現在、台湾と日本は1時間の時差がありますが、台湾の人たちの中にこの時差をなくして日本や韓国と同じ時間にしようという意見が出てきています。

現在の日本文化や日本統治時代の良い想い出があることも一因でしょう。

ところでそうなりますと、正に4万年前頃の日本列島史始まりの日本祖代に戻り、下図の曙海の畔が注目されます。

日本祖代の人たちは、どんな顔立ちだったのでしょう?後の時代の縄文人と出アフリカからSundaland(東南アジア)を北上してきた人たちの混じったような顔でしたでしょうか。

さて、よく縄文人は何処から来たのか?という問いが発せられますが、これは誤りです。

日本祖人が、3万年前頃、概ね列島全域に拡がった後、大陸からの新たな異質な狩猟族の進入を2万年前頃に受け、列島での暮らしを多様に熟成させた日本祖代の約2万3,500年という長い時を経て、土器が現れて縄文人と呼ばれていきます。

その頃の人は、当然、列島に継続して住んでいる祖代の人たちであって、ある日に皆が縄文人に変わった訳ではありません。

ところで、「江戸人」と言って1枚の絵を出せるでしょうか?

北の北海道から南の八重山迄生活している多様な人々を1枚でこういう人と言うのはムリでしょう、誤解の元です。

この始まりの日本祖代は、世界の行き止まりの列島で2万年を越える長い時代を過ごした海の民である日本祖人の列島における風俗習慣、文化が作られた時代です。

西・南と北・東の違いや地域ごとの人と暮らしぶりの違いも出てきていることが、残された石器などから分かります。

この日本祖代は、決して無視されるべきではない、ある時から縄文時代と呼ばれていく、未だ学術的な名前すら与えられていない、私たちの遠い祖先である日本祖人が暮らした始まりの時代です。

この国の原風景であり、近年、世界で認められている日本文明の始まりなのです。そして祖先である日本祖人は、おそらくは世界史上初めて北海道から環太平洋地域をアメリカ大陸に渡って行ったと考えられる人たちなのです。
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米(2)

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Youは、何しにAmerica へ?

TVインタビュアーの質問に対し、日本祖人が、答えました。

3万年前に、引き続き北海道から次々に見える処女地で手つかずの食料がある島々や沿岸陸地を越えて北上して行ったら、入っちゃったんです。

そりゃ当時はカムチャッカからベリンギア地峡沿岸を入って行けば、国境標識も無いですから気が付くことも感慨を抱くことも当然なく、カナダを経て米本土への進入もそういう同じ事情でしたね。

偉大かつ幸運だった、昆布ハイウェイ

当時、北極海の冷水は地峡があったためにベーリング海に流れ込まない、ハワイに繋がる比較的温かい海でした。

世界の学者は長い間、最初にアメリカに来たのは、シベリア(B)からだと考えてきました。

近年、Bのルートで米国本土へ入った時期とOregon州で見つかった遺物(実は南米の遺物なども)の時期などから、特有共通の石器を使うクロービス文化人を含めて北太平洋沿岸ルートが注目されています。

しかし、依然として何となく、B人が来たというイメージがあります。

それは、①A海の民の日本祖人が、北海道にまで北上して3万年前に雪の中でしっかり暮らせていた事、また、千島列島越えは次々に行く手の島々が見えていたこと、

②北太平洋沿岸が比較的暖かく、北海道と最寒のBeringia地域の真冬の温度差は想像に反し差が小さく、また、「昆布ハイウェイ」と呼ばれる海の民の移動生活に適したルートであったこと、

③何よりも海水面の数十m上昇により沿岸生活痕が海中で、残る痕跡は後から来た強いBのものが殆どであることなどが、よく認識されていないからでしょう。

極東シベリア東部チュコト地域でのBの時期・状況もはっきりしません(15,000BP頃?)。簡単に海の民への切り替えは、出来ないでしょう。

そして、④今もって、当時の温かったベーリング海沿岸の気候、地形、食料になる動植物の状況、移動生活の要領などが、学際的に研究され想定されていないからでしょう。

従って、今もって日本祖人が新大陸アメリカへ渡って行ったことをしっかり研究記述した論文は世界に有りません。(欧米人にとっては、地図の一番右と左を繋げていくことが思いのほか難しいのかも?)

いずれにしろ最寒期(LGM)には、ルート上で最も緯度が高く寒いベーリング地峡沿岸を、舟で既に通過して行ったA:日本祖人の家族群の南下した移住成功確率が一番高かったでしょう。

海中の遺跡が見つかっていなくても、周辺の遺跡等の諸状況から、理論的にこういう提唱をすることがあっていいTheoretical ancientology「理論歴史考古」(遺跡・遺物の学でない)分野もまだまだ低調、未熟です。

沿岸をシベリアから来た人たちが海に慣れたB’の人たちとして生まれていれば、Aに続きましたが。
Mr. President Trump, they were the first Americans !
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米に注目!

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中国科学アカデミーによる湖南省で発見された天元人DNA(4万年前)分析の最近の発表では、下図のように中南米にまで拡がっているとされ、欧州ではアジアとの違いも注目されるでしょう。

確かに東部ユーラシア・アジアで、万年前の時代に拡がって行ったのはそうなんでしょう。3000年前頃には、更に、スンダランド地域にまで拡がっています。

ところで、この分析と米国Harvard医科大が頭抱えた、上図黒丸の豪・パプアとアマゾン古部族のDNAの類似性の問題を併せ考え、カムチャッカ半島のDNA、そして人類史の補助線というべきSundalandに目を向ければ、それらのリンケージが上図のように認識されます。

不思議な事ですが、日本において4-3万年前の旧石器遺跡・遺物が豊富に発見されている状況を、こういう世界人類史の文脈で考察した論文は意外に有りません。

さて、インド、東南アジアからカムチャッカを経て南米というリンクに注目する事は、出アフリカ人類の最古の進出ルートとして、南米に至る環太平洋沿岸に沿うものがあった事を認識することになります。

一番問題となるのは、北方領土~千島列島~カムチャッカ半島東岸~ベーリング地峡沿岸を行く可能性ですが、このサイトの読者の皆さんには既にお馴染みのものです。

最新の研究により、米国西部海岸のオレゴン州の古い遺物などが従来の下図Beringia地峡ルートでは説明できず、昆布ハイウェイで沿岸を渡って来たのではとなってきていますよね。

残念ながら、何となくシベリア内陸東部からというイメージが世界の学界の主流のようです。

当サイトでは、次々に見えた千島列島越えやアラスカの寒さなどを踏まえ、重要な点としてベーリング海に北極海の冷水が入っていなかった当時の状況や動植物の東西対称性などを指摘し、南米における古い遺跡・遺物の情報と併せその最古の移住進出を提唱(MPOR説)しています。

それはとりもなおさず、環太平洋ルートで通過して行ったそのリレー中間の4-3万年前BP日本祖人(今は列島で発見しにくいDNA)が、初渡米したことを示すものであります!(進出可能という前述内容の前回分もご参照ください)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

4万年前頃、南方のSundalandから北上した子孫たちが、曙海の畔での暮らしから家族で越えて九州にやって来て北上して行き、北海道にまで拡がった日本祖人の暮らしに迫ります。

下図のように、先ず、列島全域に拡がった「海の民」の暮らし振りの基層の上に、大陸からの第2層の人々が、北の樺太からと西の曙海越えの両方向から流入しました。

そのためその特徴は、西と東・北に別れ、人と文化の流れから太平洋側と日本海側に別れ、更にこの2つの流れの重なった中央部分に重心があった、重層そして熟成されたものと言えるでしょう。

(今に繋がる特徴と思いませんか?関ヶ原戦が話題ですし)

他国と違って、行き止まりと言われる日本列島における人々と文化の分かり易い特徴です。

因みに、祖代後に縄文時代を経て、弥生時代に西から米文化を持った第3層の人々が渡来して関西に重心が移り、徳川時代にまた実は大昔のように戻ったと言えるでしょう。

これが、長い旧石器時代と言われる後期の日本祖代における全国の遺跡・遺物(主に石器形式)から導かれる暮らし振りの「くにのかたち」です。

西からのA西型と北からのB北型という異なった石器形式に別れ、更に、黒曜石をみますと図のように、原産地を中心に円の広い地域の仲間で交換され、北海道の白滝産や北部九州の腰岳産は、域外にも出て行っていました。

更に、祖代から縄紋時代に移行していく頃には、細部の石器道具の作り方が地域ごとに違いを見せて来ていて暮らしぶりもグルーピングできそうな特色があったものと思わせます。

結構、道州制の議論とかみ合っていたり、今も見られる西と東・北の様々な違い(丸餅と角餅などなど)を思わせる驚きの附合と言えるものです。

日本祖代の時期的な区分は下記の前回投稿をご参照ください。

祖人分布10.5

さて、このように日本祖代を見てきますと、日本史は、近世以降を知れば十分という人もいますが、不遜でしょう。

海の民の暮らし、どんどん重なって行った4万年にわたる暮らしぶりは、精神面を含めていろいろ繋がっていることでしょう。

(了)

 

4万年前頃、曙海の畔から多くの家族が海を越えて九州(八重山にも?)にやって来て、3万年前頃には日本祖人は北海道にまで拡がりました。

しかし、2.9万年前、鹿児島・姶良大噴火に遭って九州と西日本は大きな被害を受けました。そして一部の渡来を含めて或る程度その回復がありました。

最寒期の2万年前頃には、北と西の双方から暮らし振りの違う狩猟族、寒冷適応族の新たなかなりの人々の流入がありました。

1.35万年前頃には、関東にはっきり人々の多い列島の新たな形が整いました。そして、列島における生活に一般的に土器が含まれる縄紋時代となります。

このように、日本祖代(約2.8万年)で始まりの「くにのかたち」が出来上がって縄紋時代に移行していくときは、関東に人が多い現代の「国のかたち」に似ていたことが驚きです!(この後の時代には色々変化しますが)

日本全国に残された旧石器遺跡から人々―日本祖人に注目すれば、

①前期 曙海の畔の西・南から第1回目の人々が、初めて海を越え入って来て北に拡がって行った西高北低

②中期 姶良大噴火の九州・西日本被害により相対的な西低北高と一部渡来によるその回復化

③後期 最寒期に北と西から第2回目の多くの人々が入って来て、寒気が緩む中で列島に広く及んで平準化、そして関東のはっきりした肥大化

です。

暮らし振りは、先ず列島地域に「海の民」の暮らしを主に高地の川辺にも人々が拡がって始原風景が出来ました。ちょっと前まで、日本人は生魚と海藻を食べる、好む、変なヤツと言われていました。

そして、噴火大災害に遭ってその損失・傷を何とか回復していった2万年前頃の最寒期に、新たに大陸の狩猟・寒冷適応族という暮らしぶりの異なる人々が北の樺太から、また、狭くなった西の曙海の海峡を越えてかなり入って来ました。

そのことで生業が海、そして更にはっきり陸の狩猟等もとなって行き、関東に更に人が集まって縄紋時代(万年間)に移行していったようです。

日本祖代とは、初めて日本列島に今に繋がる現生人類の海の民が入って来て列島中に拡がり、後期には更に北と西の2方向から大陸より暮らしぶりの違う狩猟・寒冷適応の人々が入って来て拡がりの収まりを見せ、一応「くにのかたち」が整った時代と言えるでしょう。

そこには、列島の北・東北部と西・南部及び太平洋側と日本海側の違い、関東と甲信越の繋がりといった実は今に続く特色が窺がえるものでした。日本史は、中世から、近世から学べば十分と言う人がいますが、誤解でしょう。

祖代の後期には世界最古の土器も出現しましたが、やがて文字通り縄紋の土器が広範に使われる縄紋時代へと暮らし振りもはっきり変わっていきます。

(因みに万年を経た縄紋末期には、お米を持った人々が西から入って来て陸上主体の弥生時代になって行き西高北低化の人口は増加し、盛んに争いも生じました。)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

 

4万年前頃から始まった我が国の歴史において、日本祖人が37,000年前頃という大昔に、伊豆半島沖の神津島に舟で海を越えて黒耀石を採取に行き来していました。

そして南関東や伊豆などの広域においてそんな古い時代にその黒耀石の交換が行われていた事も世界の学界に驚きをもって迎えられています。

先史人たちの狩りなどの重要な道具の宝であった輝く切れ味鋭い黒耀石は、他に北海道、本州中央、隠岐の島、九州北部などの原産地が良く知られています。

海水面が数十m低かった当時の日本祖代の「海の民」の木・竹・骨・皮などを活用した暮らしは今は海の下ですが、陸に残された黒耀石の石器は、当時の状況を探る大きな要素です。

神津島行きの渡海の時代と広く見つかっている事実から、日本祖人は曙海の畔から海を家族で越えて九州(八重山も?)に来た時には、既に黒耀石の価値を知っており、探して交換をした経験を有していただろうと考えられることが重要です。沈んだSundalandから北上してきましたので。

さて、例えば日本語はいつできたのか? 一昔前にある学者は、母音子音もはっきりしない状況からまあ言語らしくなったのは3,000年前頃だろうと言いました。

私は、日本祖人の作・操舟、渡海、黒耀石採集、交換などとSundaland地域の状況を考えれば、4万年前、九州に来た頃から既に結構な話コミュニケーションが出来ていたものと考えます。

日本語は、ぴったりした発地が分からない孤立語ですが、おら、あんた、好いとるは、英語や中国語のI love you.に比し古いことが分かります。シチュエーションを考えれば、おら、で十分、おら、あんたで十二分でしょう。見つめていますので。

同じような人たちによる以心伝心があった海岸の小社会の大きなものであったことを窺がわせ、いろんな部族が居る内陸狩猟族の慌ただしい暮らしぶりとは違ったのです。結論を早く言えなどと言われない。

ところで黒耀石です。

バンドゥンの小さな展示館にも黒耀石の石器は飾られ、隣町のGarutは大原産地ですが、国際学会の資料には載っていません。その資料から、不思議で当然かもしれませんが、人類世界の文明の源流痕跡が窺がわれます。

環太平洋の豊かな黒耀石分布は、現生人類の進出展開によく合っていて、日本は今や一文明と言われる理由が納得しうる豊かさですし、人類がユーラシアに出た地域やメソポタミア・欧州への進出の源流に符合していることも不思議です。

アメリカ新大陸の状況は、今後の解明ということかもしれませんね。

そして、既に報告した環太平洋の火山帯・人類展開史とも符合しているのです。鋭いガラス状の黒耀石が火山帯で見付かるのは当然ですが、人類史の進出展開と足並みを揃えていることが不思議です。

 
 (了)
歴史の裏付けのない「アイヌ先住民国会決議」は名称変更を!
我が国先史における皆さんの議論は、まだまだ「縄文」で留まっているようです。結論的に、4万年前頃からの列島史始まりの「日本祖代」は、少なくとも3つの大きな出来事が挙げられるようです。
1. 現生人類の移動及び我が国の旧石器遺跡分布の状況から、南方の現生人類・海の民が、4万年前頃、初めて曙海(仮称)を越えて九州(八重山含む?)にやって来ました。
 
そして太平洋側と日本海側を北上し、3万年前頃には北海道にまで拡がり至り、また、内陸高地にも拡がりました(当初の列島の原風景)。
2. 2.9万年前頃、鹿児島・姶良大噴火があり、特に九州は壊滅的に、西日本も大きな被害を受け、火山灰は東北にまで降りました。当時の人々が、海辺川辺で暮らしていたので、農業ほどではなかったとしても寒冷化や灰汚染は厳しいものでしたでしょう。
他方、この大災害が人々の精神心理に及ぼした影響も極めて大きかったものと思われます。
実は私は日本祖人が、北海道から千島~新大陸アメリカへ渡ったと考えていますが、この大噴火が人々を北方に押し出す契機になったのかも知れないと考えています。

3. 氷期最寒期の2万年前頃、大陸から樺太を経て北海道へ、また、北東ア平野から九州へと狩猟族の渡来があり、列島人は圧迫されあるいは混じり合い文化的に大きな影響が及びました。

因みにアイヌの先祖は、早くてもこの時期の渡来とみられ、我が国の南方発「先住民」からは史実の裏付けの無い政治的な国会決議(2008年)は名称変更が必要です(例えば、「アイヌの人権を尊重する国会決議」のように)。
何よりも、簡単に「先住民族」などと言える人がいないことが、万年熟成の長い歴史を有する我が国の特徴ですから。
なお、アイヌの古い言い伝えでは、小柄な海の民・先住民を北に追いやったとなっており、明治時代にこの事は一旦否定されてましたが、現生人類の出アフリカということなどが分かってきている現代の歴史認識からは、納得できる伝承です。
お雇い外国人のモース教授が大森貝塚を発見して考古学を導入し、坪井教授が唱えた先住小人コロボックル説は、今こそ見直されるべきと考えます。

そして、最寒期の終わる寒暖乾湿の変動の激しい状況の中、土器が出現し(1.65万年前頃)、生活の変化が始まって縄文時代(万年間強続く)と呼ばれていきます。
主たる海の民・日本祖人と大陸渡来の一部狩猟族の混じった縄文人という訳です。
地域によって違いがありましたが、何しろお国の始まりの事ですので、研究中だがとして、子供たちに教えて良いのではと思います。
遺跡から出て来る人骨は、水産物・植物を主に食し、多くが毛皮パンツで槍持って大型獣を追っていた訳ではないようです。
少し前までは、日本人と言えば生魚や海藻を好む変なヤツと言われていましたが、列島史始まりからの特徴をよく表していると考えます。
ところで祖代末期の最初の土器は、私は、堅いアクの強い植物や暖かくなって臭くなり易い水産物などを煮たのでは、と思っています。
そして、百年前の日本人を撮った写真は、魏志倭人伝に書かれた海の民・倭人そのもののようです。曙海を越えて来た日本祖人の子孫であることを感じさせますね。
(了)

約4万年前、我が日本列島史の始まりである日本祖代の状況に迫ります。

現生人類が出アフリカを果たし、東進して東南アジアのSundalandの地域に至り、6.5万年前に豪州に数十㎞の海を越えて渡っています。

注目されますのは、東チモール東部のジェリマライ遺跡で5万点もの魚骨が発見されて、4.2万年前と判断される、捕獲が容易でない外洋表層魚(サバ科、鰹やキハダなど)が含まれ、時代は下りますが釣り針も発見されています。(京都府大 小野林太郎博士)

これらの事から、人類の豪州渡洋は、単なるハプニングではなくかなりの数の外洋渡航に長けた海の民家族の必然の渡航であったと言えます。

そして、日本列島史の始まりを考えます時に、Sundaland地域から北上して来た人々が、外洋渡航に長けた「海の民」の子孫であったであろうことは重要です。

海を越えて九州に至り、3万年前頃には北海道にまで達して拡がり、我が列島の原風景が出来ました。その後、樺太から北海道へ、また、西から九州へかなりの人が特に2万年前頃、渡来したようです。

こう考えますと、列島史始まりの日本祖代は、曙海の畔からとなります。

先ず気温が4℃くらい低い時代でした。海水面が80mくらい低下していましたので、北東ア平野が台湾山地から朝鮮山地まで長い海岸線を作っていました。

次に、気温から今と違って曙海の畔には温帯広葉樹林が拡がり、林内には猪や鹿などの動物たちが居たであろうことです。木、竹、骨など十分な道具や暮らしの材料が得られたでしょう。

寒暖と乾湿が、年により季節によりかなり変動が激しい厳しい時代だったようですが、このことは返って適応を図る人々の発達を促したのかも知れません。

その後の早い時期から、関東伊豆の神津島に渡海して黒曜石を採りに行っていますので、やはりそもそもの海の民で曙海の畔で水産物を主に食し暮らしていた事でしょう。

台湾山地から北上して九州に定着するのに約2万年くらいかかったのではと思われますが、これは北上による寒さへの適応(又は南西の長距離海峡越え)とみられます。

欧州の例からこれだけの期間ですと、皮膚の色は大分薄くなっていたものと思われます。

しかし、この初期の寒冷適応によって、九州から北陸、東北、北海道と降雪寒冷地へ拡がって行く基盤が出来ていたのでしょう。

この時代は、国境も無い曙海の畔の人たちはまあ似たような海の民の暮らしぶりであったでしょう。

そしてこの事から、従来の黒潮「海上の道」論ですが、逆に五島から南九州、沖縄本島という時計回りの日本祖人進出ではなかったのかという問題が出てきます。

現在の遺跡・人骨では、山下洞人が八重山人骨よりも古いですし、何よりも長距離の宮古~本島間の海峡越えがあります。八重山へすら、長距離の黒潮越えの厳しさから、台湾からではなく、時計回りに経験を積んだ人々による本島—>八重山であったかも知れないと考えます。

やがて、北東ア平野の人たちは、海水面の上昇に追われて西進し、内陸から来た大型哺乳動物の狩猟民族に圧迫されることになります。

九州から北上した日本祖人は、海水面の上昇でより大陸側と離れて独自の熟成の度を強めたのでしょう。

そんな海の民集団が、太平洋側と日本海側の両ルートで北へ拡がって行ったようです。そして、川を遡行して高地にまで暮らしの範囲を拡げて行きました。

更には、北海道から千島列島、ベーリング地峡南岸を経てアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えます。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo)

(了)

 

9月14日付、シベリアタイムズ報道。

豪(ウォロンゴン大学)・露共同研究者が、アルタイ地区のデニソワ旧人洞窟を調査したところ、5万年前以前の緑泥石の腕輪など驚きの遺物の数々を発見した。

これまでの研究から、デニソワ旧人のDNAが、豪新人先住民アボリジニに4%入っており、その他チベット人やパプアニューギニア・メラニシア人にも入っている。

そしてこれらは、デニソワ人DNAがワラス線を越えて数十kmの海を渡り豪州に6.5万年前に至っていたことを示すが、これも驚きの謎である。

旧人とはいえ、今回発見の進んだ遺物を見ると舟や筏を作ったのかも知れないと研究者が呟く状況である。

さて上図のとおり、5万年前以前と言う旧人の遺物は全く驚きの知的な品で、これまで新人最古のインドネシアのスラウェシ・マロス洞窟手型でさえ4万年前です。

また、豪露チームにとっては、8,500kmの離隔が何よりの驚きですが、これは我が日本祖人にも関係深い人類史の補助線「スンダランド」に注目でしょう。

つまり、スンダランドでデニソワ旧人と出アフリカ後の新人の交じりが生起し、そのDNAを有する新人「海の民」が越えて行ったと考えるべきでしょう。

人類史の百貨店スンダランド地域では、ジャワ原人のみならず議論の多い小原人ホビットなど興味深いことが多々有ります。

豪露チームは、これらに関し更なる研究が必要と言っています。

デニソワ旧人が日本列島に来ていた可能性も全く無い訳ではないでしょうし、デニソワ人がこれほどの文化であるなら、新人も我々の想像以上に進んだ文化を有していたかもしれない夢が拡がります。

現生人類が海を越えて日本列島に来て、伊豆・神津島に外洋を渡って黒曜石を採取し交易していたことは、やはり、日本祖人が元々進んだ海の民であったことを示していると考えます。

やがて更に北上して北海道にまで拡がって渡り、降雪寒冷地に十分慣れた彼らは、前方に見える食糧豊富な処女地の千島列島の島々に渡って行った事でしょう。

そして更にカムチャッカ半島東岸からベーリング地峡南沿岸を進み、その意義など知らぬ間にアメリカ新大陸に到達していたことでしょう。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

これまで、旧石器遺跡の状況からとその後の文献からと2回にわたり我が国始まりの祖代を探りました。今回は、言葉の痕跡から探ります。

現生人類の流れの基本(約10万年前頃の出アフリカが始まりで、Sundaland-豪へ拡がり、北上)を考えれば、如何に遠く離れているとはいえ、日本語とタミル語が近い(大野 晋博士)とか、タミル語とも近いアルタイそしてツングース系と日本語が近いと言われても驚くことはないです。

日本語が混合言語であり、タミル、アルタイ・ツングースの要素があるという事は納得理解できます。

しかしここで注目したいのは、漢字を共通にする大陸の中国中央部の漢語とは違う種の言葉であり、暮らしの習俗も異なることが実に興味深いです。

この事は、既に日本祖語が出来上がっていたことを示します。丁度、戦後アメリカに占領されても米語にはならなかったようにです。

北東ア地中海の古語の痕跡を探ります。

例えば、八重山とインドネシアの語の「山芋」、南方ルートの語「海浜」は薩摩の隼人、アイヌにまで共通です。

また、太陽、月、光その他の語や真っ白・真っ黒のマ、出る・動く・抱く等の動詞や食・果物など南方インドネシア等、台湾、比、日本など明らかに南方ルートの共通性が実に沢山残っている(琉球方言の成立をめぐって 村山七郎)ようです。

また、あかあかいらいらなど繰り返す畳語は、日本語と南方語の共通性を強く感ずるもので、米インディアンにもみられるようです。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

因みに、こういう点に関しよくポリネシアからという人がいますが、万と千で日本の古さはゼロが一つ違う古さですので、スンダランドからというべきです。

これらの痕跡からも、南方と関係の深い遠い昔の日本祖代の言葉の成り立ちが窺がわれ、それはまた、祖人の成り立ちでもあります。

無論、これらについて黒潮北上の流れが関係している事は言うまでもありません。

さて、先史時代のユーラシア東部は、ざっくり、A(旧)タイプ:沿海川漁撈の根菜・稲作系とB(新)タイプ:大陸狩猟の牧畜・麦作系の地域グループに大別されます。

Bにより内陸高地に追われ、その状況に適応していったA系もいたようです。

そして、日本は東の行き止まりの海中の細長い列島でしたので、他と違って坩堝で地域差を持ちつつ熟成されたということが大きな特徴でしょう。

(了)

既に報告しましたように、今とは大分環境が違いました4万年前、北東ア地中海の畔から海を越えて九州にやって来た人々は北上し、旧人とも遭遇しつつやがて北海道にまで拡がりました(3万年前頃)。

約2万年間(6-4万年前)とみられる長い北東ア地中海の畔における暮らしは、その後の列島での暮らしの原点でした。

北上した北海道までの沿岸部の拡がりとともに、結構早い段階から内陸の高地部にも拡がっていたことが残された旧石器遺跡から窺がわれます。

さて、日本史最大の謎、3世紀の倭の邪馬台国については今も論争が続いているようです。その後の7世紀には、隋に船が派遣されて学びの交流接触がありました。

その隋書では、下図のように依然として倭国の位置の認識が会稽の東と少し変ですが、東西南北の大きさ(行程5及び3ケ月)や朝鮮半島からの距離(3千里)などがしっかり示されています。

そこから、最初に書かれた魏志・倭人伝の侏儒国、裸国・黒歯国に注目すると、あまり違和感なくそれらが上図のように収まります。

重要な事は、裸国・黒歯国が船で1年くらいかかる所で、交易があったことです。

その行程と地域の状態からは、フィリピンだったのだろうと思われますが(インドネシアかも?)、紀元前後の簡単な船で熟練のノウハウを要するそんな長期の外洋航海が行われていたことが重要です。

無論、黒潮流を活用したものですが、海人の航海行動力があったこと、また何よりも、代々語り伝えて来たその方の地からやって来たからこそ、交流したのだと思われます(貴重な貝などを求めての事でもありますが)。

日本祖人は、基本的に南方からやって来た人たちと考えられ、その子孫の海人がまだ多く倭国各地に存在した邪馬台国話からも遥かな「日本祖代」の状況が窺われるのです。

因みに隋書は、「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。」と書いています。

(了)

夏休みも終わりましたが、以下ささやか宿題の提出です。
4万年前頃の我が国の始まりを考察しました。

下図第1図のとおり、海を越えて九州に至った海の民・日本祖人は、列島を北上して3万年前頃には北海道東部に達していました。

その間、黒曜石採取の神津島行き舟行が世界史的にも大変注目されます。

そして右第2図のとおり、この地域の古い事では、五島から沖縄本島に至る共通性ある円筒石斧の使用が注目されます。

よく言われる南から北上した黒潮文化圏というよりも、台湾から東アジア平野沿岸を北上し時計回りした北東ア地中海文化圏と認識する方が適切ではないかと考えます。

即ち、以前報告しました沖縄本島への南下説です。

また、九州西北部(五島等)が長い間にわたり弥生化を拒み保持していた縄文以前の習俗(祭祀・呪術)や言葉などは、北東ア地中海の畔の当時の様子を幾らかなりとも示唆するものと考えます。

さて、家族居住の一番乗りは、1.台湾から近い黒潮流越え八重山か、それとも2.長距離北上し時計回りで渡った寒い九州北部か、興味深い事です。

今、渡来ルートについて強いて意見を言えとなれば、先着はともかく基本的に後者の九州北部だろうと答えます。

①渡来後の列島での北上拡がり状況、②八重山で3万年より前の遺跡は未発見、③黒潮越え約70km舟行の困難さ、④台湾に比べた八重山小島の当時の相対的な生活魅力、などからです。

遺物は海水面が数十m上がった北東ア地中海の畔の海の中ですが、こんな我が国始まりのイメージは如何でしょうか?

そしてその後、北海道からアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えています。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

インドネシアでは、海の民として活躍したブギス・マカッサル人の根拠地としてスラウェシ島南部は良く知られています。

そこのマロスMarosは、4万年前からの洞窟遺跡で有名です。

現生人類の描いたものとしてスラウェシ島のこの地の手型や動物絵(写真下右)が世界最古級としてよく知られ、私も現地を訪れた際に洞窟壁に舟と動物が描かれている(万年・数千年前)のを見て強い感銘を受けました。

世界的には、人類最古の紋様として南アフリカ南岸のブロンボス洞窟の顔料石に描かれた格子目の線刻画(写真下左)が有名です。

ところが人類史百貨店の当地では、遥かに古い50万年前の旧人による東ジャワの貝殻に描かれた線刻(写真上)が知られています。

そして驚くべきは、貝に描かれたその連続したジグザグ線刻が、時代も場所も全く遠く離れた南アフリカのものと似ていることです!どういう事なんでしょう?!

貝線刻の発見場所は、ジャワ原人などが見つかっている東ジャワ州です。

また、鉄などの無い時代ですので、堅い鮫の歯などで描かれたのかも知れないということですが、やはり主体であった海の民は、その知的認識・芸術力において旧人でさえも私たちの想像を超えていたのかも知れません。

こうしてみますと、4万年前、日本列島に海を越えてやってきた人たちは、十分に知的能力があったようです。

それにしても、世界にはぎざぎざがいろいろあります。

同好の士が教えてくれましたが、福島の中田横穴は完ぺきなものです。正に黒潮の海岸傍なのもいいですね。

ところで私は、日本列島にやって来て4-3万年前頃に九州から北海道東部にまで拡がったその海の民・日本祖人が、当然にして北方領土で留まることなく、食料豊かな処女地として前方に見える千島列島を北上し、ベリンジア沿岸からアメリカ新大陸に拡がって行ったと考えています。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

現生人類による4万年前頃の我が国始まりの時代は、今より気温も海水面も低く、私たちとは異なる旧人(デニソワ人系)がまだ存在(鬼の記憶?)していたようです。

日本祖人を考える場合、現生人類の出アフリカ後の歩みとこの時代の日本列島に残る遺跡の状況を考えれば、基本的に南から北に北上して拡がったものであり、何よりまず揺籃の地である「北東ア地中海」が注目されます。

南方から台湾山地地域に北上して来た海の民が、九州北部(八重山にも?)に至りました。九州に達した時代には、同種の人々がこの地中海ほとりの海辺や島々に住んでいたことでしょう。

台湾山地以降(海水面低下を考慮)は、八重山へは家族で容易ではない75km幅くらいの黒潮の強い流れの深い海を渡って行く必要があり、一方の九州北部へは、北東ア平野沿岸の長距離を気温の低さ(現在-4度C)に適応しつつ北上し、対馬へは、よく見えていたものの数十km幅の浅い海を越える必要がありました。

北東ア地中海の西岸地域から海を越えて日本祖人になるのに、現時点の判断では約2万年(!)をも要したことになります。

この事は、①台湾からの長距離北上の気候適応と②家族集団での渡海に至ることが容易ではなかったということです。

また、宮古島―沖縄本島間の離隔(約170km)の大きさを考えますと、私は沖縄本島への当時の定着は、北の南九州・奄美大島から南下したのかもと考えています。

つまり、日本の始まりは、先ず当時の「北東ア地中海」の畔での暮らしぶりに想いを馳せることが極めて重要です。

そして日本祖人は、新たな人々の渡来を得つつ列島を北上して降雪寒冷の厳しい北海道にまで拡がって原風景を作り、島国独特の文化を長い間に熟成させる基盤となりました。

その後の画期としては、特に西日本が大きな被害を受けた鹿児島・姶良大噴火(AT、2.9万年前頃)があり、その時期以降は祖代後期となります。

次いで最後の氷河期が終わっていく状況の中、土器出現(1.65万年前)をもって縄文時代・縄文人と呼ばれることになりますが連続したものです。

また、この日本祖代には、ベーリング地峡沿岸から昆布ハイウェイを、人類として初めてアメリカ新大陸に進入して行ったイベントが含まれているものと考えています。

3万年前に北海道東部に達した日本祖人が、食料豊かな地への北上をプーチンもいないのに続けなかったとは思えませんので。1.6万年前頃には、アメリカ北西部オレゴン州の太平洋沿岸や他の内陸でさえ海沿いから既に人間は達していましたし。https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

この間に、西・南と北から、種々の人たちが入って坩堝の中で日本人が出来上がっていますが、基本的には2種類と考えています。

アフリカを出た頃の面影を留めながら沿岸を移動した海の民A系か、内陸での厳しい気候に適応し大型動物を狩猟したDNA変化のB系かです。

現在は、長い万年の歴史からは最近ですが、闘いに強い内陸狩猟民族B系の影響が強いようです。

地球の温暖化、汚染、自然破壊などを見ますと、現代の私たちは色々な意味において、基底にある海の民系の自然と調和した質実の暮らしぶりに注目する必要があると考えています。

(了)

成人T細胞白血病(ALT)をご存知でしょうか?

ALTは、腫瘍ウイルスであるHTLV-1感染を原因とする白血病、もしくは悪性リンパ腫であり、HTLV-1キャリアは日本全国で100万以上いるとされています。

このALTは、日本、特に沖縄県と南九州、太平洋沿岸に多く、九州五島列島や北海道アイヌの人たちにもよく見られます。

海外では、カリブ海沿岸諸国、中央アフリカ、南米、ニューギニアやアメリカNativeインディアンなどに感染者がみられます。

日本で発見、命名されたこの病について調べた日沼頼夫医学博士は、特にこのウイルスの日本におけるキャリア好発地域は、縄文系の人々が高密度で残存している所であることを示していると結論付けました。

日沼博士の結論は、現生人類の移動史を併せて考察するときに、その持つ意味は大きいです。

即ちこのALT調査は、正に、アフリカ—東南アジア—日本列島—アメリカ新大陸へのわれわれ現生人類の最古の移動史と符合することをも示すものとなっているのです。

前回、縄文時代の前、我が国の始まりである日本祖代に関して東亜地中海—九州—北上して津軽海峡を越えて北海道(3万年前頃)という約1万年の拡がりの我が国の原風景を報告しました。

そして、この拡がりは、更に1万年強の人々の渡来を含み文化を積み重ねて、縄文時代(1.65万年前~)と呼ばれるものに成って行きます。

このALT調査結果は、世界史の流れの中で、我が国初期の日本祖人—縄文人に関する渡米などの推定を裏付けるとも言える興味深いものです。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

 (了)

 

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