日本列島史は下図右、南方のSundaland地域から北上し、台湾山地を経て舟で曙海を渡って九州に至り北上して行ったものです。
その後の歴史を見るに当たり注目したいのは、上図左の三国志の時代に、主に大陸内部発の魏・呉・蜀と異なる海の民性ある種族が、沿岸に依然として存在していたとみられる痕跡(黄色)です。
同種族の「倭」は、入れ墨して海に潜って魚を獲る変なヤツとして魏志倭人伝で扱われています。
氷河期後の温暖化の万年の間に曙海が拡がって(年間約50m)行き、北東ア平野は消えました。
かつて曙海の畔で暮らした人たちは、上図左の痕跡から海岸線の後退に合わせながら沿岸の暮らしを続けたことが窺がわれます。
①沿岸地域の種族と②大陸内部の種族というこの2面性は、その後も大陸内部種族の伸張が続いたものの、今に続く東部アジア地域の特色と考えています。
次に列島史始まりの下図右ですが、この日本祖代には対馬暖流(8千年前頃から)が有りませんでしたので、南から黒潮流が北上して流れ込み、時計回りで曙海から出て北上して行ったのでしょう。
北部九州へは数十kmながら①流れに乗れた②良い風に押されたでしょうが、南西諸島の沖縄・慶良間ギャップ越えは、海水面低下を考えても約200kmあり、多くの家族の渡洋はこの時代にはムリだったと考えます。
因みに伊豆諸島の神津・恩馳島への黒耀石採取の行き来は、伊豆半島から伊豆諸島の見える所へ、流れに乗って行くことが出来ました(30km程度)。
従って、台湾山地以降は北東ア平野の東海岸沿いの拡がりの方が、ムリなく早かった事でしょう。
そして、五島列島~九州西岸~トカラ列島~沖縄ルートが、南への日本祖人の拡がりだったろうと考えます。
現在発見されている遺物・遺跡からは、九州4万年前、沖縄本島3.2万年前、八重山2.7万年前であり、また、台湾東部遺跡で5万年前の物があり、一応当サイトの仮説に矛盾は有りません。
因みに、大陸内部のシベリア・バイカル湖地域は2.4万年前で、大陸内部狩猟族の北と西からの渡来は、最寒期の2万年前頃でしょう。
八重山へは、西の台湾山地から(黒潮越え80km、漕舟力と直角の黒潮流速がほぼ同じで厳しい)か、東の方からか、興味深いことです。
なお、八重山の人骨遺跡では、他のように石器が見つからないとして話題になります。
竹や木、骨や貝器が、暮らしに多く使われていたものと考えますが、大陸内部の人たちと違う、日本祖代の列島沿岸の海の民の暮らしの一つの特徴でしたでしょう。
(了)