カリフォルニア大学サンタクルーズ校の主導によるイースター島の古代人DNAの研究結果は「Current Biology」に掲載されていますが、南米との関係が全くないというものでした。

ということは、下図のように西方から航海して移住してきたことになります。

我がサイトでは、アマゾン古部族のDNAがSundaland地域の古部族に近い事や、環太平洋地域の遺跡遺物の状況から、既に幾度となくご説明していますが、現生人類の移動・移住を出アフリカ-Sundaland-日本列島-Beringia-北南アメリカという環太平洋沿岸時計回りの移動・移住(Migration along Pacific Ocean Rim)説を提唱しています。

そして、沿岸ルートが最古としておりますのは、北米の氷床通路が温暖化で開いたのが上図のように12,500年前でして、その時すでに沿岸ルートの南米チリ遺跡(14,000年前頃)にまで進出していたことが分かっています。

北海道を3万年前以降に通過した世界最古のルート。今回の加大の研究結果は、これをはっきり裏付けたものと考えています。

ハロウィンが近づいておりますね。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

人間の進化の歴史では、顎と脊椎が出来た4億年前頃の魚が原点だそうです。

その後、両生類として海辺で暮らし、やがて幾多の変化を経てサルになって、現生人類に進化していきました。

ここで、ヒトの体に残る海・水辺で暮らしたと思われる体験、泳ぎや潜水能力、イルカなどと共に知能に優れ音声コミュニケーション力に優れる点などの海に関わる点が注目され、進化の過程で水辺に馴染む暮らしをしていた種族なのではと思わせます。

4万年前頃、曙海の畔から両生類が陸上に上がるように現生人類が九州に上がり北上しましたが、太平洋側の早い段階での神津島への渡海による黒耀石採取が注目されます。

そして、当時からは海水面が数十mも上昇したために祖代の暮らしの痕跡は見つかりませんが、その近くの海沿い、万年前の三浦半島の夏島遺跡は、何とか祖人の暮らしを想像させます。

四季折々の海の幸や山の幸など今の日本の特色を思わせる多彩な物を食していたことが、貝塚で発見された物から分かります。

既に丸木舟で外洋魚を釣ったり漁網で魚を獲ったりしていたようです。

長く島だったので遺跡が運よく残っていたと言えます。

(遺跡説明)貝類以外に魚類も利用していたことが分かる。出土量が多いボラクロダイスズキハモコチなどは水面近くを回遊する習性を持つことから、やヤスによる突き漁、小型の骨製U字型釣り針が出土していることから釣り針を用いた釣り漁、漁網を用いた漁などが行われていたことが推測できる。またマグロカツオなど外洋性の魚類も見られ、丸木舟によってかなり沖合へ乗り出して漁労活動していたと考えられる。固い殻で覆われたドングリクルミなどの木の実をたたいて砕いたり、すり潰したりする石皿磨石などの石器の道具類が貝層の中から出土している。また、シカイノシシなどの動物の骨や釣り針なども出土している。

四面環海、長い海岸線と島に、そして川辺の高地にも日本祖人のこのような暮らしがあったことを想わせられます。

鹿児島―高知ー和歌山南ー東海南ー伊豆・三浦ー房総、4万年前からの「海の民」日本祖人の暮らしの微かな痕跡が感じられます。

日本祖人をさておいて、アイヌが先住民?腹筋崩壊です。国会決議は、先住民の語を外し、アイヌの人権を尊重する決議と名称変更すべし、日本歴史学の恥辱です。

さて、それでは、早めに渋谷ハロウィンをお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ok4ieD3oPVY&t=120s

(了)

現在、台湾と日本は1時間の時差がありますが、台湾の人たちの中にこの時差をなくして日本や韓国と同じ時間にしようという意見が出てきています。

現在の日本文化や日本統治時代の良い想い出があることも一因でしょう。

ところでそうなりますと、正に4万年前頃の日本列島史始まりの日本祖代に戻り、下図の曙海の畔が注目されます。

日本祖代の人たちは、どんな顔立ちだったのでしょう?後の時代の縄文人と出アフリカからSundaland(東南アジア)を北上してきた人たちの混じったような顔でしたでしょうか。

さて、よく縄文人は何処から来たのか?という問いが発せられますが、これは誤りです。

日本祖人が、3万年前頃、概ね列島全域に拡がった後、大陸からの新たな異質な狩猟族の進入を2万年前頃に受け、列島での暮らしを多様に熟成させた日本祖代の約2万3,500年という長い時を経て、土器が現れて縄文人と呼ばれていきます。

その頃の人は、当然、列島に継続して住んでいる祖代の人たちであって、ある日に皆が縄文人に変わった訳ではありません。

ところで、「江戸人」と言って1枚の絵を出せるでしょうか?

北の北海道から南の八重山迄生活している多様な人々を1枚でこういう人と言うのはムリでしょう、誤解の元です。

この始まりの日本祖代は、世界の行き止まりの列島で2万年を越える長い時代を過ごした海の民である日本祖人の列島における風俗習慣、文化が作られた時代です。

西・南と北・東の違いや地域ごとの人と暮らしぶりの違いも出てきていることが、残された石器などから分かります。

この日本祖代は、決して無視されるべきではない、ある時から縄文時代と呼ばれていく、未だ学術的な名前すら与えられていない、私たちの遠い祖先である日本祖人が暮らした始まりの時代です。

この国の原風景であり、近年、世界で認められている日本文明の始まりなのです。そして祖先である日本祖人は、おそらくは世界史上初めて北海道から環太平洋地域をアメリカ大陸に渡って行ったと考えられる人たちなのです。
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米(2)

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Youは、何しにAmerica へ?

TVインタビュアーの質問に対し、日本祖人が、答えました。

3万年前に、引き続き北海道から次々に見える処女地で手つかずの食料がある島々や沿岸陸地を越えて北上して行ったら、入っちゃったんです。

そりゃ当時はカムチャッカからベリンギア地峡沿岸を入って行けば、国境標識も無いですから気が付くことも感慨を抱くことも当然なく、カナダを経て米本土への進入もそういう同じ事情でしたね。

偉大かつ幸運だった、昆布ハイウェイ

当時、北極海の冷水は地峡があったためにベーリング海に流れ込まない、ハワイに繋がる比較的温かい海でした。

世界の学者は長い間、最初にアメリカに来たのは、シベリア(B)からだと考えてきました。

近年、Bのルートで米国本土へ入った時期とOregon州で見つかった遺物(実は南米の遺物なども)の時期などから、特有共通の石器を使うクロービス文化人を含めて北太平洋沿岸ルートが注目されています。

しかし、依然として何となく、B人が来たというイメージがあります。

それは、①A海の民の日本祖人が、北海道にまで北上して3万年前に雪の中でしっかり暮らせていた事、また、千島列島越えは次々に行く手の島々が見えていたこと、

②北太平洋沿岸が比較的暖かく、北海道と最寒のBeringia地域の真冬の温度差は想像に反し差が小さく、また、「昆布ハイウェイ」と呼ばれる海の民の移動生活に適したルートであったこと、

③何よりも海水面の数十m上昇により沿岸生活痕が海中で、残る痕跡は後から来た強いBのものが殆どであることなどが、よく認識されていないからでしょう。

極東シベリア東部チュコト地域でのBの時期・状況もはっきりしません(15,000BP頃?)。簡単に海の民への切り替えは、出来ないでしょう。

そして、④今もって、当時の温かったベーリング海沿岸の気候、地形、食料になる動植物の状況、移動生活の要領などが、学際的に研究され想定されていないからでしょう。

従って、今もって日本祖人が新大陸アメリカへ渡って行ったことをしっかり研究記述した論文は世界に有りません。(欧米人にとっては、地図の一番右と左を繋げていくことが思いのほか難しいのかも?)

いずれにしろ最寒期(LGM)には、ルート上で最も緯度が高く寒いベーリング地峡沿岸を、舟で既に通過して行ったA:日本祖人の家族群の南下した移住成功確率が一番高かったでしょう。

海中の遺跡が見つかっていなくても、周辺の遺跡等の諸状況から、理論的にこういう提唱をすることがあっていいTheoretical ancientology「理論歴史考古」(遺跡・遺物の学でない)分野もまだまだ低調、未熟です。

沿岸をシベリアから来た人たちが海に慣れたB’の人たちとして生まれていれば、Aに続きましたが。
Mr. President Trump, they were the first Americans !
https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

日本祖人の初渡米に注目!

カテゴリー: 最新情報

中国科学アカデミーによる湖南省で発見された天元人DNA(4万年前)分析の最近の発表では、下図のように中南米にまで拡がっているとされ、欧州ではアジアとの違いも注目されるでしょう。

確かに東部ユーラシア・アジアで、万年前の時代に拡がって行ったのはそうなんでしょう。3000年前頃には、更に、スンダランド地域にまで拡がっています。

ところで、この分析と米国Harvard医科大が頭抱えた、上図黒丸の豪・パプアとアマゾン古部族のDNAの類似性の問題を併せ考え、カムチャッカ半島のDNA、そして人類史の補助線というべきSundalandに目を向ければ、それらのリンケージが上図のように認識されます。

不思議な事ですが、日本において4-3万年前の旧石器遺跡・遺物が豊富に発見されている状況を、こういう世界人類史の文脈で考察した論文は意外に有りません。

さて、インド、東南アジアからカムチャッカを経て南米というリンクに注目する事は、出アフリカ人類の最古の進出ルートとして、南米に至る環太平洋沿岸に沿うものがあった事を認識することになります。

一番問題となるのは、北方領土~千島列島~カムチャッカ半島東岸~ベーリング地峡沿岸を行く可能性ですが、このサイトの読者の皆さんには既にお馴染みのものです。

最新の研究により、米国西部海岸のオレゴン州の古い遺物などが従来の下図Beringia地峡ルートでは説明できず、昆布ハイウェイで沿岸を渡って来たのではとなってきていますよね。

残念ながら、何となくシベリア内陸東部からというイメージが世界の学界の主流のようです。

当サイトでは、次々に見えた千島列島越えやアラスカの寒さなどを踏まえ、重要な点としてベーリング海に北極海の冷水が入っていなかった当時の状況や動植物の東西対称性などを指摘し、南米における古い遺跡・遺物の情報と併せその最古の移住進出を提唱(MPOR説)しています。

それはとりもなおさず、環太平洋ルートで通過して行ったそのリレー中間の4-3万年前BP日本祖人(今は列島で発見しにくいDNA)が、初渡米したことを示すものであります!(進出可能という前述内容の前回分もご参照ください)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

4万年前頃、南方のSundalandから北上した子孫たちが、曙海の畔での暮らしから家族で越えて九州にやって来て北上して行き、北海道にまで拡がった日本祖人の暮らしに迫ります。

下図のように、先ず、列島全域に拡がった「海の民」の暮らし振りの基層の上に、大陸からの第2層の人々が、北の樺太からと西の曙海越えの両方向から流入しました。

そのためその特徴は、西と東・北に別れ、人と文化の流れから太平洋側と日本海側に別れ、更にこの2つの流れの重なった中央部分に重心があった、重層そして熟成されたものと言えるでしょう。

(今に繋がる特徴と思いませんか?関ヶ原戦が話題ですし)

他国と違って、行き止まりと言われる日本列島における人々と文化の分かり易い特徴です。

因みに、祖代後に縄文時代を経て、弥生時代に西から米文化を持った第3層の人々が渡来して関西に重心が移り、徳川時代にまた実は大昔のように戻ったと言えるでしょう。

これが、長い旧石器時代と言われる後期の日本祖代における全国の遺跡・遺物(主に石器形式)から導かれる暮らし振りの「くにのかたち」です。

西からのA西型と北からのB北型という異なった石器形式に別れ、更に、黒曜石をみますと図のように、原産地を中心に円の広い地域の仲間で交換され、北海道の白滝産や北部九州の腰岳産は、域外にも出て行っていました。

更に、祖代から縄紋時代に移行していく頃には、細部の石器道具の作り方が地域ごとに違いを見せて来ていて暮らしぶりもグルーピングできそうな特色があったものと思わせます。

結構、道州制の議論とかみ合っていたり、今も見られる西と東・北の様々な違い(丸餅と角餅などなど)を思わせる驚きの附合と言えるものです。

日本祖代の時期的な区分は下記の前回投稿をご参照ください。

祖人分布10.5

さて、このように日本祖代を見てきますと、日本史は、近世以降を知れば十分という人もいますが、不遜でしょう。

海の民の暮らし、どんどん重なって行った4万年にわたる暮らしぶりは、精神面を含めていろいろ繋がっていることでしょう。

(了)

 

4万年前頃、曙海の畔から多くの家族が海を越えて九州(八重山にも?)にやって来て、3万年前頃には日本祖人は北海道にまで拡がりました。

しかし、2.9万年前、鹿児島・姶良大噴火に遭って九州と西日本は大きな被害を受けました。そして一部の渡来を含めて或る程度その回復がありました。

最寒期の2万年前頃には、北と西の双方から暮らし振りの違う狩猟族、寒冷適応族の新たなかなりの人々の流入がありました。

1.35万年前頃には、関東にはっきり人々の多い列島の新たな形が整いました。そして、列島における生活に一般的に土器が含まれる縄紋時代となります。

このように、日本祖代(約2.8万年)で始まりの「くにのかたち」が出来上がって縄紋時代に移行していくときは、関東に人が多い現代の「国のかたち」に似ていたことが驚きです!(この後の時代には色々変化しますが)

日本全国に残された旧石器遺跡から人々―日本祖人に注目すれば、

①前期 曙海の畔の西・南から第1回目の人々が、初めて海を越え入って来て北に拡がって行った西高北低

②中期 姶良大噴火の九州・西日本被害により相対的な西低北高と一部渡来によるその回復化

③後期 最寒期に北と西から第2回目の多くの人々が入って来て、寒気が緩む中で列島に広く及んで平準化、そして関東のはっきりした肥大化

です。

暮らし振りは、先ず列島地域に「海の民」の暮らしを主に高地の川辺にも人々が拡がって始原風景が出来ました。ちょっと前まで、日本人は生魚と海藻を食べる、好む、変なヤツと言われていました。

そして、噴火大災害に遭ってその損失・傷を何とか回復していった2万年前頃の最寒期に、新たに大陸の狩猟・寒冷適応族という暮らしぶりの異なる人々が北の樺太から、また、狭くなった西の曙海の海峡を越えてかなり入って来ました。

そのことで生業が海、そして更にはっきり陸の狩猟等もとなって行き、関東に更に人が集まって縄紋時代(万年間)に移行していったようです。

日本祖代とは、初めて日本列島に今に繋がる現生人類の海の民が入って来て列島中に拡がり、後期には更に北と西の2方向から大陸より暮らしぶりの違う狩猟・寒冷適応の人々が入って来て拡がりの収まりを見せ、一応「くにのかたち」が整った時代と言えるでしょう。

そこには、列島の北・東北部と西・南部及び太平洋側と日本海側の違い、関東と甲信越の繋がりといった実は今に続く特色が窺がえるものでした。日本史は、中世から、近世から学べば十分と言う人がいますが、誤解でしょう。

祖代の後期には世界最古の土器も出現しましたが、やがて文字通り縄紋の土器が広範に使われる縄紋時代へと暮らし振りもはっきり変わっていきます。

(因みに万年を経た縄紋末期には、お米を持った人々が西から入って来て陸上主体の弥生時代になって行き西高北低化の人口は増加し、盛んに争いも生じました。)

https://youtu.be/BGrhO1ntyYo

(了)

 

4万年前頃から始まった我が国の歴史において、日本祖人が37,000年前頃という大昔に、伊豆半島沖の神津島に舟で海を越えて黒耀石を採取に行き来していました。

そして南関東や伊豆などの広域においてそんな古い時代にその黒耀石の交換が行われていた事も世界の学界に驚きをもって迎えられています。

先史人たちの狩りなどの重要な道具の宝であった輝く切れ味鋭い黒耀石は、他に北海道、本州中央、隠岐の島、九州北部などの原産地が良く知られています。

海水面が数十m低かった当時の日本祖代の「海の民」の木・竹・骨・皮などを活用した暮らしは今は海の下ですが、陸に残された黒耀石の石器は、当時の状況を探る大きな要素です。

神津島行きの渡海の時代と広く見つかっている事実から、日本祖人は曙海の畔から海を家族で越えて九州(八重山も?)に来た時には、既に黒耀石の価値を知っており、探して交換をした経験を有していただろうと考えられることが重要です。沈んだSundalandから北上してきましたので。

さて、例えば日本語はいつできたのか? 一昔前にある学者は、母音子音もはっきりしない状況からまあ言語らしくなったのは3,000年前頃だろうと言いました。

私は、日本祖人の作・操舟、渡海、黒耀石採集、交換などとSundaland地域の状況を考えれば、4万年前、九州に来た頃から既に結構な話コミュニケーションが出来ていたものと考えます。

日本語は、ぴったりした発地が分からない孤立語ですが、おら、あんた、好いとるは、英語や中国語のI love you.に比し古いことが分かります。シチュエーションを考えれば、おら、で十分、おら、あんたで十二分でしょう。見つめていますので。

同じような人たちによる以心伝心があった海岸の小社会の大きなものであったことを窺がわせ、いろんな部族が居る内陸狩猟族の慌ただしい暮らしぶりとは違ったのです。結論を早く言えなどと言われない。

ところで黒耀石です。

バンドゥンの小さな展示館にも黒耀石の石器は飾られ、隣町のGarutは大原産地ですが、国際学会の資料には載っていません。その資料から、不思議で当然かもしれませんが、人類世界の文明の源流痕跡が窺がわれます。

環太平洋の豊かな黒耀石分布は、現生人類の進出展開によく合っていて、日本は今や一文明と言われる理由が納得しうる豊かさですし、人類がユーラシアに出た地域やメソポタミア・欧州への進出の源流に符合していることも不思議です。

アメリカ新大陸の状況は、今後の解明ということかもしれませんね。

そして、既に報告した環太平洋の火山帯・人類展開史とも符合しているのです。鋭いガラス状の黒耀石が火山帯で見付かるのは当然ですが、人類史の進出展開と足並みを揃えていることが不思議です。

 
 (了)

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