夏休みです。この列島における私たちに繋がる日本人の最初の歴史、その始まりと世界史的な意義を有する渡米に関して大胆に思いを馳せてみます。

現在の私たちに直結する現生人類が暮らした4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる少なくとも何十万年前からこの地域に居た原人の子孫や旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していました。

私は始まりの「日本祖人」、「日本祖代」と言ってますが、歴史考古学的には「旧石器」時代・人でして、4~3万年前頃の日本列島の始まりの人々とその来着の様子に焦点が当てて語られている学界資料は有りません。(私には驚きです)

欧州では、旧人ネアンデルタールと新人の関係が大いに注目されていますが、こちらでは考古資料発掘が厳しいこともあって研究はなかなかです。

日本列島の日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みを考えれば、何よりまず台湾山地と揺籃の地である東亜地中海(台湾 凌教授の命名)が注目されます。

始まりの日本祖人は、海を越えて九州北部(八重山にも?)に至りましたが、西から(到達に遅れ)というよりも、南から台湾山地地域に北上して来た海の民の人々であり、日本祖人が九州に達した頃からは、同種の人々が同地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたこととなりました。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、東アジア平野沿岸の長距離を北上して気温の低さに適応しつつ、渡海はよく見えていた同様の幅の対馬に浅い海を越える必要がありました。

フィリピンの遺跡などから、新人類は6万年前頃には台湾山地沿岸に至っていた(東南アジアは約7万年前以前)と考えます。

このことから、長距離北上の気候適応と家族集団の渡海のために、東亜地中海西岸地域から日本祖人になるのに約2万年(!)をも要したことになりますが、更に知恵ある新人の到着待ちだったのかも知れません?

我々はこの4~6万年前に注目しますが、丁度5万年前頃、ビッグ・バンのように言語力の発達を軸に新人の脳力・心が画期的に開花した(こちらにも伝播)という説もあります。

八重山方面ですが、台湾―与那国島間及び宮古島―沖縄本島間(約170km)を考えますと、私は沖縄本島への定着は、南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

ここで縄文初期の人々・日本祖人が周辺国に見られない独特の顔を作り上げていたことは重要で、日本祖代間に列島の中で混じり合い熟成されたものです。

さて、3万年前頃には北海道に渡り降雪寒冷地に定着した日本祖人のその後です。

米テキサス州Gault考古学研の長年の発掘調査で、オースティン近郊遺跡は16,000年前という報告がありました。90個の石器、動物の骨、若い女性の歯などが分析されています。

米大陸最古のものですが、無氷回廊が開いたのが12,500年前ですので、最初の新人類が「昆布ハイウェイ」からやって来た事がはっきりした点に大きな意義があります。

すると、A:海の民の日本祖人か、B:降雪寒冷地に適応したDNAの内陸人(現在の米大陸の主体人)かということになります。

さて、南米アマゾンの古い3部族のDNAが、印アンダマン諸島人~豪アボリジニのA型に近いという驚きのHarvard医科大の分析結果があります。

従って、環太平洋ルート(POR)で北海道東部から3万年前以降、日本祖人が昆布ハイウェイで渡米し、子孫はアマゾンにまで至っていたものと考える訳です。

何故、渡って行ったのか?高尚な説を唱える学者さんもいます。

まあ、前人未到の処女地に、幸いにも鏡面対称的に昆布・貝、エビ・鮭等、海獣鳥・卵、陸上植物などの食料がしっかり得られたためと思います。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

人類の環太平洋移住MPORは、カリフォルニア沖のチャネル諸島に注目!

米Oregon大学とSmithsonian研究所合同チームが、Channel Islandsで、1.22~1.14万年前頃の極薄く精巧な〝海上用″と言うべき匠Takumiの技で、内陸の物とは全く異なる石器を魚介、鳥や海獣の骨と共に多く発見しました(2011年)。

発見学者達の驚きは、石器自体の技巧の素晴らしさとその古さです。(Smithsonian insider 2011.3から)

米考古学会の大御所が、最初のアメリカ人という話の中で「日本からとも言われるチャネル諸島の海の民の・・・」として言及しています。

最初の渡米は、シベリアからだけでないとはっきり意識した見方に言及しており、今後十数年間は、「First American」テーマで重要な発見が期待できる非常に注目される分野と述べています。

学者さんは、なかなかはっきり「日本から」「日本祖人子孫が」とは言ってくれませんが、当時、海面は50-60m低く、前回述べましたように、正に島で海の民の痕跡が発見されています。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

米Harvard医科大学院大学が、南米アマゾンの古い3部族のDNAを分析したところ、印アンダマン、豪アボリジニやニューギニアの人たちが近く(図赤色系)、他に類似が無い(白色)という驚きの結果を発表しました。

直路太平洋横断や大西洋横断があり得ない()ことから考古学者も頭を抱えて終わっています。

しかし、欧米の学者さんがよく理解していないと思われるのは、前回報告したパンカル半島などの状況、比の古人骨遺跡や日本の4-3万年前の豊かな遺跡群を良く知れば理解できると考えます。

無論、日本祖人が北海道暮らしを経験している事、そして既に伊豆の神津島の往復に外洋を渡航している操舟力があった事などや何しろ手つかずの豊かな食料が北方にあったことなどもです。

ここで重要な事は、今回話題となっているDNAの人たちは、北米や南米先住民の主体であるシベリア系寒冷積雪地への適応を果たしたDNA変化Bの人たちではないという事です。

直路の太平洋、大西洋からの渡航が無ければ、このことは、アフリカを出た人たちが、東南アジアから北上して日本列島、ベーリング地峡を経て南米まで南下した環太平洋の海浜の移住を示し、日本祖人Aの渡米をも示す重要なものと考えます。

温暖化による数十~百mの海面上昇により海没している何かを、海底から出して見せないとだめなのでしょうか?https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

 

日本列島史の始まりの時代

我が日本列島史が、4万年前頃に九州で始まり(おそらく八重山もその頃?石垣島で最古の2.7万年前の人骨確認)、3万年前頃には北海道太平洋岸にまで拡がっていました。

 

この地域で、4-3万年と国の南から北までほぼ全域を遺跡のしっかりした裏付けによって、はっきり歴史を描けるのは我が国くらいで、「人類史の基準」と言えるのです。

そして、東亜地中海(台湾 凌教授の命名)の周りの人々、パンカル海(当サイト仮称)の周りの人々は、国境などの無い同様な海の民でした。

なお、5万年前頃には、約80kmくらいの海を多数が家族で越えて豪州に渡っています。

この重要な始まりの時代を、温暖化の海面上昇で陸地が沈んでしまっているからと学校で教わらないのはどういう事でしょう? まさか未だに植民地史観が残っているという事はありませんよね?

(了)

米国テネシー州Vandervilt大学チームが、南米ペルー沿岸の遺跡で7,800年前頃とされていた約30mのマウンドの内下部に動物の骨と共にイグサ科植物で編まれていた物(15,000年前)を発見したとScience(By Lizzie Wade May. 24, 2017)が報じました。

米大陸への人類の移動については、基本的に、A:漁撈系とB:狩猟系が考えられ、これまでは石器などはっきり痕跡の残るB狩猟系が主に考えられてきました。

しかし、南米などで次々に発見される遺跡は、今回の編み物の発見を含め、知見と操舟の能力を有するA海の民の環太平洋移住(MPOR)を示すものと考えられます。

日本列島にはっきり残る遺跡群から、4~3万年前の1万年間で拡がった日本祖人の日本列島史とその後の北上は、世界先史の中で注目されます。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

Sundaland地域は、既に海の民として多数の遺跡・遺物が発見されています。

このルートの注目点は、

①千島列島を越えていけたであろうか?

②極寒のベーリング地峡南岸を通過して東進南下して行けただろうか?

③そもそも地峡を越えて渡米した時期はいつだったのだろうか?

④狩猟族Bから漁撈族Aに替わって行った部族はないのか?

①、②は、既に検討し当サイトで可能性を報告いたしました。

③についても、北海道太平洋岸が30,000年前であること、最終氷期最寒冷期LGM(2.2~1.9万年前)には既に通過していたと考えれば、2.5万年前頃の最も気温が高かった時期、例えば毎年の春から夏に素早く抜けた部族たちが考えられます。

この毎年の春から夏といいましても、2~3,000年にわたる話ですので結構な数の部族が渡米し南下して行った事になります。

④も考えられます。Bは闘いに強かった人たちだと思いますので、沿岸に乗り出してきただろうと思われますが、やはり海辺の暮らしは独特ですので棲み分けたのであろうと考えています。

現在の太平洋岸の先住民の部族数の多さは、それぞれが習俗と言葉を大切に守り伝えていることを示す一方、結婚は他の部族とという事情があります。

A系とというよりも先ずは、日本列島に入って来る時から多数の小B系が通婚しつつ次々に渡って来たというイメージです。それが渡米後も続いたと言う事でしょう。

そして闘いに強いA系がやがて大陸で支配的になり、通婚も進んだという事ではないだろうかと考えています。更に時代はずっと下ってから、欧州人が黒人も連れて入って来たと言う事でしょう。

(了)

 

現生人類が、4万年前に東亜地中海から海を越えて日本列島に進入し、縄文時代と呼ばれるようになるまでの我が国始まりの日本祖人が過ごした日本祖代(4万年前~16,500年前)の時期の区分は次の3つの特色で区分されます。

  • 前期は、列島に進入し、八重山から北海道まで、また、高地の野尻湖や島々などにまで生活の場が発展し、日本文化の基層が形成され、原風景となりました。また、伊豆諸島の神津島に黒曜石を採りに十数km以上の外洋を行き来し、関東南部や伊豆で交易が行われていたことは、世界史的にも注目されます。
  • 中期は、姶良大噴火が起き、この特筆すべき残念な大災害からの復興、再生が主でした。当時先進の九州は大被害で、西日本は大きな影響を受け、火山灰は東北にまで及びました。火山灰のみならず寒冷化したことも考えられる厳しい状況から復興を果たしたことになります。この文字通りの天変地異が人々の精神性に及ぼしたことも重要な事と考えます。その後の農耕の民に比して、漁撈の民であったことが復興にとってはよかったのではないでしょうか?
  • 後期は、大陸の寒冷降雪地に適応した形質・DNAの変化を生じた狩猟民族の流入でした。その後も列島には人の流入の波が何波かありましたが、この流入は、戦いをも持ち込んだものであったとみられます。そして、現代に至る私たちのDNAにも大きな影響を与えたものと考えます。但し、それ以前の約2万年の間に列島で形作られた海の民としての漁撈採集を主とする暮らしの文化がありましたので、坩堝の中に混ぜられていったのでしょう。穏やかなのに時には激しく闘う日本人の2面性は、こんな歴史のなせる事とも考えられます。

勿論、人々も文化も断絶することなく、土器の出現に着目した縄文時代と呼ばれることになって行く、長く熟成された歴史です。

やはり、東は太平洋の大海原という行き詰まりの島々であったこと、北と南の2方向から人々が入ってきたことが、独特の文化を醸成したものと考えています。

このくらいの事は、子供たちに教えて良いのではないかと思います。

(了)

 

日本祖代の状況について

沖縄石垣島で発見されていた古人骨の年代は、27,000年前と発表されました。

4万年前頃、東亜地中海の海を越えて、家族で日本列島に渡って来た海の民、日本祖人による列島史の初期の人骨が確認されました。大災害である姶良大噴火後のものですが。以前から居た人たちか、新たに渡ってきたのか興味深いです。

既に、生活の場と葬る墓域が分かたれる精神性を有していて、風葬であったとみられています。

石器は、おそらくあまり発見されないでしょう。竹、木、草、海藻、骨、貝、サンゴなどの道具で生活し得た海の民であったことを示しているものと考えます。

そして、3万年前頃には、水平適応では北海道から八重山迄、垂直適応では高地の野尻湖などにまで、日本祖人は概ね列島に拡がり、我が国の文化の基層、原風景が形作られていました。

この間、少なくとも十数kmの外洋に漕ぎ出し、伊豆の神津島に貴重な黒曜石を採りに行っていた、そして、それが南関東や伊豆で広く交易されていたことは世界史的にも特筆されることです。

なお、沖縄本島へは、宮古島との距離(約300km)と当時の操舟力を考えれば、南九州からトカラ列島を越えて南下してきたのでしょう。

 

姶良大噴火は、当時先進の地域に起きた誠に残念な大災害で、北北東方向に火山灰は東北にまで拡がりましたが、祖先はそれを乗り越えて発展してきたものです。

日本の始まり(4万年前)-概ね列島全域への拡がり(3万年前)・姶良大噴火(2.9万年前)―大陸狩猟民族の流入(2万年前頃)ー縄文時代の始まり(1.65万年前)となります。

因みに、アイヌの人たちの祖先が北から渡って来たのは、2万年前頃以降と考えています。国会の先住民決議は、史実の裏付けが有りません。

推進した人たちが、日本神話に裏付けがないと言うのは遥かに笑止の沙汰です。

アイヌの人たちの人権は尊重され、習俗は守られ、差別があるならば是正されねばなりませんが、長い歴史を有する我が国に先住民問題なるものは有りません。

(了)

「歴しニア」の報告  日本祖人と昆布ハイウェイ

日本祖人の渡米(30,000年前以降)に関して、米北西太平洋岸の州Oregon大学自然文化史博物館、Jon Erlandson博士は、最終氷河期最寒冷期LGM後の17,000年前頃、下図緑部の昆布ハイウェイKelp highway(凡例赤枠)を海の民が、日本から渡って来たという仮説を唱えています。

両サイドに共通の食料としてカワウソなどの海洋哺乳動物、鰒あわび、エビ・カニ類、多くの魚・海鳥、海藻などを挙げています。

北太平洋の東西の鏡面対称性(北大 大原昌宏教授)からも納得できます。
海藻類は、食料としてのみならず、ロープに使用されたり、茎の中空部に灯火のための油などを保管する等、種々の有用な用途もありました。

スンダランドSundalandから、日本列島、ベリンギアBeringiaを経て、モンテ・ヴェルデ遺跡のある南米まで、環太平洋の海の民の移住(MPOR)の重要な一端を示すものでしょう。

(了)

日本祖人の痕跡発見?!

カテゴリー: 最新情報

「歴しニア」の報告ー「日本祖人」の痕跡発見?! https://youtu.be/BGrhO1ntyYo
日本列島始まりの人類である4万年前からの「日本祖人」の渡米の痕跡は、時代があまりに古く、主体は海浜であったことから発見は困難です。

しかしながら今回、米国考古学誌Archaeologyに、カナダ・モントリオールMontreal大学の発掘結果が掲載されました。

既に長期間の発掘が続く中で2.8万年前のマンモス化石が発見されている考古学宝庫(魚の)ムツ(類)洞窟において、遺物の3,600もの骨を分析した中に、馬のあご骨に石器で傷を付けたものが見つかりました。2.48万年前とみられるというものです。

馬のあごの骨に残るV字型(右端)Archaeology Magazineから

向こうでは学者先生が、年代を議論していますが、3万年前に北海道太平洋岸を出発しています、そして当時のユーコン川は今同様に旧ベーリング海に注いでますので、お伝えしています様に「歴しニア」には、何の不思議もありません。

洞窟の名が魚のムツ類Bluefishであることも実によく海の民に付合しています。そして、痕跡は、島か高地奥地に残るということにも。

人類の海の民の環太平洋展開(POR 、RLPP)論を示す痕跡と考えています。

定説である「人類のアメリカ進入は、シベリアからベーリング地峡を狩猟民族がマンモスを追って」というイメージを見直すべきと考えています。

今年は、カナダ建国150年、来年は明治維新150年、合同研究はどうだろうかと夢想します。

(了)

「歴しニア」の思い Facebook:Nara Akira

100年前ならはっきりです。日本人は、変なヤツと言われていました。下写真の魚介海藻を、嗅げる・触れれる・食べれる・好んで食べるという点で世界はザクっと二分されます。

内陸肉食系と海浜河川の生魚・海藻系にです。特に、海藻を言葉にするとはっきりします。

人類の環太平洋(POR)進出説は、南米アンデス4,000m級高地の人が何故、手間かけて海藻を入手しようとするのかを説明できます。

飛騨の山奥へ行ってもこれらは好まれますし。食育とは、こういう物の味を伝えていくことも重要です。実は、古い暮らしの痕跡は島や高地に残るものなのです。(誰だ、トロ・ウニ・フグ・海藻などの味を他所に教えちまったのは?)

万年の昔よりも海水面が100m以上も上昇していますので、沿岸に痕跡を見つけるのは誠に困難ですが、石器やDNAなどの調査と共に、こんな食の特色にも残っていると考えています。

そして、寒冷降雪地での適応を果たした人とアフリカを出た後、そんなに大きく変化したとも思われない海の民のDNAを比較検討し、アジア人のDNAをこの2区分を切り口として分析することが重要です。

アメリカ先住民研究も、この2区分がはっきり確立されていないため、万年前に来米した人たちについて分かり難くなっていると考えます。

アメリカ大陸の先住民研究及びユーラシア東部の人々との関係を結びつけ、来米の時期及びルートを考察することが今、求められています。

(了)

 

標題につきまして、新たな興味ある内容がFacebookに紹介されていましたので、整理し紹介いたします。

Nara Akira : https://youtu.be/BGrhO1ntyYo 海の民の復権を!
既にお伝えしましたケネウィックマンKennewick manよりもずっと古い下図の南米チリのモンテ・ヴェルデ遺跡(14,000年前頃)が多くの遺物と共に発見されています。

そして、南太平洋東部に人類が達したのは紀元後数百年、この両者は万年と千年で全くゼロが一つ違います。他方、雪の寒冷地の北海道に3万年前頃には日本祖人が遺跡に遺物を残し生活しています。

既に人類は、豪Australiaに海を80km位渡って5万年前頃に進出しています。当時の千島列島の島間距離はそれ以下でしかも次の島はいずれも見えていましたので、渡って行ったことでしょう。

当時は、ベリンギア地峡Beringiaによって北極海の冷水が入らない、ハワイに繋がる沿岸は氷河期とはいえ2.5万年前ころは寒冷が緩和され、北海道を経験した日本祖人は沿岸を移動して行けたことでしょう。何しろ、食糧豊富な地でしたので。

その地峡をシベリアSiberia内陸方面から大型哺乳動物を狩猟する民が渡っていったのが15,000年前頃以降ですので、日本祖人「海の民」が、米大陸に初めて渡ったと考えていますし、更に子孫は南米にまで沿岸を拡がったと考えます。

後でシベリアから来た人たちに押されて主役の座を失いましたが。

加えまして、関連の第1は、下図中央の鏡面対称性です。アジアと北米の海岸性環境や例えば昆虫に見られる類似性など生物群集の比較が興味深いと北大の大原教授が言われています(「モーリーNo39号」)。

時代に応じ寒暖・氷床などが緯度を上下しましたし、陸路、鳥、風、海流での生物移動もありました。

日本祖人は、言わばベリンギアへ登山し北米に下山して行った感じで誠にラッキーでした。しかも環境は祖人にとって厳しかったですが、山の高度は丘というべき北海道からの沿岸ハイキングでした。

第2は、Dhani Irwantoさんが、プラトンとSundalandに関して詳細な研究を本にしていますが、同地について、万年の昔に恵まれていた言わば始原の楽園であったことはもっと注目されて良いと考えます。

この楽園地域での多くの部族の文化を携えて海の民が、日本列島へ北上したことを考慮する必要があります。フィリピンからのルートもありましたでしょう。

また、南米チリの古い遺跡はどう解釈すればよいのかと言えば沿岸南下と考えるほか道がないですし、カナダで獲れた最大級のエビは、北太平洋の海獣、鮭など恵まれていた沿岸食料を象徴しています。

そして、既にお伝えしました2タイプ論を踏まえますと、沿岸地域を日本祖人が最初に渡米して行ったことが整理され理解できます。

以上の事から、現生人類の出アフリカから南米まで、この環太平洋進出説によってムリなく理解でき、この日本祖人「海の民」の人類史おける重要性を提言したいと考えます。

(了)

 

前回、日本祖人の渡米に関連しまして、環太平洋ルート(A)とシベリアからベリンギアを陸路渡るルート(B)について説明しました。

今回は、Aルートに係る既に説明しました9千年前のケネウィックマンについて、興味深い内容を見つけましたのでFacebook投稿しました、補足説明いたします。

「歴しニア」の報告 あの9千年前人骨“ケネウィック・マン”の子孫を見つけた?!ーa descendant of ”Kennewick man”
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo 海の民の復権を!

1996年、米北西部ワシントン州コロンビア川岸Kennewickで人骨が発見され、古人骨と分かった初期に鑑識医・人類学者等がアイヌかポリネシア系かコーカソイド(欧米系)かなどと言ったことと、当時数年前に制定された法律の通りに地域の先住民に返せということなどから、法廷訴え・論争騒ぎと調査になりました。

長引いたこの案件も最近のDNA分析により、一致する例はないが、北方のエスキモーの人たちと違う、まあ、地域ケネウィックのこのDNA調査に応じた現在の一部族の人に近いとなった結果を裁判所が認めて決着し、先住民に渡され古式に則って埋葬されることとなりました。

アメリカでは、コーカソイド(欧米系)かもと言った学者発言が長引いた論争になったことに大きな影響を与えたと思います。

私にとって大変興味深いのは、縄文・アイヌという語が出たこともさることながら、この人骨が、人類史の流れと9千年前に至る万年の混血状況を想像すれば十分に「日本祖人」・子孫も混じった可能性のあることでした。

更に、DNA分析結果は前述のとおりですが、調査においてA:海浜系、とB:シベリア内陸狩猟系を区分する視点とその視点での試料整備と照合がしっかり行われていれば、間接的にでも「日本祖人」・子孫の初渡米を裏付ける事が出来たのでは思われることです、誠に誠に残念ですが。

さて、今回紹介します興味深い事とは、1847年に行われたPaul Kane’s Great Nor-Westという本(Diane Eaton and Sheila Urbanek)に書かれた内容についてです。

Paul Kaneは、その時期にずっと東の五大湖より向こうのモントリオールから西へ米加国境を旅し下図の黒点のとおり北西部に足跡を残すとともに、興味深い多くのスケッチを残しました。当時、Kennewickは、Walla-Wallaと呼ばれる地域でした。

太平洋沿岸にTacomaはありますが、その近くのイチローのいる大都市シアトルはこの時代にはまだ地図に無かったのが興味深いです。北から話題のコロンビア川が屈曲しながら南下し、Walla-Walla・Kennewickで西進し太平洋のAstoriaへと流れています。

さて、興味深い内容とは、Paul Kaneが、7月上旬のこの地域(コロンビア川Columbia river)の旅の中で下図左の族長To-Ma-Quinを描いています(Diane Eaton and Sheila Urbanekから)。

明らかにシベリアの雪の生活を経て目が細いB系の人たちとはっきり違う目、顔をしており、前述の9千年前のケネウィックマンのDNA分析の通りなのです。

この顔つきは正に、ケネウィックマンのイメージの通りで、遺人骨を分析し復元を試みた米学者さん達が、縄文人、アイヌ、ポリネシア、コーカサスでは、俳優の○○に似てる、など騒ぎになった事情がよく分かります。

私が裁判に出ていれば、裁判長、ケネウィックマンの顔特に目は日本列島・日本祖人系(A)海の民の目元なんです!と言っていることでしょう。私の中では、下図の環太平洋の人類移動を裏付けるものです。
ところで、日本語の特徴としてゲラゲラ笑う、しくしく泣く、ずきずき痛む、など繰り返しの畳語が多く、インドネシア語も全く同様に非常に多いです。

そして、なんとケネウィック辺りは昔は地名がWalla-Wallaとダブってますので、この点で実に関係を納得するものでもあります。

当時のWalla-Wallaには、小さな砦がありましたが、下図をよく見てもらうと分かりますが、ほんとかなと思うくらい旗ポールが高いです。

そして、Paul Kaneは、Walla-Wallaでは歳が40を越える者は殆どおらず、また、よく食べる乾燥鮭に砂が混じっているのでそんな年寄は歯茎のとこまで歯がすり減っていると描写しています。

ところが、この歯がすり減っている話は、9千年前のケネウィックマンを調べた医者・人類学者が言ってる事と全く同じなんです!

違いは、先史人と言えば狩猟採集民族で、農作物でない肉筋などの堅い物を食べ続けたケネウィック人は歯が磨耗したと理解しているのに対し、Kaneは、砂交じりの乾燥鮭のせいだと書いています。

即ち、当サイトが強調する、彼は生活もA系のCoastal Tribe漁撈採集民であった可能性が強いのです!

先史人と言えば狩猟・石器史観を替えるべきだ、海の民の復権をと言う理由をお分かりいただけると思います。沖縄石垣島で2.5万年前の人骨が出てるのに石器が出てこないと先生方は騒いでいます。

私にはそれほど不思議では有りません。竹、木、動物の骨、植物繊維などがあれば、海の民の生活は十分できたでしょうから。

(了)

当サイト読者の皆様には、目新しい結論では有りませんが、Facebookへの投稿です。以前のHarvard医科大のDNA分析研究に基づく南米アマゾン3部族との関連、前回の中米オルメック人顔像との関連などに次ぐ痕跡探しの一環です。

(歴しニアの報告)日本祖人Nihon Sojinがアメリカ一番乗り!
―米Nativeインディアンの人骨分析から
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo 海の民の復権を!
米Michigan大学C.R.ブレイス教授チームが、米大陸・欧州の千数百個の頭蓋骨21ケ所の特徴を詳細に分類し、特に米各地で発見された9千年前以前の古い人骨の形状などから米大陸への移住者には2タイプあり、古いタイプは、顔立ちは立体的で彫りが深い日本列島人系で、米のスーSioux族やチェロキーCherokee族が近いと発表しています。

A系の存在と時期的推移が意義深く、これまで知られていることと合わせたものが下図です。長い時の流れと混血により分かり難くなっていますが、痕跡と考えます。

なお前回、中米オルメカ人顔像との関連を紹介しましたが、A系を裏付けるものです。他方、時を経た現代の南北アメリカの総体としてはB系でしょう。

(注:LGMは、最終氷期最寒冷期2万年前頃で、この時期には寒冷Beringiaを既に通過していた種族の発展確率が高い。)

用語として、新、旧、のモンゴロイドと言う言い方がありますが、混乱の元だと思っています。少なくともアジアの始まりにおいてはこの2元の分類による理解が重要と考えています。

特徴は、内陸狩猟採集系か、海浜・河川漁撈採集系かと言う点と寒冷降雪適応型か否かということになります。例えば欧州及び米国(白人)は、今では一般に内陸狩猟採集系・寒冷降雪適応型が主でしょう。

この地域2系、気候2系がクロスして4系が入り交り各地で特色ある暮らしになっていますが、歴史の認識のみならず、人間社会の生き方として海浜・河川漁撈採集系を見直そうと言うのが当サイトの主張です。

万年の昔からは、100mに及ぶ海水面の上昇により、遺跡・遺物が海中に消えているため、痕跡から想像力をも働らかせてということです。そういう意味では今宇宙物理論で話題のダークマター・エネルギーのようなものでしょうか。

広範囲にあった、ある筈だが、容易には実物証拠を掴めないものとして。

(了)

マレーシアにおける金 正男の暗殺が分かり易い直接の引き金と言えるでしょう。実行犯2人の女性の国籍も実行された場所も意味合いを持っているものです。

4発の脅威度を増した北のミサイル発射、米韓演習、尖閣諸島海域での中国勢力の行動の活発化、シナ海への米空母機動艦隊の進出と東シナ海での海自との共同訓練、そして、何よりも韓国の大統領弾劾決定と混乱及び今後の大統領選挙戦の波乱含み、アジア情勢は、目の離せない燃え始めている状況になってきています。

現在、アジアは普通に見て、中国による周辺小国の占領抑圧、国際法を無視した力の誇示による南シナ海等での荒っぽい露骨な行動と北朝鮮の危険な核・ミサイル開発と実験、体制の不安定さが大きな2大特徴です。

(西村幸祐Facebookから)

この状況に対し、米国は南及び東シナ海への空母艦隊派遣、THAAD韓国配備に踏み切ってます。そして、北朝鮮による白昼のクワラルンプル空港での暗殺を契機に益々、国際無法への対応機運が盛り上がってきています。

仮にヒラリー大統領であったなら、現下のアジア情勢はどうであったろうか、どう推移して行くだろうか、それは我が国にとってどうだろうか、と言う意見が見られない、そして「解放」という視点が無いのが我が論壇、メディアの欠陥です。

冷戦の残滓への対応だと言う人もいます。確かに、朝鮮戦争、ベトナム戦争は冷戦対応であり、代理戦の色彩もある戦争でした。

アジア史の視点で見れば、その要素よりもご主人植民地主義者たちが支配した桎梏を多くの国が脱した先の大東亜戦争に次ぐ、共産独裁勢力による国際法無視の力の使用、威嚇抑圧といった地域を広く覆う不正からの「解放の闘い」と言えるでしょう。

言わば共産独裁の軍事勢力に対する国際法に基づく自由民主体制勢力の闘いという性格と見られます。

この共産独裁の軍事勢力は、地域に根づいているだけにご主人植民地主義者たちよりも或る意味において厄介で手強いです。

日本の被拉致者・メディア支局・多くの企業などが、いわば人質に取られているような状況での政戦経済の総合的な闘いです。

こういう視点から私は、アジアでは戦後に冷戦の代理的な戦争はありましたが、米中の大国を中心とした国際法秩序、自由民主体制という価値を巡る抑圧と軍事脅威からの解放のための大東亜地域における第2次の戦争と捉えています。

今回は闘いの意義も異なり、日本は主役でなくプレーヤーも先の第1次大東亜戦争とは様変わりです。

そして、冷・熱戦は、やはり地域の歴史的な特色である朝鮮半島をまず焦点として複雑な様相で始まりそうな気配ですので、推移によっては一衣帯水の我が国に火の粉が飛んで来るという極めて大きな影響が及びます。

我が国の態勢整備、国際連携と協力、そして何よりもまず国民の意識改革が求められていると考えます。

(了)

「歴しニア」の報告 https://youtu.be/BGrhO1ntyYo 海の民の復権を!
Olmeca men, once in Mesoamerica, were descendants of original Japanese Nihon Sojin, Sundalanders and Out of Africa tribe.
中米の先古典期のオルメカ(Olmeca)とは、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明で、その後のマヤなどの中米メソアメリカ文明の母体となりました。(以下、地図及び写真はwikipediaから)

担った人の3mもある巨石顔像は、厚い唇、居座った鼻、くりっとした目などが特徴です。

北米Nativeインディアンには似ておらず、西郷どんやジャワ・マジャパヒト王国の名宰相Gadja Madaに似ています。そして、縄文人や最初の現生人類女性像イブEveにも似ています。

(Map:Dhani Irwanto)

因みにこの地域では、別に内陸の寒冷降雪地に適応を果たした内陸狩猟民族である元横綱の朝青龍タイプがおり、雪によい細い目が特徴でシベリアから渡米し、その闘いでの強さからか系統子孫は今では米大陸先住民の主体をなしています。

また、太平洋ポリネシアの人にも似ています。

しかし、時代を考慮するとポリネシア系の太平洋進出は、ハワイでせいぜい500B.C., 南東のイースター島では近年の研究で1200AD頃とみられています。

従って、それらより早い時期の中米進出は日本列島を経由した日本祖人(漁撈採集系)の子孫系統と考えざるを得ず、人類の環太平洋沿岸移住説を示すこととなります。

南米ブラジル、リオ北部の古い女性人骨ルシアは、アフリカ人に似ているようだということですので、南米までの環太平洋の移住は、そのスタートのパンカル半島・スンダランド地域から日本列島、Beringia南岸、アラスカ南岸を経て太平洋岸を下図のような流れで行われていたものと考えられ、無理なく理解できます。

そして、これまでのことから、このルートにおける進出・移住が、始まり・途中・終着で人々の特徴を大きく変えることなく行われたらしいということが重要です。

即ち、沿岸での海辺ライフスタイルを概ね保って移住が行われたことが推論されます。

沿岸地域における実際の遺跡・遺物は、当時からの数十m以上の海水面の上昇によって調査は極めて困難ですが、古い民族の広範なDNA調査と共に、このような今に残るものから推論を進める理論歴史考古学の研究が重要と考えます。

(了)

 

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