Facebook: Nara Akira

フェニキアの活躍した更にずっと以前、そもそも我々に繋がる人類史の始まりはアフリカ東北部から紅海の海に乗り出したバンドから始まりますが、このことが現生人類史の原点なのではないかと考えています。

つまり、進化上サルから決定的に分かれたと言えるこの海へ乗り出したということにもっと注目する必要があると考えます。

第1に、私たち現生人類の体について、サルになる前のずっと遠い昔に海から上がった当時の痕跡を残しているのか、サルから分かれるころの前後に淡水の水辺で暮らしていたのか、ともかく水に馴染む幾つかの特徴があります。羊水から生まれますし。

何といっても人の一番の特徴はいずれ出産や言語にも影響してくる直立二足歩行ですが水中では浮力が働き無理なくこの体型に移行していけます。

また、サルと違って体毛が薄く皮下脂肪が多いですが水に戻ったクジラやアザラシなどは、水中での行動がし易く冷たい水温に対応するためそうなっています。

人間の手には水掻きの痕跡がある、赤ちゃんは泳げる、女性は水中出産ができ水中交尾もできるなどいろいろな特徴があります。感情で泣き、涙を流すこともコミュニケーション上の重要な特徴です。

そして、ヒトの場合、潜る前に大きく息を吸い水中では息をとめたり吐きだしたりと自由に呼吸することができますが、他の類人猿はできず水に潜れないという大きな違いがあります。

また、このことが「あ~~」と「あっ」の違いを自由にできることになり、やがて高度の言葉ができる体の構造上の基盤ともなっています。

気候変動で森の食料が減り水辺の食物に対応した、天敵であるヒョウやライオンなどのネコ科動物は水が苦手なので、水中は逃げ場所にもなり水辺は安心できる棲み処であったのではないか、などもこの進化をもたらしたものとも考えられます。

そして、湖・川辺からやがて海水域への適応はそう無理なことではないでしょう。

この食べる食品の幅の広さ、棲み処の幅の広さという適応性(当初は寒冷降雪地を除く。)が、海水面が低下し移動しやすい安全な海浜が拡がった氷河・乾燥期にも人口を増やしながらまずは東南方世界に進出していけた理由でしょう。

そして、海浜のマングローブという地形の特色への適応も注目されます。

(Wikipedia マングローブ)

干潟の性質を持ちつつ、そこに樹木が密生する場所である。干潟は、河川上流からや海から供給される有機物が集まって分解される場所であるため、非常に生産力の大きい環境であり、多くの生物の活動が見られる場所である。

主要な動物は海産の底生生物甲殻類貝類等)や魚類であるが、哺乳類鳥類昆虫類なども利用している。アイゴ類やハゼ類など、多くの小魚がみられ、さらにそれらを捕食するフエダイ類やオオウナギなどの大型魚もいる。

マングローブが自然の防波堤となることで、津波の人への被害の原因となる漂流物体が食い止められるというものである。紅海では砂漠の沿岸でマングローブの形成が試みられている。

今回、マラッカ海峡に面するスマトラ島の北部・東部を旅し、考古学研究所や博物館などを訪れました。容易に想像できますが、万年の昔から環境に適応し海浜・川岸の民として出アフリカを果たした現生人類が生きてきたことを実感しました。

鉄も溶ける万年の時の長さに貝塚以外には残る物が殆どなく、生活の場は今は海底ですし、どうしても遺物が残る洞窟の生活に考古学の注目が集まりますが、それは明らかに少数派のことです。洞窟が収容できる人数など明らかに限りがありますし。

このことをまず歴史の事実ではなく真実として、記述の中心に据える必要があります。

そのことから、海・川の交易が、一部の狩猟と栽培・家畜・工芸品などが、埋葬などの習俗が、そして階層ある社会の組織化がもっと早い時代に果たされていたことが推定されます。

これまで等閑に付されていたメソポタミア文明以前の最終氷河期(2万年前頃)に遡るいわゆる石器人の活動力を見直す必要があります。

即ち、石器人と呼ぶよりも”低地の水辺人社会”というべき生活実態を持った人たちによるサルの社会と決定的に異なる活動力を有する人間の「文明の曙」時代・原点と認識すべきです。

トルコ東南部のギョベクリ・テペ遺跡では、驚きの巨石建造物が、1.2万年前頃に大規模に造られ続けています。

このホームページで既にお伝えした海浜・舟行ルートによる寒冷降雪地適応を受けていない現生人類・日本祖人のアメリカ進出の可能性などもその1例です。

小学生くらいはスマホなどから解き放ち、仕事で忙しい大人たちもレジャーで焚火と水辺に親しむようにもっと社会的に野外活動の環境を整えましょう。

そうすれば、眠っている日本祖人のDNA要素が活き活きして本来の日本人らしい健全な人間味を取り戻し、勉強・仕事の能率も上がり、殺伐とした事件もずっと減るのではと南のこの地で思い至ります。

(了)

 

Facebook: Nara Akira

海の民フェニキアFhoeniciaをずっと追ってきましたが、史上あまり採り上げられないのは遺跡・遺物が陸上主体にならざるを得ないこと、フェニキアがギリシャ、ローマに敗れたことで、歴史の研究・記述をリードしている欧米の人たちの関心が今一つであったのはないかと感じていることが根底にあります。

一時は東西の交易の中心として栄華を誇ったエジプト・アレキサンドリアAlexandria、その知の宝庫であった図書館にはフェニキアに関する記述が豊富にあったと言われていますが、失われているのは誠に残念です。

そして、そもそも人類史初期の営みは海浜・川岸にあったと考えていますが、当時からは海水面が130mも上昇していますので発見が極めて困難なため、陸上遺跡・遺物を主にした歴史の偏重に対する疑念があります。

(現在、仮に海水面が130m上昇しますと世界の主要な都市は殆ど海没し、日本でも主要な都市は長野、甲府、山形などに残る程度になります。)

また、石以外の木、竹といった重要な生活の遺物はそもそも鉄をも溶かすと言われる万年の時の長さに堪えませんので、実証という点で現状がやむを得ないという理解はできますが。

更にもう1点、歴史の記述が発見され実証されたことだけで記述することが本当に真実に迫っているのかという全く別の疑念があります。

その疑念は、当地に来て有名なジャワ原人Jawa manに会いに行き、益々強まりました。

見てください、彼らは所在なげに裸で立っています。実証される物が有りませんのでこうなります。但し、重要な実証は彼らが洞窟ではなく川岸の平地で生活していたことです。

虎なども居た地で百万年前に遡ろうかという原人でさえ、川岸の平地で暮らしていました。当時は分かりませんが、私が訪れた中ジャワ・ソロの夜は涼しい快適なものでしたが、所在なげに立っているような暮らしでなかっただろうことは想像できます。

つまり、発見された物を主に歴史を描くことは着実、真実そうでその実、真実を描いてはいないということです。人里離れた洞窟に遺物が残り実証できるのは理解できますが、数に限りある洞窟暮らしkehidupan dalam goaは、現生人類初期の暮らしを考える場合、その主体ではなかったであろうということです。

従って、人類史の主体を描く場合、実証に依拠するに努めつつももっと緩やかに想像力を働かせて”筈だろう”という諸説を展開すべきであると考えます。実証を積み重ねた定説がしばしば大きく覆るのが人類史ですから。

つまり、実験物理学と理論物理学の例でいえば、もっと理論(歴史考古)学とでも呼ぶべき分野がおおらかに充実してよいと思うのです。

さて、十万年前頃にアフリカを出てkeluar dari Afrikaユーラシアに達した現生人類の部族は、火と石器を扱い協力のコミュニケーション力もあったことから、ここへきて感じますがもっと赤子、幼児を加え年寄りもいたでしょう。学術的には「バンド」と呼ばれる小部族として。

 wikipedia紅海イエメン側

現在、出アフリカの成功バンドは、海水面が数十mは低下していた状況で、アフリカ東北―紅海―イエメン―アラビア半島南側―ペルシア湾―ユーラシア到達と考えられています。

それは、環境に適応し得た運の良いバンドが拡大していったことでもあります。スエズ運河正面のように出アフリカし得てもやがて消えたバンドも無数にあったであろう上でのことです。

この成功バンドは、狭まっていたとはいえともかく紅海を渡り越えてイエメンYemenに達しています。ここで私のアフリカ勤務体験に基づく歴シニアの実感なんですが、この紅海越えは、注目してよい大変重要なことと思います。

それは、700万年前頃に最後の枝分かれをしたサル・チンパンジーと決定的に違う特性だからです。アフリカ西部アンゴラの浜辺の食堂で食事をしていたとき、広い海辺で2人の少年が竿を持って海の中で遊んでいるのを見て人とサルの違いを強く感じました。

紅海越えのバンドは、その後の数的な拡大を考えれば、何かに追われ迫られ海に逃げ込んでいったわけでは有りません。

筏を使ったにしてもこの海に乗り出していくという行動は画期的ですが、考えたいのはその行動の前に助走、即ちバンドの皆が海の水を厭わない慣れがあったことです。

さて、下の人類の進化図evolusiを見ました時に、200,000年前頃、火を自在に扱えるmengunakan apiようになってから今の我々に継がります現生人類asal manusia modernがアフリカで誕生し、100,000年前頃には海を越えユーラシアに渡りmenyebarang ke Eurasia、そして、50,000BP年前頃のコミュニケーション力、40,000BP年前頃からの芸術的創造性の進化が特筆されます。

しかし、この進化図には有りませんが、海を越えてユーラシアへ渡った人たちは、ライオンやトラなどはもとより、森のチンパンジーと全く違う、水を厭わず水産物をも食するという火の使用に匹敵する意義ある優れた水辺適応 の進化素地を上図のどこかで遂げていたのでは考えます。

こんな様子は、チンパンジーには考えられません。森や草原で生きる縛りから完全に解き放たれています。

この適応進化を遂げたのは、いつ頃、(アフリカの)何処で、何故か、は人類史の重要な問題と感じています。(そして、もう一つがその後の展開過程での寒冷降雪地適応 です。)

我々に繋がる人類史の始まりは海に乗り出したバンドから始まりますが、考えようによってはむしろ水産物をも食し海の出アフリカを果たせる進化を遂げた種族の出現を待っていたかのようです。そしてこのことが現生人類史の原点なのではないかと。

(了)

 

 

Facebook : Nara Akira

さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話でしたが、インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラ島に至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

スマトラ島北部の町バンダ・アチェは、暑い、敬虔なイスラム教徒の地、夕日が最後に沈む美しさなどで知られています。2004年の大津波で世界に知られる所となりました。

降り立った空港の建物がモスク風なことが、何処よりも最初にイスラム化した誇りを良く示しています。

問題は、そんなイスラム教徒の町の空港名に何故堂々とイスカンダル、ギリシャ・アレキサンダー大王の名が掲げられているかという不思議さです。

町では、市長選挙の立候補者の大看板を見てもIskandarという名の人で、実はこのアチェのみならず、スマトラ島に多くアレキサンダーとの関係が今も残っています。西ジャワのスンダ人の間にもあるそうですので広域に亘っています。

そして、どうしてそうなのかについていろいろな人に聞いても説明が返ってきません。いつ頃からのことなのかも分かりません。

歴史的には、アレキサンダー大王には息子はいなかったようなので、3番目の息子が東南アジアを任されて統治したという言い伝えは否定されています。

アレキサンダー大王に征服された貿易の民フェニキア人が、ギリシャ人と共に当地に来たのではないかという私案は結構賛同されますし、逆に当地からギリシャ等に行き結婚して系統に入ったことかもしれないという案も出ました。

フェニキア人が南印まで来たことは言及がありますが、パンカル地域となるとはっきりしません。金の岬、金の島スマトラに関する話を考えれば来ていた筈ですが。

そして、東スマトラのJambiなどではギリシャの大王宮のレプリカとしてのKandis王朝のDhamna王宮遺跡があり、近年の調査で境界塔柱や宮殿入口の洞窟などが発見されていますので、この関係は半端なものでは有りません。

他方、フェニキアがユダヤ・ソロモンSolomon王との関連で当地域に来たと思われるのが宝の地Ophirであり、マレーシアにはその名の山があり、西スマトラのTalamau山も以前はOphir山と言われていたそうです。

最近、豪で発見されたSarana遺跡、正にその名のSolomon諸島やスペイン人はフィリッピンかもしれないとして期待を持って足を伸ばしていますが、フェニキアが広域にわたる貿易等を展開していたとみられていることが窺がわれます。

その貿易活動の広域さから、アルファベットを生み出し広めたことも理解できます。

それでは彼らがどういう人たちかですが、近年のDNA調査により12,000年前頃以来、地中海東端で海に馴染んで生きてきた人たちのようです。

但し、イラク・シュメール語やエチオピア・ケーズ語とともに他の多数派アラブ・セム語とは異なったものがあるようです。この点で史家ヘロドトスが、フェニキア人は元々はエリトリアに居て移ってきた者たちといった話は興味深いです。

エリトリア地域であれば、紅海、エリトリア海、インド洋に親しんでおり、更にその前は東方から移ってきた民族であることも窺がわせますので、その後の歴史において東方における独壇場とも言える特異な活躍も理解できます。

フェニキアは、アルファベットを生み出したことに留まらない、先史における海路の東西交流の鍵を握る存在と思われ、「ずる賢い。」と評されたことが何よりもよくそのことを示している先史上の”補助線”集団だと思います。

フェニキアの東方における活動がさらに解明されれば、パンカル地域の様子ももっと明きらかになるだろうと期待されます。

(了)

Facebook : Nara Akira

さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話です。

古来、地中海から紅海に抜ける海路があったとみられており、現在でもスエズ運河はパナマ運河とは異なり地中海と紅海の水位差のない海路です。今は、大型船が通れるように川幅、水深も拡張され船団が離合できるように施設も整っています。

アレキサンダー大王のころの以前から地域では、東方に宝の島があると言われ、金、銀、宝石や香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれるシナモン、籐などがもたらされ、そこには多様な動物がおり、象も知られていました。

これらが、エジプト最盛期以来の紅海を経る航海貿易を独占していたフェニキア主導で行われていたものと考えられます。

昔の世界観は、大洋に囲まれて欧州、アジア、アフリカという3大陸地が存在しているというものでしたので、アレキサンダー大王は陸から東進しインドに進攻して、コロンブスは西へ航海して、いずれも「遠いインドの東」を目指しました。

地中海

 

ギリシアにおける遠い東の宝の島Taprobane―Taprobanaなどという名は、アレキサンダー大王の東方遠征におけるインドからの話であり、それはドラヴィダ族が伝えていた祖先の地あるいは地域の川の名とも言われています。

作成された下図は、プトレミーが聞いた話から中世になって描かれたものですが、多くの都市、川、部族、港など詳細にわたり、当初はそれはセイロン(スリランカ)だろうといわれてました。が、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません。

昔からずっと話題にはなっていますが、それぞれが聞いた伝聞話なため、島の大きさについても全く異なっていて大きさはイギリスと同じくらいとも言われましたので、スリランカでは小さすぎます。その後、16世紀初頭のポルトガルが進出するころには、マラッカ海峡の南の現インドネシアのスマトラ島がそれとして描かれているといった具合です。

そういう中でスマトラで注目されるのが独自の伝統社会(母系、牛神聖視、出稼ぎ活躍等)を守っているミナンカボーと呼ばれる人たちと島最初(起元前)と言われるカンディス王国の宮殿遺跡です。

いずれも考古学的にはマレー半島から5-4,000年前頃にスマトラ半島に来た人たちで西側(中心はパダン)にミナンカボー、東側(中心はジャムビ)にカンディス王国、境界にはケリンチ山(3,805m)が聳えるという訳です。

谷一つ越えると風俗習慣が違うといわれるこの地に在って、マラッカ海峡を挟む両側の人々の今に残る共通性はマレー王がスマトラに王宮を設けた時代があったことを考慮しても驚くべきことです。

海峡が陸地であった万年にわたるパンカル半島の長い歴史の積み重ねを感じさせます。

両者が注目されるのは、アケドニア・ギリシアのアレキサンダー大王から東南アジアを託された3男Diraja王の末裔だと称し、特にカンディス王国の宮殿Dhamnaは、大王のいやアトランティスのレプリカだと言われている(Ahmad Samantho)ことです。

下図の硬貨のアレキサンダー大王の耳をご覧ください。ミナンカボーの人々が大切にするシンボルの神聖な牛になっています。

アレクサンドロス大王のコイン

アレクサンドロスの帝国(ネット 世界史講義録から)

歴史的に大王には息子たちはいなかったし唐突な話ということで注目されていませんが、ミナンカボーは、独立のNo.2ハッタ副大統領等の要人を今も輩出しています。

伝えられている話ではジャムビのDhamna宮殿は中国遠征軍(Sintong王)に滅ぼされましたが、近年の発掘(予算の関係で不十分)により、外堀・垣・入口・境界塔柱石などと思われる痕跡が確認されています。

私がこれらの言い伝えや遺跡に注目しますのは、アレキサンダー大王の支配下に入ったフェニキア(BC330年頃)が、エジプトと共にPunt遠征をした金、宝石、木材、香辛料等の宝の島スマトラに、大王子孫を語るギリシア勢力の者たちとも共に来て途切れることなく貿易を行っていた痕跡、証左と考えるからです。

インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラに至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

次回は、そのフェニキアが更に足を伸ばして広域の貿易等を展開した話といたします。(小旅行で少し間が開きますが。)

以上

 

 

Facebook:  Nara Akira

(雨でネットが不調でしたのと小旅していましたので間があきました。)

さて前回は、フェニキアの地中海での活躍と概史をお伝えしました。

それに比し東方での活動は十分には解明されていません。一つには、船、修船所、港、小租界といったものが、内陸勢力の強い影響の中で数千年という時を経て残り難いことがあり、また、万年では海水面の上昇による消滅もあります。

更に、やはり遺跡発掘とそれを基礎とする歴史認識を主導してきた欧州勢の関心が、地中海地域に向かっていたことは否めません。

しかし、フェニキアのエジプト・ファラオとの関係やユダヤ・Solomon王との関係などは、古い時代からの東方との外洋貿易をはっきり示していますので、まずは紅海、そしてインド洋西北のあまり馴染のないアラビア海が注目されます。

当然、紅海地域・アデン湾は最初にフェニキア貿易が行われましたが, やがてモンスーン(南西、北東の季節風)を利用するインド亜大陸への航海貿易に発展し、文化・文明を伴う貿易ということでは、ペルシャ湾のイラク・メソポタミア、北方からの人の流入で知られるイラン・ペルシャそしてインド亜大陸地域となります。

特に、インド亜大陸地域では、近年新たな遺跡の発掘(Mehrgarh、グジュラート地域など)による発見が多く行われ、いわゆるインダス川流域のモヘンジョ・ダロに代表されるインダス文明という認識ではおさまらない広域にわたる文明の存在が明らかになってきています。

(第1図)

(現代の国名図)

また、これまで紹介しましたエジプト・ファラオ及びユダヤ・Solomon王に加え、ギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobaneの話もあり、古くはこの地域のセイロン(現スリランカ)だろうとして盛り上がりました。

紅海・アデン湾から外洋に出て陸地沿いに航行した場合、まずはペルシャ帝国を築き上げたイラン地域となります。

氷河期の最終氷期LGMが終わった1万数千年前頃から人々が定着したとみられ、海浜交流と共に上図の3方向からの人の流入があり、遺跡発掘の成果から一貫して断絶なく着実な遺物の進化が見られます。

8千年前頃には、既にかなり高度な農耕(麦)社会が形成されて都市の原型(練土―煉瓦、漆喰、図柄ある彩文土器等)も見られます。

西のイラク・メソポタミアの影響ある遺跡や東部では近年、4千年前頃の都市文化遺跡も発見されており、独自色あるエラム人による文化(5千年前頃から)がこの地域にはありました。

しかし、産出する物品やペルシャ帝国においても陸上行動力、今に残る高原都市などの方が目立つことから、「宝物の地」と比定したり東方への外洋航海貿易を主導したとは考え難いです。

次に、これまでの歴史認識では、メソポタミアからインダスへ、エジプトへというものですが、近年の特にインド亜大陸地域での発掘により、検討を迫られているように思われます。

特にフェニキアに注目すますと、南西及び北東の季節風モンスーンを利用する航海の容易性を考えれば早い時期からインド亜大陸との貿易が始まり、パンカル地域へも発展したことが考えられます。

メールガルMehrgarh遺跡は、モヘンジョ・ダロよりずっと古い9千年前に遡るこの地域で生まれた文化を示していることが、多くの遺物を発掘したフランスチームによって明らかになりました。

更に、時を経たその青銅器時代の状況はずっと南の第1図のInamgaon地域の遺跡の方が直系であるという驚きの研究成果です。

そもそも9千年前にメールガル以外にもインド亜大陸の河川・沿岸部に広く同様の人たちが定住して居たと考えられ、やがて発展して青銅器時代を迎えたのか、それともInamgaon地域に青銅器時代以前の定住遺跡が無いというならば、古メールガルの人たちがこの遠距離を移住していたとなりやはり航海に馴染んでいた人たちでしょう。

また、インダス川の東のサラスヴァタ川沿いは、涸れ川跡の衛星写真分析から遺跡の存在が浮かび上がり発掘したところ大変多くの遺跡が確認され、あの古代インドの聖典である リグ・ヴェーダの見直しともなっています。

他方、その南方グジュラート地域では海に近いロータル遺跡(インダス文明最盛期4600年~3800年頃に機能していた城塞・市街地)に加え、数千年前とみられる海底遺跡が発見され海浜地域の発展を実証する点が注目されます。

(第2図)

 

ロータル – Wikipedia

これらは、インダス川沿いの文明として括られるものでは無く、南インドの貴重な黒胡椒、金などの交易を基礎とする文明を浮かび上がらせるものです。

インドと括ってしまうことも適切でなく、新しい現主流派の北インドとは異なるより古い先史時代の南インドのドラヴィダ族タミルの独自性、重要性を示しており、西方ペルシア湾のメソポタミアとの貿易はもとよりフェニキアとの貿易をも窺がわせるに十分な魅力と遺跡状況です。

更に、まだまだ沿海に海底遺跡があるとも言われていますが、南北インドの政治的な問題を克服して研究が進捗することを期待しています。ドラヴィダ・タミルは、世界最古の言語を話し近縁が見つからない日本語と最も近いとも言われておりその先史は特に我々にとって注目されます。

以上、従来は遺跡・文明に関しては発見容易な陸上勢力のものが主でその興亡が注目され史観が形成されてきましたが、今回述べましたように逐次発掘が進んで明らかになってきた河川沿いや沿海の航海貿易の勢力の動きにも注目する必要があるでしょう。

次に、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話ですが、次回、お伝えすることといたします。

因みに欧米では、それはセイロン(スリランカ)だろうといわれてますが、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません!

 

 

Facebook: Nara Akira

前回お伝えしましたように、フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演、いや敵役というところでしょう。

 しかし、その地には7千年前の宗教施設、居住跡等の遺跡が残り、DNA調査ではこの地で12,000年前に遡れる人たちだそうです。
十字路と言われる地で北には貿易ライバルのウガリットがおり、ヒクソス、ヒッタイトそしてエジプトなどに侵入したSea Peopleと呼ばれる盲動集団、更には東方のペルシア帝国などの攻防、興亡の地にあって、長期にわたるその遺跡に破壊された痕跡がないということが発掘した研究者を驚かせました。
ライバルのウガリットの地には破壊された痕跡(BC1182 陥落)があります。

興亡の中、常に地位を保って生き延びたことはフェニキアの特異な性格を示すものでり、その魅力、政治性や町の防護力などを示しています。

下図は、フェニキアの中心ビブロス(エジプトのパピルスの語源と言われる)周辺の興亡の地です。東方のシリア・パルミラは、最近ISISにより貴重な遺跡がかなり破壊さたことで有名です。シドン、タイアを含め3地の勢力が特に活躍しました。(wikipediaから作成)

そしてよく知られる貿易網は下図のとおりで、ギリシャ、伊ローマを除き一集団としては傑出した広域性を示しており、ローマの制海権の中、ヴェニスにも拠点があったという資料もあります。

ギリシャとのサラミス海戦(紀元前480年)に敗れてカルタゴに重点を移し、結局ローマとの長期3戦役(ポエニ戦役 紀元前264年から紀元前241年)も一時は遠征した名将ハンニバルが仏からの「アルプス越え」で進入し、ローマの心胆を寒からしめましたが留守の本国がローマ軍に崩されて結局敗れました。

最後は地域も人も徹底的に破壊されて歴史の波の中に消えていきました。しかし、各地の貿易拠点など受け継がれたその文化はあった筈です。

 

アラブキャラバンなどとの陸上貿易もありますが、フェニキアと言えば以上のようなイメージです。

他方、それ以前のあまり知られていない東方での貿易・輸送は、紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント国”Punt”から黄金がもたらされたという記録があるということからそれ以前からの活動も推測されます。

全盛である紀元前15世紀  Hatsyepsut女性ファラオの時代にはヒエログリフに”Punt”の記録がかなり細部にわたりはっきりあり、また、3千年まえのユダヤ栄華のSolomon 王のほうも3年に一度”Ophir”からもたらされる金等に関し記録があります。

正にこれらの大スポンサーのAが望むものを見つけ、基本的には入手先のBが望む物をアレンジすることで大きな財を成しました。

有る物を届けるだけというよりもサイドビジネスの記述もあり、前回お伝えした近年のOphir情報では、更に現地開発事業というべき状況にも至っていたようです。(海外で活躍する日本商社のはしりのようです。)

そこで疑問は、地中海東岸の小国フェニキアが何故、東方でもいわば独占的に広域にわたる貿易を成し得たかです。

実は万年前のDNAから推測し得るそもそもの始まりから、舟を操り海に馴染む特性有る漁民として理解されています。(ここに至る以前も興味深いです。)

そしてフェニキアのレバノン杉と松が、アカシアや葦程度のエジプトなどにとって権威の源の宗教施設等の建設のための貴重品であり、かつ、フェニキアが伐り出して波のある外海を(カイロ河口まで)運び得たことが何処も成しえない決定的なことでした。

そして、Solomon 王には、東方において3年に一度という長期の大航海・滞在力という真似のできない行動力を発揮して金 、また、ヤハウェの神殿や王宮の欄干及び歌唄い達の竪琴や琴を造ったアルムグの木、その他各種の貴重品を届け財を成しました。

この「海の王子たち」と形容される傑出した操船航海、恵まれた木材による当時斬新な竜骨ある船体の造船、広域情報・交渉・海賊対策等の貿易力などに注目すれば、活躍の中から西洋文明の基礎となるアルファベットを生み出してそれが広域に拡ったのも不思議ではないです。

時代は下りますが、ペルシアアケメネス朝haxāmanišiya紀元前550年紀元前330年)とも折り合いをつけて生き延び活躍しています。

 

フェニキアは、当初はアラブキャラバンの運び込んだ香料、香辛料などでギリシアとの貿易も扱っていました。

が、ペルシア帝国下で地中海の貿易相手・拠点を競う同種の海運ギリシア、また、制海力を有し大帝国に発展していく異種ながらローマというこれらの眼前のライバルたちとは、結局折り合いはつかず、戦いに敗れ消え去った訳です。

基本が大帝国を指向しない・できない海の貿易大商人であったということでしょう。前述のファラオやSolomon王といった大スポンサーがいなくなった時代は、フェニキアが縦横に活躍する時代ではなくなったとも言えるのでしょう。

一つ注目したいのは、エジプトにとっての宝の島”Punt”、Solomon 王にとっての宝の地”Ophir” が今もって研究者を迷わせるその秘密保持、あるいは多少分かったとしても全く真似できない独占的な航海貿易力です。

フェニキアの長期にわたる東方航海貿易は、上図の紅海からアラビア海を経てのものですが、それではペルシアやインドの昔の状況はどうだったのか?その更に東方はどうか?については、次回、お伝えします。

以上

 

Facebook: Nara Akira

プラトンPlatoのアトランティス話は、ギリシャの政治家・立法者ソロンがエジプトMusirの神官から聞いたとされる遠い昔(11,600年前頃)に繁栄したが、堕落し邪悪な意図で地中海に艦隊が攻め込みギリシャ連合に敗れて本国も海没した王国についてのものです。

何しろ万年前の遠い昔のことですので、遺物を見つける事も困難です。そこで筆者のプラトンの当時の認識についてですが、先生がソクラテスでありその前には最初の哲学者と言われるタレスの存在があり、タレスは前述のソロンと共にギリシャ七賢人の一人です。

 Thales – タレス – Wikipedia
エジプトはナイルNilの賜とは、豊かな産物をもたらしたということだけでなく貿易による幅広い知の獲得が含まれており、エジプト神官の知の源で、タレスが船乗り、商人であったこともそれを象徴しています。
プラトンのアトランティス話は、アトランティス側が大艦隊を地中海に送ったことでもわかりますが、このような当時の海洋活動と「知」を背景にしているということです。
そのエジプトの貿易、更には人々をしてあの壮大なピラミッドを造築しうる求心的な体制維持にも寄与したのが、フェニキア大航海人です。
フェニキアPhoenicia人の一般的なイメージは、地中海貿易で活躍し、その後の欧米文明の源とされるギリシャ(サラミス海戦 480BC)、ローマ(ポエニ戦役第1~3 最終146BC)に敗れた助演というところでしょう。
このことは、フェニキア人が地中海で活躍する以前の東方貿易で果たした重要な役割について確定的な史実の確認の難しさもあり、見え難くしています。
その第1は、エジプトHatsyepsut女性ファラオ時代の神の国・宝物の地”Punt”から大量の貴重な品々を得たとヒエログリフにはっきり詳しく刻まれている大航海(15世紀BC)です。サラミス海戦の千年も前のことです。
その場所は、依然謎とされていますが、大航海であること、得た品々、Puntの様子などから通説より遠いインド洋を越えたパンカルPangkal地域と考えられます。
フェニキア人なしにはこの大航海は考えられず、実は船もフェニキア人の物でありフェニキアの船がヒエログリフに刻まれていると言われています。
その第2は、古代イスラエルの最盛期を築いたソロモンSolomon王(紀元前1011年頃 – 紀元前931年頃 wikipedia)の神殿の建設木材はもとより、東方から貴重な品々を得て届けたのもフェニキア人です。

そこはOphirと呼ばれ3年ごとに金、銀、白檀材、真珠、象牙、孔雀などを得ていますが、やはりOphirの場所は謎です。これもパンカルPangkal地域であり、フェニキア人の長期にわたる大航海能力を示す比類ないものです。

そして、2003年に豪Sarinaで興味ある情報が研究者infomasi oleh peneritiから寄せられています。先住民に係る土地に絡んだ難しい問題があり、研究は進捗していないようですが、パンカル地域東端への航海事例として興味深いものです。

このように、フェニキア人の東方での航海能力は史上重要な興味深いもので、甲が正に望む権威に係る得難い物を遠隔であっても長期航海し乙から入手して届けました。

また、プラトン時代からほど遠からぬ昔のパンカル地域の豊かさも確認されます。

次回、更にフェニキア人を追ってみます。

以上

 

Facebook: Nara Akira

プラトンPlatoのアトランティス話は、遠い昔の繁栄したが海没した王国についてのものです。そこで、人類史の流れの中でロマンの「宝島」は何処かを求め続けた活動の視点から考えます。

①我々に繫がる現生人類は、アフリカで誕生し出アフリカ(10万年前頃)後、アジアではユーラシア南部をパンカルPangkal地域(南印~北豪:古DNA共通)に至り、北上して拡がり続けました。

2万年前頃には寒冷降雪地への適応変化をしたDNA型の人々がシベリアからベーリングBering地峡を越えて新大陸アメリカに渡り、南下を続けて学者を驚かすスピードで南米南端にまで達しています。

②ところが最近の研究(Harvard医科大)で、一部の南米アマゾン部族に古い南方のパンカル原型DNA(寒冷降雪地への適応型でない、ベーリング地峡からの進入型でない)が見つかるという驚きの発見がありました。

パンカル地域から直路、赤道沿いに南米に至るルートは、これまで確認された遺物等では1桁違いの全く新しい(3千年前頃以降)ものであることから、日本を経由しlewat Jepang北太平洋を横断、米大陸太平洋岸を南下したルートRLPPが、これまでの古い遺物の発見などから考えられます。

③他方、アトランティスに類似したこととして、エジプトのヒエログリフに残る神の国・宝物のある地”Punt”、そしてユダヤ民族栄光の実在のソロモン王が宝物を得た”Ophir”があります。

これらは、マルコ・ポーロが伝えた”Zipangu”(当地ではJepang)含め大航海時代のポルトガル、スペインの海外進出にも影響しています。

④そして、Atlantis, Punt, Ophir は何処かについてという関係から大変興味深いのが大航海商人のフェニキアPhoenicia人です。

これらを下図に記し検討することとします。白字・線は万年の先史で、黒字は古代史と地名、黄色はフェニキアについてです。

標題は、人類の展開、ルートLPP説(RLPP)、「宝島」伝説、そしてフェニキアとし、関連を総合的に考えるものです。

 

赤は、「宝島」関連地です。

白部から説明しますと、まず出アフリカ、パンカル原型DNAの遠隔地における共通性、米大陸への2ルート、そしてAtlantisです。米大陸への2ルートについては、近年、とみに先史遺跡研究に成果を挙げている米国に期待しています。

黒部の「宝島」の特にOphir候補地説ですが、Solomon諸島は正に王の名のとおりですし、南米Peru説を唱える学者がいます。Puntについては、世界の学者が依然、探していますがフェニキアとの関係をもっと調べる必要があると思い紹介します。

黄色のフェニキアPhoeniciaは、同民族の移動、確認された初期及び活躍の時代です。特にエジプトとの関係が大変興味深いですし、確認されている始まりの12,000年前は、Atlantis同様に人類史上で注目される画期的な時期(更新世から完新世)です。

次回、それぞれのファクターから総合的に検討いたします。

 

Facebook: Nara Akira

アトランティスは、大陸と呼べるほどの大きさを持ったで、この記述は、一部に大半島であったのではという説(パンカル半島?)のもとになっています。そしてそこは、沢山の象もいる動植物、鉱物、豊かな環境に恵まれて繁栄した王国です。

この気候、豊かな動植物、鉱物などの環境に関する詳細な記述が、ここの小学生たちに世界のどこの国のことかと聞けば「此処!!」と答えるぴったりなものです。世界の学者もアトランティスが存在するなら、赤道付近ということで一致しています。

しかし、世界の学者がパンカル半島のことをよく知らないのでは、ということの他に世界地図認識の問題があります。西欧、アフリカ西部中心の地図を子供のころから見ている人は、日本やパンカル半島は遠い東の果てです。

そこでパンカル半島が繁栄したが沈んだ王国として話は分かるが、それだと変じゃないかとなります。

東の果てからどうやって地中海西部のジブラルタル海峡を通って攻め込めるのかという訳です。地中海付近の候補地は除外してみると候補地は大西洋西岸地域です。

あるいは、何故、紅海から来ないのかと。

紅海については、やはり植民地を大西洋岸から地中海のエジプト、イタリア西方等にまで保有していた態勢があります。また、当時、水深は60m位低く紅海の細く狭い一本水路を大艦隊が進入するのは両側からの攻撃に極めて脆弱です。

それならアフリカの喜望峰を回ったのかと。ここで、考古学的に裏付け得る確たるものは今のところありませんとなります。万年の古さの事象は、記録がないこともさることながら、水深が数十m上昇しているために沿岸の遺跡・遺物の発見は極めて困難です。

そこで、プラトンのAtlantis話は、進んだ豊かな王国がかってパンカル半島に存在し、かつ、沈んだことで世界各地の人々に様々に語り伝えられたが、王国の細部状況、海外植民地等は分からないとなり、話半分ということで一応決着になります。

陸上の問題と異なり、古い時代の航海については実証が困難で分からないことから軽視されがちです。辿り得る一つが、エジプトのヒエログリフに残り、世界の学者も実在を認めるファラオの”Punt”(豊かな宝物の地)への船団遠征交易です。

紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王の時代、プント国から黄金がもたらされたという記録がある。(wikipedia)

しかし、その後の遠征で得られた様々な貴重な物資の記述はあるものの、その場所がどこかということについては今もはっきりしません。

古文献に示されたプントへの道筋と、プント国の比定地(wikipediaから)

最近、Atlantis研究家のDhani IrwantoやChandek Lu-Shiangshe が、得られた種々の貴重品の在地分析、年に1-2回という限られた大航海である特性などの詳細な研究により、パンカル半島のスマトラ島であることを発表しています。

これは、時代も下り、かつ、パンカル半島側からではなく、エジプト側からの航海ですが古い時代の長距離航海例です。

(Chandek Lu-Shiangsheから)

それではもっと古いものとなりますと既に当HPでお伝えした伊豆半島と55km離れた神津島との頻繁な黒曜石取得の航海で、最短航海で島に行くとしても十数キロの外洋航海を要します。

遠距離ということでは、時代がはっきりしませんが、パンカル半島人がインド洋を越えたマダガスカルに植民しており今も同種人種がいます。ジンバブエは、独自発展説がありますが、あれだけの巨石建造に至る当初の建造は伝播の可能性があると思います。

そして、私が注目してますのは、パンカル半島からアフリカ中西部への伝播が確認されている根菜類についてです。何故か、東部で船を降り陸上を西進したように書かれます。

歴史上、喜望峰を回った最初の例(1500年頃)としてポルトガエルVasco da Gamaの名が挙げられますが、オマーン沖で船が発見されています。

彼の航路で感じますが、アフリカに船で渡った根菜類が、何も陸上を西進伝播しなくても彼の逆航路で喜望峰を回って中西部に至ってなんの問題があるかということです。

コロンブスのアメリカ発見のように、欧米人の描く歴史であって万年前に無名人が回っていたと思うのです。

(ヴァスコ・ダ・ガマ航路 – Wikipedia)
その理由は、渡り鳥です。ここで小鳥が非常に大切によく飼われているのに気づきましたが、
国章も鳥、そして、シュメール文明もエジプト文明も古い時代の鳥重視は注目されます。
鳥は巣を作るので行く手は土地の存在を示し、鳥が土地を持ってくる神話もあります。
風土に合った根菜類だけでなく、カナリア諸島、英国などの古い巨石建造物があるのも、
また、アトランティスだと言う各地などもこの沿岸の道で鳥に導かれ伝播したのではと考え
ます。

此処の輸送システムは、なかなかだと思います。町の中をオートバイ、自転車3輪車、ミニバスが、街から町へ、県外へはバスが、州外へは長距離バスが、人の都合と懐具合で選ばれて網の目を構成し、大小のターミナルが人の必要とする物とサービスを提供し支えています。

大昔の沿岸の海の道もこのようなものだったと思います。オウトリガーのカヌー舟から帆を幾つも持った大型の船までが時には風待ちし、賑わいのターミナルや租界に支えられ情報と物資を伝播していたのだろうと思います。

そうでなくては遠隔の類似の遺物が理解できない例が多くあります。コロンブスやガマのように一艦隊で全行程行くのではなく網の目で波のように伝わっていく状況だったのだろうと思います。

そしてその後の陸上の情勢や海面上昇でターミナルや租界、造船所などは消えたり、あるいは別の形で港町となったりし分からなくなっているのだろうと。船乗りは寡黙、knowhowは徒弟的な口伝ですし。

なお、アトランティス話は、最近、再び盛り上がりを見せ始めており、最有力候補のパンカル半島のここだったという所論も出ています。私は他の命題の傍らこの話も追ってますが、依然研究中という状況です。

以上

 

Facebook: Nara Akira

ロマンのアトランティス話は、日本の邪馬台国を巡る諸論と似ているところがあります。一番の違いは、そもそもアトランティスは在ったのか、プラトンの話は歴史として扱えるのか、というそもそも論があることです。

従って、①そもそも論(否定派)、②在った、何処か派、③受け入れ・納得派、④分からない(何とも言えない)派、⑤話に便乗派 などに大別され、それぞれ色合いがありますが、②は在って欲しい、在ったとすれば、なども混じった上でともかく何処か、追求派と言えましょう。

そして話は、②派がリードする形で盛り上がり、しぼみ、を繰り返す中、①派が冷ややかに否定し、④派がそれらしいものを見つけたと言ってみたり、⑤派が観光地、飲食店を展開したりといった状況で、何千という関連本が書かれています。

アトランティスは、古代ギリシア哲学者プラトンが著書対話篇の『ティマイオス[1]及び『クリティアス[2]の中でエジプトの神官が、訪れた客人のギリシャの哲人ソロンに9千年前のギリシャの誇るべきこととして語った話(BC565年頃)です。(従って、11,600年前頃という数字が一般的です。) (Wikipedia)

ソロン(帰国1年後に死亡)は、内容をギリシャ語に翻訳して話を友人の執政官に、それがその親族世代を経て結局、プラトンも耳にし書いたことになるような本で、邪馬台国話とは異なり原文は長文のかなり詳細な当時の状況を記述した内容です。

その後への影響も大きいアリストテレスによるプラトンの創作という発言とされるものは、何処をとらえてのものか不明ですが、作中のあの哲人ソクラテスは③派です。

ラファエロ画, 1509年 プラトンとアリストテレス。(Wikipedia)

エジプト神官は、活字で書かれたものをベースにソロンに話した、話の内容をエジプトの
ヒエログリフで見た(ギリシャ哲人Crantor)などは、現在、確認されていません。
また、作中のCritius(実在)は、自分が曽祖父から聞いた話をその時に同席していた友人
にも内容を確認した、不思議だがこれは真実だ、とプラトンは述べさせ書いていますが、
①派はプラトンの「高貴な創作技法」としています。
プラトンの人となり、有していた当時の問題意識や関心、エジプト訪問歴などからの見方は、
決め手として採用するのは難しいです。

アトランティスは、大陸と呼べるほどの大きさを持ったで、この記述は、一部に大半島であったのではという説(パンカル半島?)のもとになっています。そこは、沢山の象もいる動植物、鉱物、豊かな環境に恵まれて繁栄した王国です。

この気候、豊かな動植物、鉱物などの環境に関する記述が、ここの小学生たちに世界のどこの国のことかと聞けば「此処!!」と答えるぴったりで詳細なものです。世界の学者もアトランティスが存在するなら、赤道付近ということで一致しています。

問題は、赤道付近の此処が、あたかもアトランティスのようにその過半が沈んだ大半島地であるということが世界でよく理解されていないことでしょう。

アトラスの王国は、灌漑等の水路を有する370km×555kmの広さで、その矩形に接する形で外海に面した王宮地区があります。一般には、アトランティスと言えばこの王宮地区とそのシンボル図をイメージして語られます。

そして、このシンボルの形状が至る所で様々に現れてくることもアトラティスの存在を支持する人たちの大きな理由になっています。例えば、英国のストーンヘンジの形状が同様だという人がいます。

他方、既に歴史を知っている私たちからすると、11,600年前という狩猟採集の石器時代というイメージと金像、灌漑水路等を有するこの王宮地区の既述はマッチしません。①論者が此処の記述をもって即座に否定するのも分かります。

尤も近年、発掘が進むトルコ南西部のこの時代のギョベクリ・テペ遺跡は、広い地域に驚きの巨石構造物を有し、石器時代イメージを一新しています。従って、沈んだ海底に何があるか分からないというロマンにもなっています。

次に書きます軍事力の記述などと共に、アトランティスの状況は青銅器時代をイメージして書かれていると解されています。

考えてみますと、プラトンは人類史も石器時代も何も知りませんので、神が世を創ってからほぼ同様の時代が続いていたと考えて不思議はなく、読んだり聞いたりした当時の人たちもあまり違和感なかったであろうことが、私たちとの大きな差でしょう。

アトランティスは、三段櫂船を有する強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうと地中海の植民地(エジプト、リビアの一部、イタリア西方など)を足掛かりにギリシャ連合軍と戦ったが敗れた。

三段櫂船(wikipediaから)

この強大なAとBが闘うというのは、ギリシャ神話の神々の戦いモチーフとしても普遍性があり、また、「国家」のあるべき姿、ギリシャの立て直しに関心を集中していたプラトンの創作という見方がありますが、一理あると思います。

アトランティス話はプラトン晩年に書かれ、かつ、未完であり、最後に傾注して書き上げられたのは「法律」でした。戦いの細部の状況は最早重要なものではなかったのかもしれません。

なお、欧米では、自由の盟主アメリカ中心の西側と共産ソ連率いる東側の冷戦は、古代からなじみある分かりやすい話ということもよく理解できます。

そして、勝ったギリシャ兵士は地震と洪水により一昼夜で地中に没し、アトランティス本国もその邪悪と堕落がゼウスの怒りに触れて同様に海中に沈められた(11,600年前頃)とされている。

この勝った正義の解放者ギリシャも堕落してしまった邪悪なアトランティスも共に没した結果が意外であることと、大事件の時期が更新から完新世への激動の転換期という人類史の重要な時代であり、エジプト神官・プラトンが全く想像もし得えない創り得ないことから、広域にわたる地球的なカタストロフィの可能性を含め注目されています。

以上、アトランティスに係る状況は、その環境は正にパンカル半島が該当すると考えられる部分と、青銅器時代やギリシャ神話をイメージしたのではないかとも言われる島内施設や戦いの態勢などの記述、そして結末のカタストロフィの可能性という現代的課題となるでしょう。

当初①~⑤まで単純に分けましたが、部分複合というのが私の考えであり、島内施設等はロマンを込めて将来の発掘に期待したいと思います。

なお、一部学者は、人類の文明はかって高度に発達したが天災で消滅し、ご破算の状況から再び発展させたというプラトンも作中で同様のことを述べている先行高度文明論とでも呼ぶべき論もあります。宇宙人UFO論は、思考に入れていません。

さて、パンカル半島が最有力候補として挙がるのは理解したが、それだと変じゃないか、という声について次回考えたいと思います。

以上

 

 

 

 

 

 

Nara Akira      http://www.sunda-wind.net

Facebook Nara Akiraで、当地の関心ある人には伝わっていますので見易く日本語だけとします。

(wikipediaから作成)

アトランティスは、古代ギリシア哲学者プラトンが著書対話篇の『ティマイオス[1]及び『クリティアス[2]の中でエジプトの神官が語った話としてかなり詳細に記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持ったと、沢山の象もいる豊かな環境に恵まれて繁栄した王国のことである。強大な海軍力を背景に世界の覇権を握ろうと地中海の植民地を足掛かりにギリシャ連合軍と戦ったが敗れた。

そして、勝ったギリシャ兵士は地震と洪水により一昼夜で地中に没し、アトランティス本国もその邪悪と堕落がゼウスの怒りに触れて同様に海中に沈められた(11,600年前頃)とされている。

さて、

アトランティック オーシャン大西洋の大陸地が現代地質学により明確に否定され、急速に関心が薄れてオカルト話題化していく中、これまで此処があのアランティスと主張している場所は下図のとおりです。

(Dhani Irwanto資料から。)

しかし、それぞれが一部の理屈を展開しているものの、①前述のアトランティスの状況と②世界の学者が一致して、存在するなら赤道付近という見方により、一瞬にして否定されるものが殆どです。(それでもアトランティス土産を売っている観光地もありますが。)

因みに、どうして南極が?と思われるかもしれませんが、地球史においては地軸逆転により米フロリダが北極であった時代もあり、また、中世の人が知りえない南極氷下の地形が描かれた時代の地図が見つかったという主張などによるものです。

世界の学者に評価が高いアリストテレスが、プラトン話は創作だと言ったと伝わっていることも影響していますが、アリストテレスが他の人の批評をしたことが誤解されたのだという説もあります。

プラトンが、9,000年前の話というのは900年前の間違いなのだなどという諸説は、日本の邪馬台国論争を思わせる賑やかさです。

以上のようなことから、まともな学者さんはアトランティス問題を「A」の字(あたかもあのホーソーンの「緋文字」)と呼んで近づきませんし、素晴らしいシンガポールの紀伊国屋(殆どが英書)もAtlantisは、歴史コーナーではなくスピリチュアル、オカルトのコーナーにひっそりです。

私が、アトランティスに再び光をと考える一番の理由は、世界の学者さんが教科書に載っていないパンカル半島とその歴史を十分に他と関連づけて理解していないと考えるからです。

そして、プラトンの話の原点は、アテナイの政治家ソロンが知の殿堂エジプトサイス神官から伝え聞いた話ですが、エジプトの先史は、最近のスフィンクス見直し説など未だ十分解明されていない奥深さがあり重要と考えるからでもあります。

中でも注目されるのは、女性ファラオHatshepsutなどが宝物を得た地”Punt”は、ヒエログリフにはっきり記され歴史と確定しており、東方、南方と見られて学者はエチオピア地域、ソマリアなどを探していますが、全く納得し得るものを見つけられていません。

場所?マークの史的重要地域です。

(ソロン、プラトンとアリストテレスの違いは、この重要なエジプト体験の違いと私は考えています。)

大陸と呼べるほどの大きさを持った、パンカル半島は候補No.1、他に匹敵するものはないと考えています。なお、下図のアジアは小アジアの理解で、アトランティスの大きさはインドのほぼ2倍というのが研究者認識です。

プラトンが作中のCritiusに語らせている「不思議だが、真実だ。」は、どう理解すべきでしょう。

真実だは、少なくともエジプト神官が語り、ソロンからクリティアス、プラトンまで知るところとなった語り伝えは真実だというのが私の理解です。(創作論者は、それがプラトンの「高貴な技法」と解していますが。)

不思議だがは、ソロンがエジプト神官から聞いた話が、その当時の9,000年前(11,600年前)という大昔のことだからか、喧嘩両成敗ではないのに優れて正しく勝利したギリシャ兵士が地中に沈んでるからか、何でしょう。

エジプト、マヤ、アッカドその他、古代のカレンダー観は、9,000年前を十分に視野に収めていることは世界的に理解されています。

そして、実は当地などの一部の(まともな)学者さんが再びアトランティスに注目している重要な点が、このギリシャも沈んでいることです(正しい勝者が何故?そんな創作はあるのか?)。しかもプラトン話の11,600年前頃は、更新世から完新世へという現代科学の地球の大変動期にぴったり附合しているからです。

すなわち、隕石の地球衝突で6,000万年前頃、恐竜が絶滅したことは現代科学の理解ですが、プラトン話の時代にギリシャもアトランティスも沈むような地球規模のカタストロフィーがあったのではないか?

エジプト神官やプラトンが全く知りえない現代科学の定める世転期に、しかも遥かな昔に話が附合しているのはなぜか?偶然ではありえない。

東北大震災以降、注目されだした地球規模のカタストロフィー研究という現代科学の最先端にアトランティスが浮上してきているのです!!

以上、現代アトランティス研究の要点と考えます。

次回は、プラトンの記述の全てを対象としたアトランティスに否定的な論などについて、どう考えるべきか吸収すべきものは無いかみていきます。

 

 

 

 

 

 

Nara Akira http://www.sunda-wind.net

Many modern scholars think that “Atlantis” written by Plato is his fiction.  So, they don’t touch this theme, by naming it “A” letter.

But, there’s no logical explanation of it. It merely because of deep disappointment after they searched it hustle and bustle in Atlantic ocean, though Atlantic ocean includes Indian, Pacific, too, in ancient times. And finally, modern science geology totally denied lost continent in (western) Atlantic ocean.

Well experienced sailor, Christopher Columbus collected lots of information at his time and dared to sailed for visiting not only Japan, but also Atlantis based on his experienced sailing techniques. He knew sea wind well and confident, so it wasn’t adventure for him, but practical treasure hunting.

I see that in his voyage routes and it seems he himself in his mind gave up after 4 times trials.

Yes, Christopher Columbus did many bad things to local people, but he should be understood as a first Captain in history tried to find Antillia practically. ③voyage shows it though he couldn’t make it. Modern scholars agree that Plato’s Atlantis must be in tropical zone if it existed. No way, Columbus didn’t know Pangkal Peninsula, even America.

Modern scholars shouldn’t laugh at him as they talk on recent noisy situation near the Peninsula though they also don’t know much about it.

Nara Akira      http://www.sunda-wind.net

Facebook Nara Akiraで、当地の関心ある人には伝わっていますので見易く日本語だけとします。

当ホームページでは、現生人類が出アフリカを果たし、アメリカへの展開後の間もないころと考えられる南米アマゾン3部族といわば出発地である下図点線地域のこれも3種族がどこよりもDNAが近いということから、パンカルPangkal(元々のの意)人・地域と名づけ認識しました。

その中で、地積、植生、河川の多さがもたらす人口などから、中心はSundalandと呼ばれてきた地域になりますが、地形の特質はアジア大陸から突き出た大きな半島であり、前述のパンカルの名を生かしてパンカル半島と名づけ認識しました。

この大半島は、最終氷期が終わって極や山岳高地の氷が融けて海水面が上昇するに伴い海浜陸地が沈んで行き、更新世末期(11,500年前頃)には急激な海面上昇等があったことから、上図のように半島の中央部ではかなり陸地が失われています。

そして、7,000年前頃には過半が海に沈んで現在の群島状況に至りましたが、現代科学が解明したところでは、現生人類史上これ程の大陸地が海の下に沈んだ例は他に全く有りません。

このことが、11,600年前頃、海に沈んだというプラトン対話篇の”Atlantis”を新たに呼び覚ましました。それは、プラトンがAtlantisはリビアと(小)アジアくらいと記述し、パンカル半島がインドの2倍と言われ附合するからでもあります。

Atlantisは、プラトンの著述後から人々の関心を集め、あのコロンブスなども期待を持って船出し探していますが、万巻の書を重ねた近現代の盛り上がりも、Atlantic Ocean大西洋にそのような沈んだ大陸地は無いという現代科学のご託宣で急速にしぼんでいます。

今では、Atlantis話は、「A」の字と囁かれまともな学者は採り上げない対象になっています。もともとプラトンの弟子のアリストテレスが、あれは創作だと言ったという話が根強く伝わっていた事情もあります。

しかし、恐竜絶滅の事情から最近の驚きのギョベクリ・テペ遺跡の発見(10,000年BC前後の狩猟採集民による大規模多数の巨石物と彫像など)などにより、プラトンの”Atlantis”は、少なくともまともな研究対象であると考えます。(細部は次回、説明)

プラトン当時の人々の世界認識を時代ははるかに下ったコロンブスの出発時の認識を参考にして、世界の海をAtlantic Oceanに、アメリカを認識せず対話篇”Atlantis”をまとめますと下図のようになり、距離を別にすれば理解しうるものです(コロンブスは、日本も認識しています)。

つまり、11,600年前頃のAtlantisを話題にしたプラトンのイメージは、Atlantisの奥がぼ~とした、せいぜいがこのようなものでしたでしょう。

プラトン(エジプト神官の話)は、海軍力に優れたAtlantis勢力がギリシャ連合軍との戦いの前に既に着々と大陸(スペインなど)の一部、ヘラクレスの柱を入ってリビアの一部、エジプトまで、イタリア西のティレニア海域まで支配下におさめていると進出状況を記述しています。

さて、このプラトンの話の世界観と、現代科学が明らにしてきた当時の沈み始めた大陸を並べてみますと次のようになります。世界の学者は、プラトンの”Atlantis”が存在したとすればその描写から赤道付近の地域ということでその点は一致しています。

地中海の外、赤道付近、リビアと(小)アジアを足したくらい、沈んで今はない(過半)大陸地、動植物・鉱物その他の物も豊か、・・・パンカル半島はぴったりです。

そして、過半が沈んで行ったパンカル半島については、(英)Stephen Oppenheimerが詳細に論じ東のエデンと呼ぶ楽園、父祖の地、神の地という古くからの西の人々の抱いてきたイメージの対象地です。

プラトンの記述するAtlantisとエデンのパンカル半島は重なり合うものがあります。

今でも大西洋周辺でアトランティス発見かという話が時に出ますし、世界には、ここが沈んだあのアトランティスとお土産物も作って観光客を招いている所がありますが、現代科学からはパンカル半島以外にプラトンAtlantic Ocean のAtlantis候補地はない状況です。

他方、候補地たり得ない多くの所を論じて否定し結果としてプラトンの記述を全くの創作とする、未練を持って大西洋を探るし発見を騒ぐ、逆におとぎ話として楽しくファンタジーにする、「A」の字と烙印を押してまともな研究はしない、そもそも聞く耳をもたない、などの”Atlantis”を巡る諸状況があります。

私は残念に思っており、このテーマの中に参考とすべき歴史足り得るものを探したいと考えています。

それでは、パンカル半島がAtlantisとしますとエジプト神官、プラトンや言われればコロンブスも納得しますが、現代の学者は納得しない(したくない)かもしれない問題があります。この点の議論も次回以降とします。

 

 

 

Nara Akira      http://www.sunda-wind.net

ジャカルタJakarta 南の喫茶店Epicureanさんに呼ばれ、出かけて行って同好の士に研究成果を説明してdiscussionし、楽しい時間を過ごしgembiraました。なお、FacebookのNara Akiraにも掲載されています。

(向かって右端が、マスターのMirza Jaka Suryanaさん)

わがホームページをご覧の方はご承知のように、南米アマゾンAmazonの一部部族のDNAと豪アボリジニAborigineなど南印に至る地域の人々のDNAは、どこよりも非常に近いsamaことが、ハーヴァード医大の研究Analisis oleh Harvard Medical School等で分かりました。

従って、現生人類の出アフリカdari Afrika後(10万年前頃)のこのアジアの地域の人々Orang -orang dalam elipsをパンカルPangkal(元々のの意)と呼んでbernama認識しました。

(線の外と内に厳密な違いはありませんので点線にしています。)

彼らはやがて北方の東ユーラシアEurasia Timurにも進出展開tersebarしていき、日本にも達したtiba Jepang jugaことになります。

そして太古の諸事象を検討していきますと、今は過半が海の下に沈んでいますが、インドの2倍2 kali lipat Indiaと言われるアジアの楽園Sundalandが中心pusat Pangkalであったことがうかがわれます。

当国の大3島tiga pulau besar、マレーシアMelayu、ボルネオBorneoはもとより、ミャンマーMyanmar、タイThailand、カンボジアKamboja、ラオスLaos、ベトナムVetnam、フィリピンFilipinaの一部bagianが含まれます。

ところが、今回の会合を機に若い人pemudaから、どうしてkenapaこの多くの国banya negaraが含まれる地域が一エスニック族Sundaのlandという名なのだ?という素朴なクレームがきましたdimasarahkan。

実は当地の同好会では、既に以前からベテランveteranからも新名の提案usul nama baruさえなされています。

此処に住んでいて、エスニックethnicに関する問題が大変、sensitiveであることは感じています。

この国は、国連以上daripada UNに立派なbaik「多様性の中の統一」Bhinneka Tunggal lkaを標語に、長い苦労の歴史を重ねて今日に至っています。

インドネシアの国章 – Wikipedia

National emblem of Indonesia Garuda Pancasila.svg

そもそもは、この地域の多くの国が植民地であった時代Era Colonialに統治国の学者が名づけたpeneliti Belanda bernamaもので、誤解のもとにもなっており、今はそれぞれが独立国menuju kemerdekaanとなり新たな時代を迎えていますので、替えるべきperlu mengubahと考えます。

私は、わが研究におけるこの地域を示すパンカルPangkalの語を生かし、地形の実態ciri-ciri tanahに即した「半島」とし、以後、アジアの楽園パンカル半島 Jazirah Pangkal(略語はJazpan)、英語はPangkal Peninsulaと呼称することといたします。

(パンカル半島Jazirah Pangkal 図)

この地域daerahは、今も往時を思わせる賑やかramaiなものですし、伝統を受け継いだ歴史的遺産warisan sejarahも沢山あります。

私たちの源流huluというべきこのパンカルPangkal地域の万年の先史prasejarahについて、新たな気持ちで引き続き研究penelitianしていきます。

 

Nara Akira http://www.sunda-wind.net

ハーバードHarvard医科大チームによる南米アマゾン3部族Suku AmazonのDNAが豪アボリジニAborigine、パプアニューギニアPapua、アンダマンAndaman諸島の人びとと近く他にはないということで、本サイトでは環太平洋時計回りの伝播、RLPP説を唱えました。

 

それは、

1.それら共通のDNAが寒冷・降雪地への適応を受けていないtidak adaptasi ilmu dingin dan salju、かつ、出アフリカ後の古いものであり、従来のベーリングtidak Bering地峡ルートからとは考えられないこと。

2.太平洋を越えて直路西から東の南米へlangsungの渡洋に関しては、ラピタLapita人が3,600年前頃から漕ぎ出して行ったものである。

従ってJadi、古い渡洋は環太平洋北回りlewat utaraとなり、時代は下るがこのルートについては、南米での南九州型の縄文土器Jmon共通の土器の発見などが既にあり、海流sea curentや渡り鳥burungの行動はこれを支持するmenunjukものである。

というものです。

そして、出発地域では、アボリジニAborigineのDNAは南インドの古いドラヴィダ族bangsa Dravidaに近いというこれまでの研究成果から、この地域の人びとをパンカルPangkal(元々の)人と名付け認識しました。

最近の研究により、人類が出アフリカdari Afrikaを果たしたのは10万年前頃と早まっているようですので、東進しましたルート上のトバTobaの大噴火(7万年前頃)の影響が、やはり人類史上注目される大問題tema pentingとなっています。

そして、日本Jepangにおけるpeneliti DNA研究において、日本人は近隣の中国、朝鮮半島の人々と同様でなく違いbeda dari Asia Daratがある、また、古い縄文Jomon人のDNAは、遠く離れたアンダマンAndaman諸島やチベットTibet人と近いという研究成果などをアメリカへの展開状況と合わせてみたものが下図です。

私は、アジア・アメリカ原住民の人たちを考える場合、基層となったパンカルPangkal人等の南方祖型・SO型(仮称)がアジアで広まった後に、ユーラシアEurasia中東部で環境に順応した寒冷・降雪地への適応型・IDS型(仮称)の強い影響が加わったものと認識しています。

そしてこのIDS型が、いつ頃形成されたkapan munculのかの解明は人類史上の重要課題tema pentingと考えています。

IDS型の人々は、寒冷・降雪地で大型哺乳動物mamalia besarを集団で狩猟hunterする生活習慣の人々ですので、beda SO型からかなり違ったものとなっており、かつ、西ユーラシアにまで及ぶ影響力の強いkuat人たちです。

そして、科学の大進歩sainsと相変わらず争いkonflikの絶えない現代に至る興亡盛衰の歴史をリードmeminpin sejarahしてきている人たちでもあります。

日本人Orng Jepang としては、基本的に基層のSO型を維持した1万数千年lama sepuluh beberapa ribu tahunにわたる日本祖人の時代を経て、2.5-2万年前にIDS型の集団が北からdari utara北海道、次いで本州にも南下して来ています。

縄文土器が1万数千年前から作られ、万年の縄文時代zaman Jomonを経て3千年前頃に新たに大陸方面dari Asia DaratからIDS型弥生人Yayoiが渡来してきて拡大しており、現代はIDS型banyaの影響が大きい状況keadaanとなっています。

(無論、これらの間にいろいろな所からいろいろな人が列島Jepangに入って来ていますが、SO型を基盤pondasiにIDS型が大きく重なった、まあ他に比して均質性が高い島国の集団kelompok lautと言ってよいでしょう。)

これまでの定説main streamでは、アメリカへke AmerikaはシベリアSiberiaで満を持していたかのようなIDS型の人々が、ベーリング地峡dari Beringを越えて入り、南米Amerika Selatanに入って千年程度の早い速度で南端cepat sampai selatanにまで達したというものです。

これに対しdi sisi lain、ハーヴァードHarvard医大の最新のDNA研究結果は、(パンカルPangkal地域の)OS型がそのままterus南米ke Amerika Selatanに到達したということを示すという衝撃的なものです。

そして、その結果を踏まえてこれまでの各種の実証成果buktiを考えていきますと、経由地である日本人lewat Jepangが最初にアメリカに入ったpertama masuk ke Amerikaということが導かれます。

旅行bukan pariwasataではありませんので、日本列島で長期間しっかり生活hidup di Japang lama panjangし、かつ、女性とともにdgn wanita juga漕ぎ出しています。

これを機に、米スミソニアンSmithonian研究所のベティ・メガーズDr. Betty Meggers博士等のエクアドルEcuadorにおける縄文様土器Jomonの研究や同国ワシントン州コロンビア川sungai Colombiaで発見された縄文人とみられる古人骨tulang kuno(9千年前頃)などが陽の目を見るべきperlu penelitianだと思います。

次回berikutは、この最初にアメリカに入った人のそもそもの問題tema asal manusia modernに関して、お伝えします。

次のページ

前のページ

↑トップへ