO0

(了)

興味あるテーマのNHK放送(人類誕生~日本にやって来た)が、ありました。

日本列島や近隣国で発見されている遺物・遺跡や人骨の状況、何よりもテレビが伝えた東南アジアSundalandの意義などから、既にこれまで報告しています標題(下図①②③)となります。

勿論、「曙海」を家族で舟(筏)で越えて来た現生人類による日本列島史始まりのこの原型が出来上った後もいろいろな事はありました。

しかし、「日本祖代」の「日本祖人」たちは、始まりの2万数千年間に列島文化の基層を作ったと言えます。

(了)

現生人類は、アフリカを出て東進し東南アジアSundalandへ、北上して台湾に5万年前以前に至り、九州に4万年前、北海道に3万年前そして更に北上を続けた歩みでした。

いずれにしても台湾を経由(長濱文化遺跡の古さ)しており、曙海を越えて来ています。

ここで注目すべきは、台湾5―九州4―北海道3と各区間1万年という大変長い時間を要しています。

考えてみれば、アフリカを出て赤道地域を行動してきた人たちですから、基本的には緯度を北上しての気温の低下や正に北海道の降雪寒冷に適応して暮らす事が大変だったことを示しているのでしょう(津軽海峡越えは短くたいしたことありません)。

もしかしたら曙海の数十kmの外洋を家族で舟(筏)に乗って越えられるようになるのにも足踏み長期間を要したのかもしれませんね。

上図の石垣人より色黒だったかもしれませんが、背は高くない似たような人たちだったろうと考えています。

そして最寒期である2万年前頃、日本列島の北と西から大陸の狩猟族が入って来て、やがて縄文時代と呼ばれることになって行きます。

日本文化の基層となった日本祖代2万数千年間は、海の民が列島中の海辺に、高原の川辺にまで上がり、遅れて入って来た異質な大陸の狩猟族と混じり合い、正に「日本祖人」として原型が形作られた時代です。

その後も混じり合い(近隣含む)は続いて変化しつつ、縄文人から現代に至ります。

(了)

祖先である現生人類の日本列島史は、曙海を越えて家族で渡って来た事から始まります。その状況の謎に迫る実験航海プロジェクトが動き出しています。初めて縄文時代を越えて私たちの祖先の歴史(日本祖代)が明らかにされていく試みを応援します。

(了)

 

ぜひ私たちの仲間になって、一緒に3万年前の大冒険に出ましょう!

主催:国立科学博物館  共催:国立台湾史前文化博物館
協力:与那国町 沖縄県立博物館・美術館 NPO法人国境地域研究センター 石垣市 竹富町 竹富町教育委員会
後援:沖縄県 沖縄県教育委員会 日本台湾交流協会

誰もが参加できるプロジェクト 新たな「クルー会員」を募集します!

私たちは実際に古代舟をつくり、実際に海へ出て、失敗もしながら、祖先たちが航海に成功した謎を探っています。どなたでもプロジェクトの経過を見ることができますが、「クルー会員」になって頂いた皆様には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトにもっと深く関与して頂いています。そんなクルー会員をこの【完結編】で新たに募集しています。

航海プロジェクトのご支援(クラウドファンディング)については
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対馬暖流の無かった当時の北部九州海域は、時計回りの渡海の流れの方向がよく、浅く、幸いにして北東ア平野から北部九州へは、その後の時代もずっといい風が押してくれました。

行く手の緑の対馬が見えて、手招きしていました。曙海の畔の人々のうち、当然にして処女地である九州を偵察する人が現れ、豊かな地であることを確認しました。

その後の北海道に至るまでの拡がりを考えれば、少なくとも大人男女千人といった数の人たちの渡海が必要でしたでしょう。

さて、縄文ヴィーナスを見て思うのは、重要なのはノウハウがあり無事成功させる「お産婆さん」と一緒の事でしょう。

今と一番違うのは、何度も機会の有る重要な出産が大ごとであったことです。

出産・育児・治療・食物採集などで頼りになる婆さん爺さんが尊重され大事にされ一緒に渡海したことです。

従って、外洋を婆さん爺さんと、冒険ではなく安全に静かに渡るため、潮の流れに乗り待ってでも風に乗ることです。

当時は寒暖の差が激しい時代でした。短くても暖かい時代には樹木が得られた事と思います。

貴重な舟(筏)が出来た時期が、日本祖代の始まりの時期だったのでしょう。

現在まで見つかっている縄文の舟は丸木舟ですが、南方ノウハウのアウトリガーや双胴は有ったのではないでしょうか。帆柱の痕跡は無いようですが。

いずれにしても、安定的に北部九州に渡海することが出来るようになった時期が始まりでしたでしょう。

その後は曙海の日本列島側、そして緯度を北上する寒さに適応しながら北海道にまで拡がって行きました。

(了)

北京周口店の田園洞人に思う

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4万年前の日本祖人と同じく、かつて北京原人(50万年前頃)が発見された所(北京市街南西50km)の近くで(6km)、田園洞人(下顎骨、四肢骨の一部)がその時代に居たことが発表されました(2013年)。

漢民族の祖先だそうです。

ネアンデルタールやデニソワ旧人のDNAは僅かしか持たず、欧州人祖先(コーカソイド)と違うアジア人で、アメリカ先住民とも密接な血縁だそうです。

DNAの型が分かりませんので何とも言えません。

写真の誇らしげに観ている石器は、我が方のナイフ形(杉久保型)のように見えます。

日本のその時代は、ナイフ型の前の粗削り素朴な物のナイフ型の時代(4~3.5万年前)でした。

下図のミトコンドリアDNAのM9例が示すように、現生人類の出アフリカ後の流れの東進はSundalandに至り豪州へと、北上して日本列島などへとなります。

その後の大陸内部の強い影響力(黄色)で、痕跡は島や奥地、深い山中などに残る分かり易いものとなっています。

いずれにしてもこの田園洞人は、家族が舟を造って数十kmの外洋を越えて九州に渡って来た曙海の畔の「海辺の民」とは暮らしぶりの違う人たちだったようです。

その使用石器から、恐らく狩猟が専らだった西から来た人たちだったのではと考えます。

(了)

下図の列島史始まりの4万年前頃(氷河期)、海水面が数十m低かったため、北東ア平野が出現していて日本列島南西部との間に「曙海」が形成されていました。

南方から北上して来た人たちの中から、渡海して九州にやって来た人たちが現れ、異質の種族の大きな流入も無く(石器の痕跡から)同様の人たちが北海道にまで拡がりました。

下図左の「曙海」は、列島史がどのように始まったにしろ、その畔が重要な海であり、此処から舟で家族が九州にやって来て始まりました。

一方、下図右の北のベーリング海峡は陸地で閉ざされ、北極海の冷水が流れ込まない、正にハワイに繋がる海でした。

そして、陸地南岸は、「昆布kelpハイウェイ」と呼ばれる海産物が、海獣・鳥が豊かな地域が、オホーツク海~北海道~カムチャッカ半島~アラスカ湾岸~米西海岸と続いていました。

3万年前頃に北海道の降雪寒冷の暮らしに慣れた日本祖人は、そこに留まる訳もなく、次々に見える食料豊かな処女地の千島列島に舟出して行ったことでしょう。

一番遠い島間でも九州に渡って来た時より短いくらいでしたから。

さて、世界の学界は、最初に人類がアメリカ大陸に来たのは、昆布kelpハイウェイからのようだが、時期は最寒冷期LGM(2万年前頃)をすっかり過ぎて暖かくなってからとしています。

しかしその名のとおり、そのLGM後が暖かいだけでなく、その前も比較すれば暖かかった訳で条件はあまり変わらない事です。

欧米学者にとっては、単に遺跡が無いだけでなく、とてもそんな時期にシベリアから人が来たと思えない状況にあるからです。

しかし、北海道にまで日本祖人が来ていた事、千島列島を越えられたこと、何よりも「米臨海」が比較的温かく周辺の沿岸環境も悪くなかったことなどを考えれば、理論的にはLGM前に日本祖人が渡米し得た事を否定するものは無いと考えます。

有り得たか否かの理論考古先史学の推論上、当時の「米臨海」及び周辺の環境分析(動植物含む)が待たれます。(なされてきていない事が、不思議です)

近年のDNA分析による研究では、日本列島通過遺伝子が沿岸を渡米しています。

(了)

今に繫がる氷河期の現生人類・新人が、海を越えて出アフリカしたことは注目されるべきです。

そして、早い時期に豪州に舟(筏)で渡っている事は、①知力があった、②寒さは苦手であったことを示しています。

遺跡の痕跡を簡単に陸地で移動したかのように道なき内陸に線を引きますが、猛獣・毒蛇などと夜の冷え込みを考えるべきです。

先ずは、マングローブの食物もある移動しやすいルートでしたでしょう。猛獣は、水辺には追いかけて来ないでしたでしょうし。

九州に渡って来て北海道にまで拡がりましたが、止まる筈が無かった(プーチンはいなかった!)ことも留意すべきです。

こんな大昔に遠軽白滝の黒耀石が沿海州で見つかって、「交易」かと欧米学者は驚きますが、爺様の所に宝の石があったくらい知っている事です。

海水面が数十m低かった海浜は移動しやすい事でしたし、何より「海の民」性は今に残る列島人の特徴です。生魚と海の雑草を食べる変なヤツと言われてきました。

その日本祖人が、昆布kelp・sea tangleハイウェイをアメリカ新大陸に入って行ったことも驚きでは有りません。

また、舟で伊豆諸島の神津・恩馳島に黒耀石を採りに行き来していて世界を驚かせていますが、これも舟を造り曙海を越えて来た祖先ですから驚くには当たりません。

但し、こんな大昔に大陸内部から来た人が、簡単に舟を造り、外洋を操舟出来たろうと考えるのは間違いでしょう。

例えば、アリューシャンの人々は、親から子へ厳しい鍛錬による積み重ねて来た操舟・漁ノウハウの継承がありますし、半年かけて女性陣が皮の舟カバーを丁寧に縫い込みます。

出アフリカ後の新人の拡がりと当時の環境を考えれば、日本祖人の始まりが見えてきます。

(了)

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