カナダ・モントリオール大学チームUniversity Montréalが、米加国境近くで既に発見されているBlueFishムツ洞窟遺跡で掘り出されたの動物の骨を再精査しました。

遺物はいろいろ出ていますが、中に見られた馬やカリブー(北米産トナカイ)の骨についている下写真の傷は、人の手によるモノで約25,000年前頃という判断をし、今年1月に発表しました。

28,000年前頃のマンモスの骨も既に発見されています。

しかし此の発表も、シベリア・アラスカ・カナダのベーリング地域や北米で発見されている遺跡遺物がせいぜい14,000年前程度以後のモノで、このムツ洞窟遺物の桁違いに孤立した古さから、どうも学界ではっきり認められていないようなのです。

無論こんな場合はいつも、傷が人の手によるものか、年代測定は妥当なのかはしばしば問題になりますが。

さて、人類の渡米については下図で、環太平洋沿いA赤、シベリアからB黄がありますが、欧米学界は長らくBイメージでしたが、近年はB-沿岸のように変わってきているようです。

シベリアBからは、一般にC緑をイメージしますから、そんな大昔に、真冬はマイナス50~40度Cになる内陸極寒における石器時代人の家族移動・生活は、困難なので発見の遺物の古さは信じがたいとの思いが強いようです。

(実は彼らが学校で教わった地図では、一番右と左に遠く離れて分かれていました。くっついていてかつ昆布ハイウェイが走っていることなどもイメージし難いかもです)

私が問題にしたいのは違っています。

ところで欧米学者さん、4万年前に海を越えて九州に渡来し、3万年前には北海道にまで拡がっていた日本祖人が居た事を認識されているのでしょうか?という事です。

帯広の寒い雪の中の暮らしに慣れた人たちの遺跡遺物は豊富にあります。そこからの北上は、食料豊かな処女地で行く手の千島の島々は見えてました(樺太回りなら陸続き)。

そして重要な事は下図の通り、当時のベーリング海は北極海の冷水が入ってこないハワイに繋がる海でした。

海水温はもとより、気温、海流、食物となる動植物、何より移動・生活のし易さが違っていたでしょう。

温かめなので食料動植物が良かったとは一概に言えませんが、ともかく極寒の地での行動や生活が比較的し易かったことは重要です。

ということから、プーチンもいなかったのに(笑)、日本祖人が北海道を出て北上しなかったとは、それまでの現生人類の歩みから考えられません。

さて、日本祖人が北上したとすると、5,000年かけて最も寒くなった最高寒期LGM(約2万年前頃)になる前にアラスカのYukon川を遡行してムツ洞窟に行き、他方、南下して米本土西海岸に達している事は、それまでの人類の歩みから十分あり得る(そういう行程Aの海の民家族は成功確率が高かった)、理解しうるものです。

因みに、祖人子孫の縄文人は、土器が発見された16,500年前頃からそう呼ばれてますので本件に関り有りません、渡米はあくまで縄文人以前の「日本祖人の子孫」の偉業です。

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo
https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

 (了)

ハロウィンの時節となり、派手な入れ墨をする人もいます。

入れ墨のtatooや禁忌のタブーなどは、欧州人がポリネシア人と接して採り入れた言葉といわれてますから、これは数百年前の新しい事です。

世界には未だに万年前の石器時代のような暮らしをしている種族がおり、原色のボディペインティングをして装身具で飾っています。

このペインティングや切り傷つけ(創痕生成)などから体への入れ墨は生まれたのでしょう。

豊穣や戦いへの願い、魔除け・厄禍を防ぐ、仲間の識別、男女とも一人前・成人になった証に、漁撈の安全、獲物の祝い、など様々な理由と仕方の種類があったようです。

彫り込む紋様も、例えば「+」や「✖」などは魔除けの記号であり、トーテム信仰に基づくものであったようです。

顔料も使われ永久に消えない事が、来世へ持っていけて食物を得る、身元を確認するといったことがあったようです。

注目しますのは、南方から台湾、日本列島、ベーリング海地域でも見られ、北米、南米の先住民部族にも見られ、遠隔の地の類似性もあります。

魏志倭人伝(AD3世紀末)の時代になっても倭人は黥面文身して海に潜るヘンな奴たちという扱いでした。

近世でも入墨は残り、生魚や海藻を好んで食すことと共に欧米人に違いを強く意識させています。

今や和食がすっかり素晴らしいものとして世界で受け止められていますが、少し前までは全く考えられない事でした。

人類の起源のアフリカ、裸で過ごせる南方で始まった習俗が北上して拡がり、痛みを伴い入れ墨が今も各地に根強く残っていることは、それが信仰などと結びついた精神性の高いものであったことを窺がわせます。

江戸期の罪人への入れ墨、明治の入墨禁止令の影響は大きいもので、急速に廃れて行きましたが、元来、縄文時代の土偶にも入墨線刻が見られて歴史は古いものです。

4万年前に九州西側の当時の曙海を越えて、家族で列島にやって来て拡がった海の民である日本祖人に想いを馳せる時、おそらくボディペインティング、入れ墨をしていたのではと思います。

さて、DNA分析で日本人は何処から来たのかがよく論じられます。

しかし例えば、アメリカで日系の結婚を重ねた日系5世を考えた場合、DNA分析では日本人となるのでしょうが、言葉も出来ず、和食よりもハンバーガーやステーキの方を好むでしょう。

体と言う容れ物ではなく、遺物として残らない言葉や心や習俗といった脳の働きが重要です。

洞窟絵や土偶などといった物と同様に、消えゆく入墨習俗は重要な心の働きや種族の関係を窺がわせるものとしてもっと研究される必要があるでしょう。

シベリア、アラスカといった着ぶくれする所でも入れ墨の習俗はあるのですから驚きです。

DNA分析と共に、そこに着目すれば、ずっと古い時代に南方の海の民の人々が北上し、日本列島、ベーリング海地域を経て北・南アメリカへ進出して行ったことが、無理なく理解できると思います。

何しろ、どう調べても太平洋を西から東の南米へ万年前に渡って行った痕跡が全く無いからです。

下の写真の遠いブラジル秘境のこの女性は、入れ墨が無ければ全く違和感なく日本で見られますよね。驚きです。

そして入れ墨者をヘンなヤツと思う大陸内部の狩猟族の人々(B)と、沿岸や島々の海の民の人々(A)との特色2区分、史的な違いが注目されます。

閑話休題。

ハロウィンの画像を用いた南方紹介です。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

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